【旧道ロケーション】・北海道旧道保存会メンバーによる旧道歩きの記録です。

ご注意・ここに紹介する旧道等は、実際に歩いたのが2000年から2010にかけてのものでかなり時間を経過しておりますので、現在ではほとんど消滅しているか、進入が困難であることが予想されます。「ツアーガイド」としてはまったく役に立ちませんのであくまでも当時の記録としてお楽しみください。(本文は当時HPに掲載していたものです)

旧国道5号線 稲穂峠

  旧国道5号線「稲穂峠」。前項で紹介した蘭島~塩谷間に通じる旧国道で、稲穂トンネルが開通する昭和37年11月まで利用された急峻な稲穂嶺越えの道である。その仁木町側は完全に廃道となってしまったため、基本的には気軽にお薦めできるルートではない。部分的に旧道そのものが崩落していたり、ヒクマの出没などの危険が付きまとうため、相当の覚悟が必要。

 

~2000年5月28日探索~

「稲穂峠」 沿革

 

 「稲穂峠」は、今では全長約1.4キロの稲穂トンネルによって貫かれている、稲穂嶺を越える標高400mほどの峠である。アイヌが時折越えるほどの踏み分け道しか存在しなかったこの峠に、初めて開削の手が加えられたのは1809年(文化6年)のことである。当時、女人禁制の措置がとられおり神威岬から北への和人の入植が阻まれていた。そのため、海路を迂回するという目的もあって場所請負人たちが自費で岩内と余市を結ぶこの”余市山道”を切り拓いたのである。だが、それは女人が越えるにはあまりに険しく、その後通るものも少なかったために日をおかず荒廃してしまう。

 再びこの峠が見直されることとなったのは1857年(安政4年)のことである。蝦夷地検分にあたっていた松浦武四郎がこの峠を通る少し前、岩内、古宇、忍路、余市の場所請負人が幕府の意を汲んで再びこの峠を改修し、切り拓いた。武四郎はその道の出来栄えを評価し、その苦労をねぎらってこの地に和歌を残している(本文に掲載)。

 明治に入り北海道開拓の機運が高まると、次第に通るものも増えてくる。たびたび改修されるものの”踏み分け道”同然なのはあいかわらずで、難所であることに変わりはなかった。全面的に手が加えられ、この旧道の道筋となるのは明治13年のことである。将来の馬車の通行を見越してのことか、当時としてはほかに例をあまり見ない幅3.6mという広さで新たに新道が開削されたのである。

 

 大正9年に国道4号線としての指定を受け、重要幹線道路の位置付けとなるも昭和に入って自動車による通行が始まると、幅が狭くすれ違いができない、急カーブ、急勾配などが障害となり、次第に根本的なルート変更が計画されるようになった。戦争で一時中断するが、昭和27年、国道5号線としての指定を受けると同時に新道切り替えへの機運が一層高まり、昭和34年、峠の頂上より標高差100m以上も下の稲穂嶺の中腹を貫くトンネル工事が始められたのを皮切りに、現在の国道ルートへの建設が始められたのであった。

 峠の名である「イナホ」とは、アイヌ語で「神にささげるもの=イナウ」からとられたもの。つまり、アイヌがこの山を越える際、天気の急変を恐れ、頂上でかならずこの木彫りのイナウをささげて、道中の安全を祈願してから越えた、という伝えが語源になっているという。同様の神事は各地でおこなわれていたので、道内他の地域にも同じ「稲穂」の名を目にする機会は多い。

 

新・旧 地形図比較図

国土地理院発行の2万5千分1『銀山』および、5万分1『茅沼』旧図版をもとに縮小合成、今回の行程を示しています。

 今回の探索にはNHKのTVスタッフも同行している。取材に先立って、1週間前に下見を兼ねて歩いているという。

 左カットは、地形図を手に本日の行程を打ち合わせている、根布谷(北海道旧道保存会)会長とコンターサークルを率いる堀 淳一氏。

 

 

 総延長からも、標高からも、中山峠であるとか日勝峠であるとか他の名だたる峠道からすればさすがに見劣りがする現稲穂峠だが、かつての旧道はトンネル付近の標高256mから、標高400mほどの頂上まで一気に駆け上がる、険しい峠道だった。左カットの正面トンネル入り口左わきが、ちょうどその急勾配区間のスタート地点である。

 ところで、武四郎が通ったとされる旧々道は、トンネルの右わきから九折に山を上るルートだったらしい。

 例によって、失われた水準点探しも、今回の重要な目的でもある。

 とりあえず、トンネル入り口にあるこの水準点は、現在も現役の 「7294-1」という水準点。「-1」という枝番が示すとおり、トンネル開通後の昭和43年に新規選点されたもの。 元となる「7294」の方は、トンネルより倶知安側へ少し下ったあたりの旧道沿いにあったと思われる(「7294-1」の倶知安側手前は、現在「7293」となっている)。

 なお、約2キロおきに設置されている沿線の現水準点は、この「7294-1」の次は「7295」「準基320」と続くが、今回の目的となる水準点は、峠頂上付近にあったもの(旧「7295」と思われる)と、所在不明の「7296」である。

旧道沿いの無名の滝

 

 旧道の共和町側は、峠付近からさらに尾根伝いに先へ進んだところにある無線中継局の管理のため整備されている。ただ、すぐ右を流れる沢のため、部分的に路肩が崩れかけている個所(カット右)もある。この道路が現役だった頃の維持管理は、想像以上に大変なことだったろう。

