【旧道ロケーション】・北海道旧道保存会メンバーによる旧道歩きの記録です。

ご注意・ここに紹介する旧道等は、実際に歩いたのが2000年から2010にかけてのものでかなり時間を経過しておりますので、現在ではほとんど消滅しているか、進入が困難であることが予想されます。「ツアーガイド」としてはまったく役に立ちませんので、あくまでも当時の記録としてお楽しみください。(本文は当時のHPに掲載していたものです)

積丹半島の旧道 豊浜~沖町

「湯内と余市~古平の山道」

 湯内は「ゆうない」と読む。現在の余市町豊浜町で、いつの頃からか現在名に変ってしまったが、日本海に注ぐ小さな川に今でもその名が残っている。アイヌ語で「ユー・ナイ(温泉の・川 の意味)」から付けられたという説がある。あるいはかつて上流に温泉が湧き出るところがあったのかもしれない。

 

 この湯内を含め、余市町、古平町の歴史は古く、遠く元禄の時代にまでさかのぼるという。人の営みがあればもちろん道も拓ける道理で、大正8年測量の5万分の1地形図にはすでに、余市から出足平(でたるひら 現、白岩町)を通り、島泊(現、潮見町)、湯内、沖村(現、沖町)を経て古平へと至る山道が記されている。そのほぼ全域が山越えルートであり、当初、人馬が通れるだけの踏み分け道であったことは容易に想像がつく。その後、幾度となく改修され昭和に入ってからは路線バスが運行されるほどのしっかりした道へと変化していったようだ。生活道路としても、海産物を運ぶ産業道路としてもそれだけ重要な幹線だった。

 

 紹介する旧道は、その余市~古平間の中でも比較的最後まで使われていたと思われる旧道部分、湯内~沖町の現在の姿である。沖町側から旧道を登り、旧図上でも名前のない峠をパスし、豊浜へと至るルートの探索。せっかくなのでこの「名無し峠に命名する」という目的も、含まれている。

 

(2001/11/28注記 ・ 昭和25年発行の『小樽土木現業所管内図』にはこのルート上にも『湯内峠』と記入されています。)

 

~2001年5月20日探索~

 

左が昭和61年修正測量の2万5千分1地形図『古平、豊浜』。青線は現在の国道229号線を示し、赤線が旧道を示している。一部破線のところは、沖町側が改修前の道筋、湯内側が潮見町へ抜ける旧道を示している。

右は、大正8年測量の5万分1地形図『古平』。中央の緑線が旧々道で、正真正銘の『湯内峠』。

掲載している地形図は、国土地理院発行の地形図、5万分1「古平(大正8年)」、および2万5千分1「古平 豊浜(ともに昭和61年)」を使用し縮小・再構成して掲載しています。また、本文中の3Dイラストは、国土地理院発行の当該地区の数値地図を使用しています。

 

沖町 豊浜新トンネル脇の林道口からスタート

 

昭和33年10月15日に、悲願であった海岸沿いの新道が開通するまでは、わずか2kmほどしか離れていないこのふたつの集落の間も、クルマが通行できる道とはいえ、およそ8kmの山越えをしなければならなかった。また、さらに時代をさかのぼると、かつては湯内の集落からすぐ西側の尾根を越える、「湯内峠」という旧々道も存在していたが、こちらはかなりの急勾配を、歩いて山越えしなければならない難所でもあった。

旧道の方は、昭和61年修正測量の地形図には幅員1.5m未満の道路として記されているが、旧々道は残念ながら、地形図からは消滅してしまった。

セタカムイ岩を望む、沖町側新豊浜トンネル入り口脇の林道が、現在のところ旧道へと進むことのできる唯一の道である。

<AM11:11>

 

国道沿いには、昭和33年の開通を記念した碑がある。

林道は、すぐそばを流れる沢づたいに緩いのぼりとなっているが、舗装された歩きやすい道である。

今回の参加者は、コンターサークルのメンバーに私を含めた総勢8名である。

<AM11:16>

林道の尽きる直前、山にぽっかりと口をあけるトンネルを発見。旧道保存会の根布谷氏が偵察に・・・。

トンネルは、下へ向かってかなり急勾配に降りているらしい。トンネルの目的が判断できるヒントは何もなかった。

<AM11:19>

クルマではもはや無理だろう。先ほどのトンネルのあったあたり、トラックが旋回できる程度の空き地の先からは、いかにも旧道然とした道が続いている。

やがて電信柱を組み合わせたような小さな木橋を渡る。わざわざ架け替えたのであろうか。かつて路線バスが走っていたというからには、当時はこの程度の華奢な橋であるはずはないとも思うのだが・・・。

