【旧道ロケーション】・北海道旧道保存会メンバーによる旧道歩きの記録です。

ご注意・ここに紹介する旧道等は、実際に歩いたのが2000年から2010にかけてのものでかなり時間を経過しておりますので、現在ではほとんど消滅しているか、進入が困難であることが予想されます。「ツアーガイド」としてはまったく役に立ちませんので、あくまでも当時の記録としてお楽しみください。(本文は当時のHPに掲載していたものです)

旧国道231号線 濃昼~尻苗

 「濃昼山道」

 「ゴキビル」と読む。現在、数多くの自動車が行き交う国道231号線も、この濃昼を含む厚田~浜益間においては、1857年(安政4年)にまでその歴史はさかのぼる。当時、厚田の場所請負人だった松前浜屋与三右衛門が、莫大な私費を投じて安瀬~濃昼間の陸路を開墾したと伝えられる。それまで海岸沿いに磯舟を渡す程度の交通に頼っていた漁民にとって、海況に左右されない道路の開通は、その生活に大きな影響を与えたはずである。明治、大正、昭和と、その後の約1世紀に渡って、この濃昼山道は、まぎれもなくメインストリートであった。

 しかしその素性は、おおよそ”道”とは言い難い悪路(右の地図は、昭和10年代の北海道道路地図に掲載された濃昼周辺。国道番号のつく”道路”ではあるが、実態は、自動車通行の及ばない、”歩く国道”) であったという。海岸線に比較的近いルートでありながら、日本海になだれ込む岩塊を背負った標高300メーターを越える山中に、濃昼山道は造られた。昼なお暗い森林、ササ藪に覆われた急斜面、ようやく人が通れるほどの狭い道・・・。

 山道は濃昼峠を下り、そのまま濃昼の集落を過ぎるやすぐに濃昼川対岸の斜面に取り付き、ひとしきり九十九折を上り詰め、再び尻苗、送毛の集落へと下りてゆく・・・。

 今回、紹介する旧道は、その濃昼山道より北側(濃昼の浜益側)、尻苗(シリナエ。かつては、しんない と呼ばれていた)周辺の山道(=昭和30年代まで使用されていた旧々道)の”今”と、昭和58年ごろまで使用されていた先代の国道ルートである。この旧国道の方は、比較的最近まで使われていたにもかかわらず当時はすれ違いが容易でないほど道幅が狭く、急勾配の続く砂利の浮いた走りにくい道だった。

 

~2000年11月5日探索~

 

注:厳密には、いわゆる『濃昼山道』は厚田の安瀬(やそすけ)より山中へ登り、濃昼の集落へ至る区間を指して呼ばれていますが、便宜上、今回探索した区間もその延長にあたるので、表題では『濃昼山道』を紹介しています。

 上の2枚の地形図は赤線は濃昼山道ルート、緑線は、改良前の旧国道を示している。

※この「旧道ロケーション5 旧国道231号線 濃昼~尻苗」に掲載されている地形図は、国土地理院発行の地形図、5万分1「厚田 (大正8年)」、および2万5千分1「濃昼 (昭和58年)」の地図を元に縮小・再構成して掲載しています。

<写真・文:久保ヒデキ>

 今は昔、”濃昼山道”の頃、険しい濃昼峠を下りきって集落に辿り着いた人の目には、この正面の山腹に刻まれた険しい九折の山道が見えたことだろう…。現在は、そのルートを送電線が走っている。

 

 濃昼は、厚田、安瀬、ルーランと続く、西蝦夷地屈指の魚場として、松前藩時代より栄えた、古い歴史を持つ漁村である。

 ここは石狩市に併合されるまで集落を南北に分断する濃昼川が行政区分となっていた。向こうが旧浜益村、手前が旧厚田村である。こうした例は全国的に見ても珍しい。

 治水工事や送電線設置のために、山の斜面は削り取られ、古い地図に載っていた九折の山道は見る影もない。

 しかし、コンクリートの壁をよじ登ると、送電線のメンテナンスのためのものと思われる階段が作られていた。”山道”の生まれ変わった姿と思えなくもない。かなり急な斜面を一気に登詰めた。

 濃昼の集落を一望できるすばらしいロケーション。山塊がそのまま日本海へなだれ込む様が、手にとるようにわかる。また、濃昼峠への”山道”ルートも、ここから確認できる。

 写真中央の沢伝いに左方へ駆け上り、薄茶色い林の部分を通り抜け、さらに左上の山の尾根に向って濃昼山道は伸びていた。

 山道の九折は、濃昼トンネル上部で、その痕跡を見つけることができた(赤線)。地形図による推測だが、こんな九折を繰り返しながらトンネル前を横切り、先ほどの送電線箇所を下っていったのだろう。

