【旧道ロケーション】・北海道旧道保存会メンバーによる旧道歩きの記録です。

ご注意・ここに紹介する旧道等は、実際に歩いたのが2000年から2010にかけてのものでかなり時間を経過しておりますので、現在ではほとんど消滅しているか、進入が困難であることが予想されます。「ツアーガイド」としてはまったく役に立ちませんので、あくまでも当時の記録としてお楽しみください。(本文は当時のHPに掲載していたものです)

簾舞の本願寺道路跡

「本願寺道路」 沿革

 

 簾舞二星岱麓の南側および旧「山の上」(現・簾舞団地)と称したところに札幌の黎明期僧侶たち一行が困苦欠乏に窮しながらも敢然と未開の大原始林に挑んで、一条の道筋を開削した「本願寺道路」(別名:有珠新道)の跡がある。

 安政年間、虻田から洞爺湖を経て札幌に入り「川に従い虻田、有珠に道を開かばその便利いかばかりならん」とその必要性を説いたのは幕末の探検家・松浦武四郎だった。

 明治時代、新政府にとって北海道の開拓は急務で、特に太平洋側と札幌本府を結ぶ道路は必要不可欠であった。同2年、東本願寺は「新道切開」「移民奨励」「教化普及」の目的により、政府に北海道開拓の官許を得て、翌3年若干19歳の法嗣現如上人が中心となり新道の開削を始めた。特に札幌と函館を結ぶ重要道路として、工事に最も力を入れたのは、尾去別(おさるべつ・現伊達市)から札幌平岸まで道幅約3m全長26里(約104km)の事業で山間渓谷難所続きも1年3ヶ月の突貫工事により4年10月に完成させた。 それは、現在の国道230号線の原形となったもので当時の姿の一部を簾舞でしのぶことができる。

 また、明治5年1月開拓使は、この路を利用する旅人へ宿泊休憩などの便宜を図るために「通行屋」を開設、屋守の黒岩清五郎一家が、この地の最初の定住者となり、簾舞開拓の原点となった。

この街道が後世、地域発展に大きく貢献した事は言うまでもない。往時を知る貴重な『史跡』である。

      簾舞 「札幌ふるさと文化百選・本願寺街道」標 解説文から引用

 この旧道ロケーションで3つ目に紹介する旧道は、現在の国道230号線の基礎となった「本願寺道路」である。本願寺道路のその開削の歴史は明治4年にまでさかのぼる。その簾舞地区は”札幌ふるさと文化百選”に選ばれたことから、現存するルートの一部が”通行屋保存会”の手により復元整備されているため、ササヤブを掻き分けての”失われた道を歩く”、というほどのものではない。ちょっとしたハイキング気分で、手軽に歴史の路散策を楽しむことができる。

 

~2000年7月20日探索~

簾舞付近のかつての本願寺道路を示すマップ。赤の実線部分が、現在復元整備されて歩くことができる部分。点線部は宅地化などにより消滅。

この地図は、「札幌ふるさと文化百選」標に描かれている地図を元に作成しています。

平成の新国道から明治の本願寺道路へ

 

 現在、札幌市南区簾舞付近を通過する国道230号線は、平成に入って全面的に改良され、片側2車線の快適な道に生まれ変わっている。

 

 本願寺道路を探す旅は、まず分岐点探しから始まったが、実は、スタートからつまづいてしまった・・・。

 以前は片側1車線で、しかも現在の路面高よりももっと高い位置にあったのだが、拡幅とともに掘り下げられ勾配も緩斜面に改められた。そのため、本願寺道路跡への分岐点となる当時の交差点は消滅し、その位置から200mほど札幌寄りに新たに移設されていたのだ。

 古い地図によると、右の写真(1)よりももっと定山渓(写真奥の方)へ寄った場所に、本願寺道路跡へとつづく分岐点があったことになる。このことに気付くまで少々時間がかかってしまった。

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 簾舞団地へと上るこの道こそ(2、3)、本願寺道路 簾舞区間の入り口となる。現在は山側へと宅地化が進み、住民の生活道路として生き続けている。

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 少しづつ国道から離れ、緩い坂道を登ってゆく(4、5)。

 100年以上の永い時間を経た今、変わらないのは遠景の山並みだけであろうか。

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へび坂へ

 

 簾舞3条2丁目と名づけられたこの宅地区画部分が終わると、唐突にアスファルト道が途切れる。

 このあたり一帯が小高い山となっているため、西側、簾舞二区方向に視界が開けている。そして、アスファルトの切れた道路から森の中へ足を進めると、急な下り勾配の小道が姿を現した・・・。

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 写真(1)は、今歩いてきた国道方向を振り返ったもの。

 (2)は、通称”へび坂”と呼ばれる、急な坂道。

”札幌ふるさと文化百選”に選ばれたことをきっかけに、簾舞通行屋保存会の手により整備されているので、急坂とはいえ非常に歩き易い(3)。その名の由来は、かつて多数のへびが出没した場所、ということらしい。

 

 坂の途中からも、簾舞地区一帯を広く見渡すことができる(4)。

 正面に見える小さな山は二星岱(にせいたい)と呼ばれる小山。本願寺街道はその裾野にある簾舞中学校(白い建物)を通って、定山渓方面へと向う。

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 有珠から札幌・平岸付近へと通じる道路が、本願寺の若き僧の手によって開通したのは明治4年。平坦な土地の少ない豊平川沿いの掘削は、想像を絶する困難の連続だったに違いない。

