【旧道ロケーション】・北海道旧道保存会メンバーによる旧道歩きの記録です。

ご注意・ここに紹介する旧道等は、実際に歩いたのが2000年から2010にかけてのものでかなり時間を経過しておりますので、現在ではほとんど消滅しているか、進入が困難であることが予想されます。「ツアーガイド」としてはまったく役に立ちませんので、あくまでも当時の記録としてお楽しみください。(本文は当時のHPに掲載していたものです)

旧国道230号線 中山峠 喜茂別側の旧道

【歴史】

 記録の上では、北からの豊平川、薄別川、南からの喜茂別川にそってエゾマツの伐採を一手に取り仕切っていた飛騨屋久兵衛がここを超えていたと記されています。すなわち今より250年ほどさかのぼった宝暦年間にまで、この峠の歴史はさかのぼることになります。今日に至るまでの変遷を、数々の資料を基に忠実に追うと、限られたスペースではとても紹介しきれないので、大雑把な流れとして箇条書きにとどめることにします。

 

 ・宝暦年間(1750ごろ)・元禄年間以来、蝦夷檜山請負として独占的に伐木を請け負っていた飛騨屋久兵衛が、この山を幾度となく越えている。

 ・文化4年(1807)・東西蝦夷地直轄に伴う調査の一環で、近藤重蔵が石狩方面よりこの山を越え有珠へ出ている。

 ・安政5年(1858)・松浦武四郎が、幕吏として虻田から札幌への山道開削の可能性を探るためにこの山を越えている。『有珠ニ路ヲ開カバ其ノ弁理如何バカリナラム』と、幕府に進言したことが、この峠を生むきっかけともなった。

 

 ・明治3年(1870)・東本願寺の若き僧侶大谷光栄が、尾去別(おさるべつ=有珠)より越える新道の開削を始める。

 ・明治4年(1871)・紋別に入植した伊達藩門下をはじめ、土地のアイヌなど、延べ5万人以上の人員をかけ、わずか1年足らずでおよそ103kmにわたる幅1.8mの道路が完成する。検分に訪れた東久世開拓使長官に随行した副島参議の言葉、「右に余市岳を望、左に札幌岳を望故、”中山峠”と名也」から、正式にこの峠の名が、中山峠となる。

 。大正9年(1920)・数度の改修工事を経て、準地方費道札幌倶知安線に指定。のちに乗用車を使用した定期バスが、中山峠から喜茂別、札幌間でそれぞれ運行されるようになる。

 ・昭和28年(1953)・二級国道230号線に指定。

 ・昭和32年(1957)・乗用車の通行増に伴い道路改修の必要性が高まり、新ルート(現国道)での新道建設が始まる。

 ・昭和38年(1963)・喜茂別側新ルートが開通。この道はこれより旧道となり、現在に至る。

 ・昭和44年(1969)・定山渓側の新道が開通。

 上記地図は、緑線が現在の国道230号線。赤線が旧国道を示しています。本文では中山峠駐車場出口から旧道に従い、約100m(最初の舗装区間は約200m)ごとに喜茂別方向の風景を捉えて順に掲載しています。

 また、この区間、途中に、明治30年代に設置された5個を含む一等水準点が、全部で7箇所、埋設されていることになっていますので、現在の状況も合わせて調べてみました。

 

撮影 2002/9/23

 スタートは中山峠駐車場喜茂別側出口。右写真の正面に向かって旧道が伸びる。晴れた日にはご覧のように、北海道が誇る秀峰、羊蹄山を視角の正面に捉えることができる。古い地図によると、旧中山峠は現在の駐車場札幌側入り口付近から駐車場を横切って伸びていた。昭和の初め頃までは駅逓所が設けられており、その位置は峠手前の現在の国道上であったらしい。

 本願寺街道碑(上写真)は、それまでの軟石のものから平成12年に新しい御影石に置き換えられ、やや南側へ移設されている。その後ろで、新道開通後に埋設された一等水準点がひっそりと静かに佇んでいる。