 トンネルの開通は昭和61年10月のことで、その開通まではすぐ左側にある切り通しを通っていた(緑線)。トンネル開通後すぐに廃道となり、現在は土砂が高く積まれて自動車で通ることはできない。現在の国道はトンネル箇所に限らず、かなりの曲線区間がショートカットされて改良され、また、拡幅されている。

 高く積み上げられた土砂に、大型の4輪駆動車の侵入と思われる轍が残っている。

 その土砂の上から振り返ると、旧道の痕跡がうかがえる。

 旧道には絶景ポイントが多い。この切り通し部分の急カーブを抜けると、こうした眺めのよい景色がしばらく続く。新道となり交通の安全がはかられると同時に、こうした”観光資源”が失われてゆくのは、やはりやむをえないことなのだろうか。

 廃道後、自然への復元のために相当の土砂を運び込んだらしい。旧道部分はすっかり山の斜面と同化してしまった。長年の歳月で、背丈ほどの雑草が生い茂る。

旧国道の路面は、この斜面の高さからおおよそ、3~5メーターほど下にあるだろう。右写真は切り通しから曲がってくる旧道ルート上の様子。左はその反対側、浜益方向を見ている。

 土砂が高く積もれている中にも、かつて道路であった証拠がすぐに見つかった。旧式の”ガードロープ”。中には崩れてしまったものもあるが、いくつかは撤去されずに残されている。

 写真右のものは、その錆び具合などから当時からのものだとわかるが、左のタイプは後年付け替えられたものだろうか。比較的新しい。

 

 道路はこのまま濃昼トンネル浜益側出口へ向い、現在の道路と重なる。

しかし、当時はこれほど直線的なものではなく、道幅も狭かった。

 濃昼トンネル浜益側出口の上に立って、今歩いて来た方向を振り返る。ガードが目印となり、旧道ルートが判別できる。

 下は、浜益方向を見たもの。旧道はトンネル出口を横切るように進み、その先はいくつかの緩いカーブが続いていた。

 また、道路高も実際には現在の道路よりも下にあり、浜益方向へ向って下り勾配となっていた。

 上右写真奥で先の右カーブを曲がりきったところは、このような空地になっている(左写真)。ここも、山すそに沿って旧道がカーブしながら走っていたところ。

 

 今回の探索のもうひとつの目的、”山道”探しは、このあたりからはじめることにした。

この空地の一番奥まった沢より斜面を登ることにした。予想通りなら、標高差で30mほど登ったところに山道があるはずだ。

 当日は霧雨模様だった。ぬかる足元に気をとられながら、雑木の生い茂る急な斜面を登る。

 途中、明らかに電信柱だったと思われる丸太を発見。なぜか長さは1mに満たない短いものだったが、撤去の際の都合だろうか。それとも、こうして投げ捨てやすいから?

 他に、もう1本、この先で見つけた。漆か、あるいはコールタールを塗った独特の色をしているので、すぐにそれとわかる。こういったタイプの電信柱は、つい30数年前までは、市街地でもあたりまえのように使われていた。

 角度を増してきた斜面の、いっそう繁ったササ藪をかき分けて登ると、唐突に旧道が出現した。予想していたより、かなり立派なものである。ごく最近雑草を刈りとられたのだろう、かなり踏み締まったしっかりした”道路”だ。興奮のあまり根布谷氏が荷物を置いて先へ・・・。

 現在の地形図にも表示されている”122.01m”の水準点を探すべく、濃昼側へ山道を戻る。検討の結果、今登ってきた沢を越えて、最初の大きな尾根のカーブ付近に、水準点が眠っているはずだ。

 その途中、再び電信柱の残骸が。途中から切り取られることなく、ほぼ一本分、山道をまたぐように横たわっている。

 歩き易い上り勾配の道を進む。やがて尾根の急カーブにさしかかった。

 

 さっそく水準点探索を開始するも、それらしい物はなかなか見つからない。小休止もかねて、一向にやむ気配のない小雨の中、昼食をとることにした。

 保護石にするのには手ごろな大きさの岩をいくつか見つけるが、本体は見つからなかった。消失してしまったのだろうか…。あるいは何らかの理由で撤去された?

