【旧道ロケーション】・北海道旧道保存会メンバーによる旧道歩きの記録です。

ご注意・ここに紹介する旧道等は、実際に歩いたのが2000年から2010にかけてのものでかなり時間を経過しておりますので、現在ではほとんど消滅しているか、進入が困難であることが予想されます。「ツアーガイド」としてはまったく役に立ちませんので、あくまでも当時の記録としてお楽しみください。(本文は当時のHPに掲載していたものです)

旧幌内鉄道の遺構 張碓第五トンネルと張碓川橋梁

 ~幌内鉄道~

 

 明治6年、北海道開拓時代、開拓使雇としてアメリカから渡ってきた地質学者ライマンの調査で、幌内付近に未曾有の石炭資源があることがわかる。その運搬方法をめぐっていくつかの案が議論されていた。まず、幌向の石狩川付近まで鉄道を敷き、石狩川を下って小樽まで水運するという案。だがこれでは積み換え作業が必須で経費がかさむ。そして幌内から室蘭港まで鉄道を敷くという案は、札幌から室蘭にかけては沿線に火山灰地帯が多く、線路適地が少ない。また、室蘭港の、背後に山を背負うために狭いという地形的問題から退けられる。結局、明治9年に来道したクラークが強く進言した、幌内から札幌本府を経て小樽港(手宮)まで鉄道を敷くという案が検討され、土木技師クロフォードの手により、翌10年、調査が開始されることとなる。

 クロフォードは経路の選定にあたり、特に銭函から熊碓(小樽若竹町付近)にかけての馬車道に着目し、この区間のほとんどを線路用地として転用することを提案、開拓史はここで幌内~手宮間の鉄道建設を決定し、明治13年1月、第三若竹トンネルの開削を皮切りに本格的な工事がスタートするのである。

 ~札幌~小樽間の馬車道~

 

 明治5年ごろから、札幌本府から銭函、張碓海岸を経て海沿いに小樽若竹町に至る道の建設が始められていた。幌内鉄道の建設に先立つ明治12年暮れには、難工事だったこの張碓第五トンネルを含む張碓海岸~神居古潭が開通し、馬車の往来が始まっていた。しかし、降って沸いたような幌内鉄道建設に、わずか2ヶ月間ほどで、銭函~若竹町間は道路としての通行が禁止されてしまう。だが、鉄道になじみのなかった当時は線路伝いに歩く人々が多く、接触による事故者が絶えなかったという。

 この張碓第五トンネルは、明治40年ごろまでは鉄道トンネルとして使用されていたが、大正期の鉄道近代化の一環として、トンネルの海側が埋め立てられて線形変更が行われたために、再び人道トンネルとして使用されることとなった。だが、明治37年には張碓から小樽へ山側を大きく迂回する新道(通称 軍事道路)が開削されていたこともあり、すでにこのトンネルを通るものもごくわずかの人たちだけだったようだ。昭和に入って、現在の国道5号線が整備されると、もはやこの海岸線の馬車道跡も省みられることなく、荒廃していった。

 

 時代は経て昭和30年10月14日、小樽市は、馬車道、幌内鉄道を通じ、唯一残されていたこの張碓第五トンネルと隣接する張碓川橋梁を保存することを決め、現在に至っている。だが、実際にはほとんど手をつけられることなく放置されているに過ぎない状況である。

 函館本線で小樽行きの電車に乗る。銭函を過ぎて1、2分ほどで、日本海側に細い堤防でつながれた恵比寿島が見えてくる。そして、その直後に反対側の窓の外を注意深く眺めていると、一瞬、岩にくりぬかれた小さな洞窟を見つけることができる。これが、北海道内では現存する最も古い鉄道トンネル、張碓第五トンネルである。

 これは、海岸へ降りる遊歩道から見下ろしたもの。残念ながら遊歩道は現在、通行禁止となっている。

 トンネルの銭函側に隣接する張碓川橋梁。幌内鉄道時代、全線の橋梁のうち3箇所だけが建設当初から鉄橋だったという。この張碓川橋梁には、現在もしっかりした鉄製のケタが架けられているが、当初からのものかどうかはわからない。

 しかし、橋脚土台部分、表面のコンクリート補修が川に洗われて露出している赤い煉瓦積は、まぎれもなく当時からのものだろう。その横を、電車がひっきりなしに通過してゆく。

 大きく口を開ける張碓第五トンネル。通称”義経トンネル”と呼ばれている。小樽市がこのトンネルを保存するにあたり、当時すでに函館本線張碓トンネルが存在していた。そのため、明治13年11月11日の記念すべき試運転で、初めてこのトンネルを通過した”義経号”にあやかって名づけられたのだという。

 

 頭上にはオーバーハングする岩も見られ、通行の難所だったことが容易にわかる。

 いかにも素彫りのトンネル。青みがかった黒灰色に、青白いやわらかい岩が隙間を埋めるように重なりながら露出している。

 以前は、近くの漁師の漁具置き場として使用されていたこともあったようだ。しかし、今日まで残されているとはいえ、すでにトンネルの銭函側の上部は一部崩落しており行く末が案じられる。

 

 写真左上は小樽側口を、左下は銭函側口をそれぞれ見たもの。トンネルの全長は14m。小樽側を出るとすぐ、函館本線の防護壁にぶつかり、その先へは進むことができない。もちろん、このトンネルの延長上に現在の線路がある。銭函側は、小規模ながけ崩れに覆われた路床跡が10mほど続いて、張碓川橋梁となる。

 

 トンネルの壁には、”カギ状”の鉄の杭が出ている部分がある(写真右)。いつ、何の目的で使用されたものかは、現場では判断が付かなかった。

 恵比寿島周辺は以前から海水浴場として親しまれてきた場所。また、北海道唯一のアオバト営巣地としても知られ、野鳥ファンが訪れることも多かったはず。線路を横断する必要があるため、事故対策として現場付近は立ち入り禁止となってしまった。何らかの安全対策を施して、島と、この貴重な産業遺構を含む張碓海岸一帯を自然遊歩道化できないものだろうか。

撮影 2001/11/23

ⒸhiDeki (hideki kubo) 2001           Contact ・ st-pad@digi-pad.jp

 

ご注意・この北海道旧道保存会ホームページ『裏サンドウ喫茶室』では、寄稿者の方々の研究成果を発表しています。掲載の文・カット・図版等はそれぞれ著作者の権利が保護されています。無断で他の媒体への引用、転載は堅くおことわりします。当ホームページ掲載の地図は、国土地理院長の承認を得て同院発行の当該地域を含む5万分の1地形図及び2万5千分の1地形図、数値地図25000及び数値地図50mメッシュ(標高データ)を使用、複製したものです。<承認番号 平13総使、第520号><承認番号 平13総複、第390号>このホームページに掲載されている場所は、自然災害や経年変化などで取材時よりも状況が著しく変化している場合があります。