<AM11:19>

春の雪解けシーズンとあって、ところどころぬかるんでいるが、道自体は幅もあり、しっかりしている。しかし、盛夏には雑草が道を覆い尽くすだろう。

区間中、こうした倒木が数多くあり、新国道開通後は、道路としてあまり省みられることがなかったことが想像できる。

<AM11:24>

次第に高度を上げていくと、ふたつめの、小さな沢を渡る木橋に出会う。こちらも丸太を組んだだけのもので、一面苔むしている。

当日は晴天で暖かく汗ばむ陽気だったが、周りを森に囲まれ日陰となる旧道は、通る風が涼しく、心地よい。

橋を渡ると次第に勾配がきつくなり、急なカーブも増え、次第に山道らしくなってくる。

<AM11:27>

旧道の、古い道筋を発見・・・

 

ひとしきり森の中を登ると、藪の中に石垣があるのを発見。旧図によれば、旧道に並行する、沖町から登るもう一本の道がある。やがて標高50mライン付近でこの旧道と合流するのだが、ここがその合流点と思われる。

ただ、その道自体、石垣の上なのか下なのかは不明。やり過ごして振り返って見る限りでは、左のルートと見るのが自然だが、深い藪に埋もれてしまっているので確認できない。おそらく、この旧道が使われた初期の頃の道筋ではないかと推測する。

いかにも時代を感じさせる、石積みの壁。深い藪に埋もれ、どこまで続いているのかは確認できなかった。

<AM11:34>

高い木々に囲まれながら、さらに上り勾配を進む。昨今、北海道はヒグマの出没が相次いでいる。各人が持参した笛や、鈴の音が、山に響き渡る。

<AM11:45>

標高110m付近で視界が開けると、高圧電線の鉄塔が出現。ある程度この旧道が原形を保っているのは、おそらく鉄塔のメンテナンスのために利用されているからだろう。 <AM11:53>

コンターサークルを主宰する堀 淳一氏。森の中に何かを見つけたのか、中版カメラでフレーミング中。

<AM11:57>

旧々道の探索は次回への宿題とし、旧道へ戻る。

上は、分岐点方向(沖町方向)へ伸びる旧々道と根布谷氏。

左は、旧々道上から見た旧道。「湯内峠」へはさらに左方向へ斜面を登るが、旧道はさらに山の中を奥へと進む。

<PM12:17>

旧道に戻り先へ進むと、電信柱が倒れていた。切り口はすぱっと切り取られたようになっていて、明らかに人為的に撤去したもの。濃昼山道と違い、プレートがついたままであった。昭和29年11月、と読み取れる。

ところで、旧図によればすでに山の方へ登っていった旧々道に沿って、湯内への電線が通っていたようだが、この電信柱がその時のものなのだろうか。全線に渡って電信柱が発見できたのはここだけだった。

<PM12:21>

埋め込んだものか、天然の岩盤のものなのか・・・。こうした”法面”が随所に見られる。高度が増すにしたがって道路も幅が広くなり、路肩も意外にしっかりしている。このあたりを見る限り、下草刈程度で、今でも立派に道路として通用しそうだ。

<PM12:26>

ただ、その雑草も場所によっては、ご覧の通り、道路を埋め尽くすほどに広がっている個所も少なくない。

<PM12:39>

恐怖!ヒグマの痕跡・・・

 

旧道に入るといろいろと発見があって楽しい。これもそのひとつ。人為的に置いたとしか思えない石。二股になった木の枝に乗っかっている。そばを見上げると、一面石壁となっているので、おそらく偶然その枝の上に落石したものだろう。<PM12:43>

 

落石といえば、先ほどのような岩盤を削り取ったような切通や壁が見られる割に、道路が落石で埋もれているような個所は見つからない。原形をとどめているのも、崩れにくいという地形的要因があるのだろう。

しばらく進むと、道路をふさぐように一本の倒木。だが、それを見た私は青ざめてしまった。木の皮が剥げて白い部分が露出している。ヒグマの”爪とぎ”を連想させる生々しい姿である。あるいは、鹿の仕業かもしれないが、そうなると、「鹿のいるところにはヒグマもいる・・・」という、専門家の言葉が思い出されてしまう。

<PM12:53>

標高150m付近を過ぎると、次第に旧道も険しくなり始め、ヘアピンカーブの連続となってきた。カーブの奥はやはり弱く、常に水が流れているような個所もある。そのいくつかは路盤の土砂を流し、極端に道幅が狭くなっているところもあった。