※この水準点は、結局見つかったのだが、その顛末は後ほど・・・

 この区間も、現在の国道の比較的すぐそばを通っている。林の向こうに、ハイスピードで駆け抜ける自動車が見え隠れする。この山道を往来した人々は、こういう情景を想像できただろうか・・・。

 結局見つからなかった”122.01m”の水準点は後回しにして、尻苗トンネル方向へ進路を反転することにした。再び、先ほど登ってきた沢の部分を通り過ぎ、相変わらず歩き易い山道を進む。秋も深まってきたこともあり、木が多い割に葉が落ちて見通しがよい。山道の先の様子まで見通せるほど。

 同行の根布谷氏の”旧道格言”によると、「送電線あるところ、旧道あり」だそうだ。

 この濃昼山道はまさにそんな状況にあり、「典型」らしい。その最初の証明が目前に現れた。旧道を横切るように頭上には電線が通っている。メンテナンス用の通路も電線の下をなぞるように作られており、ここでは山道と交差している。送電線を見守る人々が利用しているわけで、つまり、目的は変わったものの、現在でもこの区間の山道は”道路”として機能しているということだ。

  送電線下を通過し、さら進むと小さな祠があった。かなりの古さが目に付くその建物には、「尻苗山 八大龍神」と書かれた看板が、はるか眼下に広がる日本海を見下ろしている。漁の安全を祈願してのことだろう。蝦夷と呼ばれたころからこの地に住む人々は、漁が生活の糧であった。このように海を見下ろす高台に、漁の安全と大漁を祈願して作られた神社は、少なくない。

 山道から祠までは、不ぞろいだが石積みの階段が作られ、一方山道から下の方へも、かつて通路-表参道が存在していた痕跡が残されていた。

 一瞬、強い雨足となり、急遽「八大龍神」様の軒先を借り、雨宿りさせてもらうことに。

 他の神社同様、ここも、初夏のころにはささやかな祭が営まれるらしい。

 日が短い初冬、行動時間は限られている。すぐに小降りとなったところで、先へ進むことにした。

 ほどなく、現在参道として利用されている、国道へ下りる道との分岐点に出る。写真では、赤い線が山道部分で、中央から左へ降りると、鳥居のある国道へ出る。

 その、分岐点で興味ある標石を発見。表面には、「建設省」「昭和三十六年」「道路敷地境界標」と書かれている。山道の境界を示す目的なのだろうか。昭和36年ごろはすでに現在の国道の元となる海岸線ルートが作られ始めていたと思うが、それでもなお、境界標をこの山道沿いに置かなければならない、他の理由が何かあったのだろうか。

 さらに先へ進むと、突然視界が開けてしまった。

 その理由は、ご覧のとおり。現在の国道建設のために、山の斜面が山道ごとそっくり削り取られてしまっていたのである。切り取られた山道の端に立って、恐る恐る下をのぞきこむと、はるか下の方を国道が走っている。まったく予想外の展開となってしまった。

 大正測量の地形図によると、確かに、この付近からはぐっと海岸に寄ったルートになっている。

 もっとしっかり読み取っていれば、もっと早く気付いていたのかもしれないが、一瞬、根布谷氏ともどもその場に立ちすくんでしまった。

 結局、先ほどの鳥居へ下りる道路まで戻り、国道を歩かざるを得なくなってしまった。

 トラクターでもない限り登ることはできないのでは、と思えるほどの急な道を、時々足を滑らせながら下る。

 鳥居をくぐると、旧国道跡の広い空間に出る。現在はショートカットされ、道路も持ち上げられて”竜神橋”という橋に変わってしまった。よほど注意しなければ、鳥居の存在に気付かずに通り過ぎてしまうだろう。

 旧国道部分は、昭和55年頃から本格的にはじめられた改良工事にともなって、徐々にその姿を消していった。この竜神橋付近も、一部を残して廃道となった。改良前がかなりくねくねと曲折していた道路だったので、ショートカット改良工事の結果、道路沿いにこうした空地が増えることとなった。

 ここまで降り続いていた小雨も、次第にやんできた。雲の切れ間からは西陽が差しはじめる。

 先ほど消滅していた山道を、今度は下から見上げる。地形図によれば、かなり急勾配で海岸へ下っていることから、おそらく山の斜面に沿ってこのようなラインとなっていたのだろう。

  ほぼ直線となった国道を、脇を高速ですり抜ける自動車を気にしながらしばらく進む。トンネルの少し手前、小さな沢があった。地形図を見ると、こんな小さな沢でも、山道はわざわざ上流の方へ進路を変え、渡っている。濃昼峠の方では、見通せば対岸まで数10mほどの幅なのに、延々1キロ近くにわたって上流へ迂回しなければならない箇所もある。なんとも無駄の多いことであるが、当時はあたりまえのことだった。技術がなかったこともあろうが、地形を造りかえるという発想ではなく、厳しい地形環境を受け入れざるを得なかった道造りだった、とも思う。