1 スキー場までのエントランスとして、新道開通後も、歩道付きの舗装道路として生まれ変わった旧道。

 峠の駐車場から一気に下る現在の国道と違い、あまり勾配を感じない。

 緩やかなカーブを曲がると正面にゲレンデが見えてくる。

 白い建物は中山峠高原ホテル。スキーシーズンに入ると、このあたりの道路の両側にも駐車の列ができる。

国設中山峠スキー場

札幌近郊では、最も早くシーズンが始まり、翌年、最も遅くまでスキーが楽しめるゲレンデとして有名。そのスキー場の一部を旧道が横切っている。また、麓にある中山峠高原ホテルの駐車場の一部にもかかっているため、もちろんシーズンインとともに、この旧道は全線通行止めとなる。春までの長い眠りにつくのはかつての現役時代と同様である。

 シーズン中はこの場所はすでにゲレンデとなる。旧道は一転して、小砂利の敷き詰められた未舗装路となる。かつては、地面のむき出しになった悪路だったに違いない。

 リフトのケーブルの下をくぐって、旧道は進む。

 見通しのきく崖の上に出る。眼下には、平成になって完成した中山大橋が見える。山側に、それまで使われていた国道の道筋がくっきりと残る。今も国道は随所で改良工事が行われている。

 国道を走るクルマの音も、次第に遠くなる。見通しもよく、このあたりは比較的平坦である。

 道路幅は、わだちが示す通りほぼクルマ幅いっぱいである。すれ違いのためにはどちらかが路肩の草地まではみ出さなければならないだろう。

 本願寺街道として開削された当初から、幅は一間、つまり1.8mであったらしいから、現在のほぼ半分ぐらいだろうか。当初は、馬も難渋するほどの悪路であったという。

 緩いカーブをいくつか過ぎると、数少ない直線区間となる。この先に、区間最初の水準点があるはず。

右記に紹介⇒

水準点 (807.46m)

旧道となると、いつの間にか雑草の陰に消えてしまったりする水準点が多い。そうした水準点を見つけるのも、旧道歩きを楽しいものにするエッセンスでもある。このササ薮のどこかに、水準点が隠れているかも・・・

ありました!

全身苔むして、静かに佇むその雄姿。

標高807.46mのこの水準点、埋標されたのは昭和9年6月と、他の明治生まれの古参に混じってこの区間では新しい。

 直線が続くが、その先に次のカーブが見えてくる。

 このあたりから、歩いていても微妙に下り勾配を感じるようになる。

 蛇行する旧道。写真でも下っている様子がわかるだろうか。

 植生は、シラカバがやたらと目立つ他には松の類が時折姿を見せる。明治以降、建築資材としてかなり伐木されたとも聞いているが、原生林も少なくないらしい。低木の広葉樹が赤く色づき始めている。

 今回の喜茂別向きの場合、総じて左が山、右が谷となるが、たとえば、濃昼山道であるとか、他の名だたる山道に比べてあまり”山岳地帯”という感じがしない。

 ふと気付くと、道路の山側にはかなり長い区間、側溝が掘られている。常に水が流れている。

 再び、平坦な道路となったようだ。地形図の通り、ほぼ等高線にならって進んでいる。

 すでに新道に切り替わってから30年が過ぎても、この道路は今もしっかり管理されている。

 次第に下りはじめてきた。次のカーブまでの間隔も短くなってきた。

 写真では割と見通しがよさそうだが、これは広角レンズのせい。意外にブラインドなカーブである。

 時折、忘れたころに対向車もあるので、クルマで通るのなら間違っても30km/h以上は出さない方が無難。

 地形図によれば、このカーブのあたりに標高800mの基準点があるはずなのだが…。

 再び短い直線区間。

 左へ下りながらのカーブ。このカーブを曲がりきると、正面に褐色の岩肌が見えてくる。旧道はこのあたりから徐々に険しくなる。

8 ここも思いのほか急カーブ。

岩石の露頭

写真8の所に差し掛かると、ひときわ目立つ断崖が視界に入る。開削のために削り取ったのか?とも思ったが、どうやら自然のものらしい。

今までのなだらかな道は、ここから一転、急カーブが続く難所が多くなる。

 高度が下がるにしたがって植生が濃くなってきた。

 敷石が妙に新しい。

 このあたりは、現国道からは最も離れた地点である。鳥の鳴き声、風が木々を揺らす音の他、砂利を踏む自分の足音しか聞こえてこない。

 地形図によればこの付近には区間2つ目の水準点が、この旧道が改修される前の旧旧道時代の道筋にそって埋設されているはず。さっそく探索してみることに・・・(右側に紹介⇒)