 

昼も過ぎたので、食事をとることに。

<PM1:20>

スタート時には汗ばむ陽気も、さすがにここまで登ると日陰は寒い。じっとしていられないほど。

恐怖!ヒグマの痕跡・・・

 

旧道に入るといろいろと発見があって楽しい。これもそのひとつ。人為的に置いたとしか思えない石。二股になった木の枝に乗っかっている。そばを見上げると、一面石壁となっているので、おそらく偶然その枝の上に落石したものだろう。<PM12:43>

 

峠の頂上の推定標高は260m。現在地は200mを越えたあたり。まだまだである。

<PM1:43>

道中、珍しく両側が切通しとなったカーブに差しかかる。外側に登って見下ろすと、カーブの様子がはっきりとわかる。いかに道幅が広いかがわかると思う。

 旧図に示された”がけ”部分。地形図からもかなりのものと想像させたが、実際にその個所にたどり着くと、想像をはるかに越えていた。その落差は100m近くはあるのではないだろうか。ほとんど垂直に切り立っている。かつては、ここをバスが走っていたのだ!。信じられない。

<PM1:45>

これまでも数箇所、崩れかけていたカーブがあったが、ここは、昨年の稲穂峠を思わせるほど、旧道がきれいに押し流されて消失していた。全行程中もっとも危険な個所かとも思われたが、幸い、稲穂峠の時と違ってぬかるんでいるわけではなかったので、さほど時間をかけずに対岸の旧道へ取り付くことができた。

<PM1:51>

帰ってから発見! ”山親父の影”?・・・

 

向かって左側が、岩肌が連続するようになってきた。ピークが近づいていることを想像させる。相変わらず道は広く、雑草があることを除けば非常に歩き易い。

豊浜トンネルの事故以来、いくつかのグループがこの旧道の再利用を訴えているという話を聞いた。生活道路を奪われること=死活問題となる地元の事情を考えた時、このままこの旧道を朽ち果てさせるのは、やはり惜しいと思わざるを得ない。

<PM1:55>

 

小さな沢をまたぐ谷あいのカーブ。

実は、写真の整理をしたのはこの探索の3日ほど後だった。その時に、ふと見つけたのがこの写真に写っている黒い影。

岩にしてはそこだけ黒いので不自然。まさかとは思うが・・・。

<PM2:04>

閑話休題。

エゾノリュウキンカと、ツツジの仲間。

そのほか、春の山菜、さまざまな花が、道中、目を和ませる。

路肩を引き締めている石積み。造られて半世紀近くが過ぎても崩れずにしっかりと残っている。<PM2:12>

頂上直前。次は”山親父の落し物”を発見・・・

 

そして、それがこの峠の名となる・・・?

とうとう、その存在を裏付ける決定的な物的証拠を発見してしまった。さほど時間がたっているとは思えない、ヒグマのフン(一応その場全員の意見が一致)。

頂上まであとわずかというところであった。以後、妙に参加者の声が上ずっていたことは言うまでもない。

<PM2:13>

やがて左側の林が低くなり、あたりの視界も開けてくる。頂上は近い。地形図上では、実は峠をパスした反対側の道路とは、直線距離で100m程度しか離れていない。

「だったらいっそ、尾根を越えるまっすぐな道を作ってくれりゃいいのに」と、思ってしまう。

勾配は次第に緩くなってきた。

<PM2:20>

道の向こうに青空が見えた。峠の頂上である。

が、開けすぎていないか?

それもそのはずで、豊浜側からは現在も造林作業などのために使用されている、現役の林道だったのだ。

やや拍子抜け気味だが、おそらく実際の頂上はもう少し上にあったのかもしれない。きれいさっぱり整地され、一部には伐採された木が積み上げられていた。

<PM2:24>

もちろん、行程の無事を祝って記念撮影。

<PM2:33>

さて、今回の目的のひとつでもある、この「名無し峠」への命名。

「新・湯内峠」 「旧道なのに”新”はないだろー」、

「それじゃやっぱり”名無し”峠」」それじゃあんまりだ」などというやり取りがあったかどうかは定かではないが、結局、堀 淳一氏のツルの一声、「クマの○ンコがあったから、クマンコ峠!」で決着とあいなった。

余市鉱山豊浜採鉱場への下り・・・

 