 この沢の場合、写真は国道の山側すぐ下を撮っているが、山道があった場所を示しているわけではない。この地点からは沢自体、暗梁(地下水路)となっている。となると、山道がこの沢を渡っていた箇所は、すでに国道建設で地中深く埋もれてしまった可能性が高い。

 前方に見えるのは尻苗(新)トンネル。

 旧国道は、新トンネルが完成した昭和57年以前まで、すぐ山側に並行していたトンネルが使用されていた。改良工事完了後は時をおかず土砂でふさがれてしまい、今は両側とも見ることができない。

 かつて、数戸の漁家が存在していた、尻苗地区の集落跡。こうした石積みの壁が主を失った今でも、残されている。両側の平らな部分は、コンブ干し場の跡だろうか。

 尻苗トンネル濃昼側入り口より旧道を眼下に望む。すでに土砂崩れなどでその痕跡は見ることができない。地形図によればこのあたりに水準点が存在するはずだが…

 

 一方で浜益側へ抜けたところからは、尻苗地区の集落跡を一望できる。山道らしき痕跡を探すが、判然としない。マーキングしているのは、推測によるものである。

 この付近では、国道上は標高75mほど。一方の山道は、このすぐ下にあったはずの水準点によれば、47m前後の高さ。おそらくこんな感じに走っていたと思われる。

 旧尻苗トンネルの跡。写真すぐ右側に、新トンネルの入り口がある。

すっかり土砂に埋もれてしまった。もちろん安全性のことを考えてのことだと思うが、よく見ると、旧トンネルの入り口だったところが、半分ほど新トンネルの擁護壁に重なっている。新トンネルの補強に流用されているのかもしれない。

 土砂がかぶさった斜面はすっかり山と同化してしまった。一見するとトンネルがあったとは思えないまでに、自然回帰してしまった。

 

 大きな石に足をとられながら登ると、かつてトンネルだった証が見つかった。トンネル上部のコンクリート面と、落石防止のためのワイヤーを通した支柱である。濃昼トンネル裏で見つけたガードロープ同様、長い年月で赤さびだらけとなっている。

 トンネル上部から浜益方向を見る。

 旧国道は、斜面に沿って登り勾配となっているのがわかる。20年程前ここを走った時、狭い砂利道で、海側は下が見えず断崖絶壁だったと思い込んでいた。このように海側に新道ができるなどとは夢にも思わなかったが、その頃すでに工事は始まっていたことになる。

 

 法面の擁護壁は今でも健在である。こうして見るとちょっと整備すれば、今でも立派に道路として使えそうな感じ。

 効果のほどはどうなのかわからないが、現在普通に見られるコンクリートで升目状に押さえた法面より、このような石積みの壁の方が、見た目には安心感を覚えるのは、私だけだろうか・・・。いかにも”旧道”然とした雰囲気もなかなかよいではないか。

 しばし登ってくると、道幅が狭くなってきた。海側に新たに作られたフェンスが、登るにしたがってだんだん迫ってくる。新道を下に作るにあたって、山の斜面を相当削り取ったらしい。

 カーブの手前まで来ると、ほぼ自動車の幅いっぱいにまでなってしまった。

 

 カーブを曲がりきると広い空地となるが、一定間隔で並ぶ電信柱の存在が旧国道の道筋を教えてくれている。一部には、山道沿いに発見した木製の電柱と同じタイプのものがまだ使われている。

 旧国道は、緩勾配を登ってきた国道と、写真向こうに見えるトンネル手前で交差している。トンネルのある小山を、旧道はぐるっと回りこむように走っていた。

 一応、旧国道の道筋を確かめる目的を果たしたわれわれは、ふたたび山道区間の、”見つけられなかった水準点”箇所から濃昼方向への探索に戻ることにした。

  ”尻苗山 八大龍王”の鳥居をふたたびくぐり、山道へ戻ってきた時にはすっかり空は晴れあがっていた。しかし、すでに日没の時間が近づいており、あたりが薄暗くなり始めたので、急いで山道を濃昼方向へ足を進める。

 最初に山道に辿り着いた斜面の所を過ぎ、見つけられなかった水準点があると思われた尾根をまわりこむ。

 このあたりは地形図を見ると似たような形状のカーブがもうひとつ続いている。山道自体も次第に登り勾配となる。路面は相変わらず伐採されていて歩き易いが、日頃の運動不足で鈍った体には、そろそろ限界を感じはじめていた。