簾舞の市街地

 

 へび坂を下りきると、民家の軒先へと出る(1、2)。

このあたりから先の本願寺道路跡は、すでに住宅に飲み込まれてその痕跡は残っていない。

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 住宅の庭の一角に、”札幌ふるさと文化百選”の記念碑がひっそりと置かれていた(3)。

 マップで見るとおり、国道方向へ大きく弧を描いて進んだ後、国道付近からは反対方向へカーブする。まるで、現簾舞中学校のあたりを避けるかように。かつてこのあたりには、道を阻む何かがあったのだろうか。

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 本願寺道路は、このあたり(4)で今は暗梁となってしまった東御料川を渡った後、住宅の中へと消えていた。

 本願寺道路とは別の道筋となる道路を通って、国道へ出ることにする。

 民家の庭には、セミの抜け殻がいくつも見つけられる。道路とともに市街化が進んでいるとはいえ、このあたりはまだ自然が多く残されている。

旧黒岩家住宅・旧簾舞通行屋跡

 

 いったん国道位置まで出た後、本願寺道路は再び緩い上りとなり、二星岱(標高228m)方向へと進む。

 マップによると、ちょうどこの国道と街道が重なるあたりに(1)、かつて簾舞通行屋が置かれていた。開拓使の命により、屋守を任ぜられたのは福岡県出身の黒岩清五郎。

 松前藩士として渡道したのち、本願寺街道開通後の明治5年にこの地にはじめて入植し、通行屋をまかされたのである。

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 住宅地に飲まれてしまった本願寺道路跡は、そのまま簾舞中学校の敷地の中へ消えていた(2)。

 民家の脇を通らせてもらいグランドの外れまで行くが(3)、高いフェンスに阻まれてしまった。

 怪訝そうに見つめる、野球の練習中だった子供たちの間を、早々と歩く。先程とは正反対の場所(4、5)へたどりつくと、二星岱のふもとにぶつかる。ここからは、この山を回りこむように道は進む。

 しかし、学校敷地を過ぎても、それらしい痕跡が見つからない。そこには現在、授業の一環だろうか、ビニールハウスと畑があって、この日も先生と生徒らしき人影が見えていた(6)。

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再び本願寺道路跡を発見

 

 写真(1)は、畑を越えたあたりから歩いてきた方向を振り返ったもの。正面に見えるのは簾舞中学校。マップによれば、おそらく道筋はこの畑を横切るように、このように通っていたと思われる。

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 再び、踏みわけ道を発見する(2)。右に二星岱、左に農家が散在する野原を眺めつつ、しばらく進むと、やがて小路は薄暗い林の中へ入る(3)。

と、そこに石碑があるのを発見。

 これは、本願時道路跡が”さっぽろふるさと文化百選”に選ばれたことを記念して、平成元年に建てられたもの(4、5)。

 ここからは”へび坂”同様の踏みわけ道が、鬱蒼とした山の中へと続いている。

 もしかするとこのあたりの木々の深さは、100年前の当時から変わっていないのかもしれない。

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二星岱の 急な下りの九折

 

 二星岱の南端を回りこむように進む。ふいに視界が開けると(1)、そこからは急な下り道となった(2)。足元は相変わらず歩き易やすいのだが、結構くねくねと曲がっているところがある(4)。マップでは直線に描かれているが、実際は下の写真のとおり、かなりうねっているのだ。

 急な斜面に両ひざがわらう。歳のせいか運動不足か・・・。

 この5枚の写真は、いずれも途中数ヶ所で撮ったものだが、景色も変わらず、ただ淡々と下り道が続くだけなので説明のしようがない・・・。明治の頃の雰囲気に近づくことはできるだろうか。

 今回の道中では、もっとも『本願寺街道』らしさを感じることができる場所である。たとえ、保存のための多少の管理が入ったものだとしても。

 下りきって平地へ出る。農作業をしていたお年寄りに「スズメバチいるから気を付けろ」とのこと。道々気配は感じなかったが、かつては、スズメバチだけではなく、クマやオオカミなどの野生動物と遭遇する危険も、当然のようにあったに違いない。

 ”へび坂”と、この二星岱区間は、今現在も”通行屋保存会”の人たちの手により管理され、守られている。

『本願寺道路』跡の終点

 

 二星岱の深い林を抜け、平地へ下ると(1)、再び本願寺道路は住宅地へと飲み込まれてしまった。

 

 簾舞川を渡る古い木造橋のあたり(2)が、現在残されている本願寺道路の跡地の終点となる。ここから先は、昭和から平成にかけて進められた宅地開発により、永遠にその姿を見失うこととなった。

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 木造橋の上からは、二星岱を挟んで並行して走っている国道が見える(3)。

この先、本願寺道路はしだいに国道に近づく。

 われわれが日常通っている国道230号線は、そのルーツをたどるとこの本願寺街道に行きつくのである。

 右写真(4)の場所は、すでに本願寺街道を示すマップのエリア外である。正面が二星岱。つまり、今歩いてきた方向を見ている。

 広範囲にわたって整地され、宅地化されいる。かつてはどんな地形だったのだろう。そして、どのような道筋で道路が敷かれていたのであろうか。

 

~簾舞の本願寺道路跡~ 終

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