下りはただひたすら”普通の林道”であった。管理されているだけあって、眺めは非常によい。余市方向の山並が見通せるポイントが多い。

ポイントが多いといえば、いくらかは手直しされているだろうが、美しい(?)見事なヘアピンカーブが連続している。

沖町側の長さの半分ぐらいで同じ高度を下っているので、かなりな急勾配である。単調な砂利道も手伝って、ひざが”わらう”。

→第一のヘアピンカーブ<PM2:39>

余市方面の山並み。正面の山脈の向こう側は出足平峠。

 

春の陽気に、バッタの幼虫が日向ぼっこしている。

都合、3つ目のヘアピンカーブにして、1枚の写真に収まるほどの急カーブ。旧道時代はもっと急だったのだろうか。

<PM2:59>

 

下りきると、鉱山施設跡がちらほらと見え出す。重機置き場と思われる空間や、一見、今となっては無意味と思われる庭(?)の縁石など。

余市鉱山・・・

 

湯内地区の鉱床は明治18年に発見され、以後、大正7年頃から組織的な採鉱を始めた。一方、余市町豊丘には選鉱場が設けられ、鉱石輸送のためにこことの間に索道を架設して、銅、鉛、亜鉛、硫化鉄などが処理された。途中幾度か経営が代わったりしたが、最終的に資源が枯渇する昭和38年まで採鉱が続けられ、地域経済の活性化に大きく貢献した。盛期にはこの鉱山地区にいくつもの社宅が並び、ひとつの集落ができるほどだったという。

現在はその社宅群もなく、跡地に記念碑と庭園が作られ、索道の鉄橋跡など、いくつかの産業遺構が残されるのみとなっている。

<左上>道路に埋もれたレール。索道に使われていたものか・・・。

<右上>道路と交差し、湯内川を渡る鉄橋と、その先に見えるトンネル跡。余市町豊丘に続く索道かもしれない。

<左中、下>跡地に作られた庭園と、かつての集落を示した案内板。

今歩いてきた道の周りには、山にはさまれた狭い土地に、ただ野原が広がっているだけなのに、案内板は、神社をはじめ、数多くの社宅や数件の公衆浴場が並んでいたことを伝えている。とても当時の人々の生活などを想像することはできない。

潮見町へ通じる旧道、そして旧々道「湯内峠」・・・

 

下りてみて気づいたが、豊浜側はこの庭園のところでゲートが閉まっており、一般車が進入することはできない。そのそばには「熊出没注意!」の立て看板が・・・。

沈殿池はいまだに赤く染まっている。異臭はないが、見ていてあまり気分のよいものではない。

湯内の旧道めぐりもいよいよ終点が近づく。正面の山の左側は豊浜、海である。

このあたりではまだ、木製の電信柱が現役だ。所々に碍子が散乱しているところをみると、かつてはもっと立っていたのだろう。この道の両側も、住宅が並んでいたに違いない。

<PM3:26>

鉱山街のはずれに、橋梁の跡を発見。木製の橋脚の折れ具合を見ると、橋自体は撤去したのではなく、自然災害で流されたのかもしれない。だが、橋台の方はしっかりと残っている。これも、旧道時代の名残である。ここで旧道は湯内川を渡り、川をはさんだ反対側を平行した後、山を登りつめて潮見町へ下っていく。

<PM3:45>

ちなみにコンターサークルでは、以前、潮見町側のこの旧道にアプローチしている。こちら側で待っている”豊浜班”と、大声で対話ができるほど近く感じるのに、湯内川に阻まれなかなか合流できなかったそうだ。

以上が、『湯内の名無し峠』探索編である。思った以上に”道”として残っており、”緊急用の連絡道として復元してはどうか”という声が挙がっても不思議はないように感じる。もちろん、”道造り”はわれわれが思うほど簡単なものではないことは百も承知の上・・・。

 

おまけ(?)としては、豊浜町にある学校の旧校舎裏手から登る小道を見つけ、作業中だった地元の人に訊いてみると、どうやらこれが「湯内峠」への旧々道らしいことがわかったこと。しかも、頂上付近にある記念碑までの豊浜側は、下草刈りなど定期的に整備され、比較的容易に歩くことができるらしい。ただし、「クマは出るよ」と、念を押されたが・・・。

 

いずれにせよ、宿題ができたことに違いはない。沖町側の旧々道の所在は確認したので、近い将来必ず「歩いてみましょう」ということで今回の探索はお開きとなった。

 

~積丹半島の旧道 豊浜~沖町~ 終

 

この旧道歩きについて、エッセイスト 堀 淳一さんのエッセイが、財団法人北海道開発公社が発行している「開発こうほう No、460 2001年11月号」に掲載されています。

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