 そんな時、先行していたN氏の、「水準点発見!」という、歓喜の声が聞こえた。駆けつけると、山道のカーブしているその外側に、小さなオンコの木のそばに寄り添うように水準点が鎮座している。枯れ葉をよけると独特の面取りをした花崗石が現れた。

 ちなみにこの水準点は、8444番一等水準点”122.015m”のもので、明治40年7月に埋石されたもの。

 水準点を取り囲むように4つの保護石。典型的な水準点設置様式。表面は滑らかで損傷もなく、一世紀以上の風雪を越えてもなお健在だった。

 さて、ここで疑問が湧いてしまった。つまり、現在の地形図を元に沢伝いに斜面を登り、山道に出た。そこまでの位置は確認済みである。ここで等高線上を辿ると、明らかに現在の地形図上にある水準点位置は、尾根ひとつずれているのである。古い地形図は5万分1なので正確には判別し難いが、現実には、やはり水準点表示の位置が地形図上ではちょっと曖昧になっているようだ。

 こうした”間違い探し”も、地形図を読む楽しみのひとつ、ということを実感する瞬間である。

 濃昼~尻苗間の山道、旧国道探索の旅も終盤に近づいてきた。

冒頭にいきなり急斜面、藪漕ぎと続いた今回、その後発見した山道は伐採されて非常に歩き易い道であったため、旧道歩きとしては非常に楽な部類だと根布谷氏は言う。が、水準点を見つけた直後、その理由が明らかとなった。水準点のあるカーブから先へ足を進めると、唐突にササ藪の中に山道は消えてしまったのである。

 つまり、水準点は現在でも基準点として利用されており、そのための山道伐採だったというわけだ。

 かつて道であった証拠となる、路肩部分ははっきりと判別できるので、意を決してササ藪の中へ分け入るが、わずか数10メーターほど進んだところで、残り時間と相談して、名誉の撤退となった。

 春先など時期を選べばおそらく走破できたであろう。そのまま進めば、おそらく濃昼トンネルの濃昼側口の上部に達するはずだ。

 すぐ下には国道が見える。この斜面を下りるというアイデアもあったが、最初に登った場所よりもはるかに高く、遠回りでも楽な方にまわろう、ということで、結局来た道を戻ることに・・・。

 最初に登った斜面を下り、国道を歩いて濃昼トンネルを抜ける。濃昼の集落までは旧国道の道筋を追いながら歩いた。トンネル出口あたりからは、古い道筋がはっきりと見ることができる。以前は、下りきった先にかなり急なヘアピンカーブがあった。当時はまだ未舗装だったため、濃昼から送毛にかけての旧道部分は、深夜になるとラリー仕様のクルマに乗る若者がよく集まっていたのを思い出す。

 国道改良は、勾配の緩斜面化と緩曲線化あるいは直線化が施されている。その浜益側の付け替え部分は、今は黄金色に輝くススキの原に覆われていた。 路盤は今でもしっかりとしていて、ところどころに砂利が残っている。また、部分的には写真のようにコケが一面敷き詰められたような場所もあって、まるでじゅうたんの上を歩いているような気分になる。

 

 カーブの切り通しとなったところはふたたびススキの群生の中。このあたりまで来ると、ところどころ無造作に土砂が掘り起こされたり、あるいは山のように捨てられているなどして、道路としてのイメージはすでに消えかけている。

 カーブをまわりきるとアスファルトの道が現れるが、これらは旧国道時代からある、港で使うケーソンの留置場への道となって、現在でも使用されているから。

左が旧国道の道筋で、右はトラックの駐車譲渡して使われているのか、行き止まりとなっている。

 夕日に映える濃昼の山と、旧国道のカーブ出口付近。見通しの非常に悪い道だったことがわかる。

 旧道から現国道方向を見ると、一直線だったことがわかる。札幌方向から来ると、この直線区間はかなりスピードの乗るところで、その直後の見通しの悪いヘアピンカーブへとつながる。今の道路水準からすれば、かなり危険な道路だった、ということになるだろうか。当時は、こんな道が普通だったし、それがドライブテクの上達につながっていたとも言えるのだが・・・。

 旧厚田村、旧浜益村にまたがる濃昼地区。かつて西蝦夷地最北限の出稼ぎ漁場としてニシン、アキアジ漁で栄えていた昔、その人口は一時的にせよ数百名を数えたという。

 

 北海道でも有数の難所とされた濃昼山道。300年以上の歴史を持つ厚田村、浜益村。今に残る山道を歩くことで、その歴史の深さを体感できると言っても、決して大げさではない。

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