 次第に木々が、道路の上を覆うようなところが増え始め、空が見える場所が次第に少なくなってくる。

 正面のカーブを過ぎると、次の尾根の張り出しに向けて方向転換する。

 かなり急なカーブを抜ける。もっとも、これからもっと急なヘアピンカーブがいくつも登場するのだが・・・。

 全線通じて言えるのは、シラカバが道路を挟んで並木状に続く場所が多いこと。

 工事の看板が姿を現した。

 地形図に描かれた道路の軌跡よりも、実際にはもっと”うねうね”している。旧々道時代なら、なおのこと曲がりくねっていたのだろうか。

旧々道と水準点(774.11m)

この旧道も、開削から現在までの間に度重なる改修を経ている。その、かつての旧旧道がこれであるらしい。写真中央付近、道路を横切っている小さな沢があり(暗渠)、旧旧道はその手前で左方向へ分岐し、回り込んで沢を渡った後、中央に見える低木のすぐ向こう側に出て再び合流する。距離的にはほんの10mかそこらである。手前側は送電線メンテナンス用に今も使用されているせいか、土が新しく、また、幅も広い。しかし、沢を越えた向こう側はすでにササ藪に覆われ、かつての道の体裁は残されていなかった。低木の足元を流れるその沢は、長靴の足でせき止められるほど小さなものだ。その昔、迂回しなければならないほど大きなものだったとはとても想像がつかない。

だが、谷側すぐの路肩を覗いてみて納得した。コンクリートブロックがはるか下の方まで続いている。どうやら暗渠となっている部分はのちに函型の谷止め工を行い、その上に道を通したようだ。つまり、この暗渠がなかったころは断崖だったわけだ。そして、記録によればこの旧旧道にそって、水準点が埋標されているらしい。

木々の間をかき分け、すでにどこが道かわからないような状態の中を進む。なかなか見つからずあきらめかけたとき、ふと山の斜面にあるササ藪の大株に目をやると・・・、あった!。ササ藪に隠されるように、確かに水準点が。4つあったはずの保護石は、土砂が流されたからか1つ消えており、花崗石の水準点そのものも、かなり露出してしまっている。びっしりと張り付いたコケが、歳月を物語っているが、旧旧道スジにあることから、おそらく他のものと同様、明治30年代に埋設されたものだろう。

 写真ではわからないが、地形図の通りかなり等高線が詰まったところを通っているので、左は山の急な斜面、右は深い谷が口を開けて待っている、という感じ。”路肩注意”の看板がなくても、クルマで通るならこちら側は空けておきたい。

 この尾根の最も張り出した部分がここ。ブラインドな急カーブなので、歩いていても対向車が怖い。カーブを曲がったらヒグマ!何てことも願い下げだが・・・

 正面に見えてきたのはプレハブ。あそこが、何台かすれ違うダンプカーが出入りしていた工事現場か?

”路肩注意”

比較的新しい路肩注意の看板と、ロープを渡した杭が数本。ロープは目立たないし、クルマが飛び出してもあまり役に立ちそうもない感じ。だが、今ではこういった道路も数は少なくなった。

 工事現場への出入り口を過ぎたあたりから、下り勾配の度合いが強く感じられるようになる。また、砂利の状態もわだちが少なくなっているようだ。大型車両は峠側から出入りしているのだろう。

 道幅が狭くなっているようだ。路肩部分に枯葉が溜まっているため、視覚的にも狭く感じさせているかもしれない。

 木漏れ日の中を旧道は進む。道は下り勾配が続く。

 秋口ともなると日の傾きも低くなり、林が深いせいもあって日向と日陰が連続する。写真では明るさを調整しているが、日向の目に慣れると日陰は思いのほか暗い。

 硫黄川の支流を渡る小さな木造橋を渡ると、ヘアピンカーブとなって折り返す。すぐに、下流方向へ工事の際に使用したと思われる道路が分かれている。

 地形図以上に実際の道路はくねくねしていると書いたが、この写真のとおり、中央部がへこんでいるように見えるのは、本当にへこんでいるから。意外と納得のいかない凸凹があるのも、旧道ならではである。

 まるでシラカバのトンネルのよう。

 硫黄川周辺治山工事

前ページ最後の写真で見えたプレハブの正体がこれ。ここから尾根に沿って下の方へ、シラカバの林をきれいに割って林道が伸びている。この下では、喜茂別川の支流である硫黄川の、谷止め工設置工事が行われている。

硫黄川支流を渡る木造橋~地点5

ヘアピンカーブの最も奥まったところに、この小さな橋があった。よく見ると、丸太を組んで砂利を載せただけの簡素なもの。橋の名前を示すものもなく、無論いつ造られたものかは、この場では判断できなかったが、雰囲気的にはかなり古そうだ。だが、すぐ下流側にある谷止め工が建設されたのは平成9年度であり、当然、重機などがこの橋を渡ったとすれば、意外に頑丈なつくりなのかもしれない。

 このカーブを曲がりきった先に、区間3つ目となる水準点が埋設されているはず(右ページ)。2箇所続けて見つかっているので、この調子で見つけたいところ・・・

 旧道は、このあたりはややアップダウンを繰り返す。

 地図を見て気付いたが、先ほどの木造橋以降、道路幅を示す表示が、2本線から実践に変わり、細くなっていることになっている。現実には、あまり変化はない。これは、旧道が廃道となり、その後再び整備されたことを意味していないだろうか?

 しばらくは日陰の中を進んでいたが、このカーブから尾根の先端にかけて、また明るくなる。というよりは、日差しで暖かくなる。北海道の9月、標高750mは寒いのである。

 なだらかな尾根を大きな弧を描きながら回り込む。

水準点 (749.47)~地点1と2の間

残念ながら、見つけることはできなかった。道路際に埋設されていることになっているが、おそらく道路整備の一環で拡幅されたことが原因となって行方不明になったのではないだろうか。

保護石にするにはうってつけの、苔むした岩がいくつか転がってはいたのだが・・・

この謎は宿題となった

 再び次の沢越えのために、進路が南へ変わる。

 谷にぶつかり、また進路は北寄りへ。折り返しのカーブが急になっていることで、地形が険しくなってきているのを実感する。

 ヒグマについては、この付近はやはりどこで出没してもおかしくないところではある。これからキノコ狩りで入山する人も増えるだろうが、クマよけの鈴ぐらいは最低限、持参した方が身のため。

 地形図上では比較的直線的に描かれているが、地点3も含めてこの区間も微妙に蛇行している。

 写真で見た感じよりも、実際はかなりの急カーブ。

 次のヘアピンカーブが見えてくる。カーブの曲線半径が小さいのはどこの旧道でも共通だが、この旧道においては、特に顕著な気がする。少なくとも、積丹半島の湯内の旧道よりは鋭角的だ。

 ほんの100mたらずの直線。

 次のカーブ。山の形にそった実に地形に忠実な線形。ふと見ると、正面道路右側の木が揺れ、たくさんの白い鳥が飛び回っていた。

 あまり下り勾配を感じないまま、旧道は進む。両側を林に囲まれ、あまり景色が変わらず、はっきり言って疲れを覚えるころ。

野鳥の群れに遭遇~地点6

この地点でカメラを向けたとき、1本の木全体がざわっと動いたかと思うと、無数のこの鳥が四散していった。しばらくバードウォッチングを楽しむが、せわしなく枝から枝へ飛び移り、結局この1枚しか撮影できなかった。

これは、森の白い妖精、シマエナガ。

 尾根を回り込む。やや、下り気味。

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