 

 

 

 途中で発見した、沢に落ちたガードレール。今でも年々、この沢の流れが少しづつ旧道を削っている。

 

 沢に沿って続く旧道を進むと、 谷の突きあたりで急なカーブとなり、沢を渡る。旧道お決まりの線形特徴である。そこには、「無名の」滝が細く流れ落ちていた。

 

 

 沢を渡る橋は、何度となく補修された形跡があった。今も、ご覧のとおりガードレールも外れかかり、非常に心もとない。

 橋の土台部分はしっかりとしているようだが、路肩の雍壁は部分的に崩れかかっており、この道路の行く末が案じられる。

尾根伝いに急勾配が続く・・・

 

 橋を渡ると勾配は急となり、稲穂トンネル上部方向へ駆け上がる。 道路は、硬く締まった土の表に砂利が薄くのっている。部分的に簡易舗装されているところもあるが、もちろん現役当時からのものではない。

 スタートしてからも霧雨が続いているため、スパイク付のゴム長靴では少々滑って歩きにくい。

 

 

 

 急な登りの中、いくつかのカーブを過ぎ、稲穂トンネルの入り口の上部あたりに差しかかる。

カーブミラーに峠の雰囲気が感じられる。当時から設置されていたものだろうか?いや、標識の字体やその新しさから、廃道後、無線中継局への道路整備で取り付けられたものかも・・・。

 木陰からは、新国道をかけぬける車のライトが見え隠れする。

 トンネル入り口上部を過ぎ、さらに上ると、今来た道を折り返すようにさらに尾根の向こうへ上る道を発見。この旧道に切り替わる前の、旧々道の痕跡らしい。自動車の退避エリアとして使用されているのかわだちが残るが、数メーター先からは、踏分道となって森の中へ消えていた。

視界が開け、対岸の山並が見渡せるようになる まもなく頂上へ・・・

 

 峠の頂上はもうすぐ。

 今は5月の末、エゾハルゼミが羽化を始める時期である。遠景にカメラを構えようとふと足元を見ると、羽化したばかりのエゾハルゼミがいくつもそこにいた。めったに通らないはずの人の姿にも逃げようとしない。手を伸ばすと上ってくる。

 この他にも、道路わきには小さな生物がたくさん見つかった。いずれ使われなくなる道は、こうした生物たちの楽園となる。

営林署の所轄を表す標識。

随所にこのような標識を確認することができる。これは昭和7年に設置されたものらしい。

 ひっきりなしにトンネルを通過する自動車の騒音も、ここまで来るとほとんど聞こえてこない。

上カットは今上ってきた方向、倶知安側。

下カットは、同じ場所から見た進行方向、峠の頂上向を撮ったもの。右は、道路からの景観。この尾根の向こうは銀山地区。

 

峠頂上へ向かう最後のヘアピンカーブ

 

 このあたりの標高はすでに370mを超えている。新国道のトンネルの、ほぼ中間地点の山の上にあたる。

 大正、昭和、そして、現在の地形図を見比べながら、現在地を確認する。

 右カットは参加者のひとり、地蔵慶護氏が所持していた資料。松浦武四郎を研究している氏によると稲穂峠の歴史は古く、昭和37年に開通した稲穂トンネル、明治13年に作られたこの旧道、松浦武四郎が歩いた安政3年(1856年)、それより半世紀以上も前にアイヌ民族が通っていた道へとさかのぼるという。

 その、安政3年当時、”松浦武四郎が歩いた道”とおぼしき跡を発見(!)。

当時の道は、われわれが登って来たトンネル左側からのルートではなく、右側からの九折りの山越路だったらしい。まもなく峠頂上付近というところで、この旧道を横切る形でさらに上へと続いていた(両カットとも緑色のマーカー部分)。

 道路工事用のためかある程度は広くなっていたが、その先はけもの道のような細いスジが森の中へと消えていた。

 もっとも、ルートが違うのは峠の向こう側も同じことで、旧道の仁木側と違い、峠頂上付近から北東方面へ伸びる尾根伝いにルートが続いていたらしい。

そして、峠の頂上へ・・・  幻の水準点は・・・?

 

 無線中継局への整備された道路から分岐して、旧稲穂峠頂上は、深い森の切れ目の奥にあった(右カット)。注意していなければ通り過ぎてしまうかもしれないほどのものだった。

 向こうが仁木側。車止めらしきコンクリートの塊が見えるが、そんなものなどまったく必要のないことを、この後知ることになる。

 大正時代の測量による地形図では、ゆるい左カーブを連想させたが、中継局への道路整備のために多少ルート取りが変更されたためか、ほとんどT字路化している。

 雨足も強くなりつつあり、これ以降は深いヤブ漕ぎが予想されるので、このあたりで昼食となる。左向こうが倶知安側、手前方向が無線中継局へ。マーカーが示すとおり、旧道はこのあたりからカット右方向へカーブする。

 峠の頂上付近で、幻の水準点を探索する。

つかの間の昼食後、全員で幻の水準点探しを開始。地形図によると、カーブの外側に水準点記号とともにはっきりと「392.18」の文字が・・・。

 新国道開通後の測量による地形図では、すでにその記号はなく、そして謄本記録もなく、その所在も現在は調べようがない。現在の水準点の並びは、「7293」、トンネル入り口の「7294-1」、「7295」、「準基320」と続く。 古い地形図にある、現国道の「7295」水準点(新・旧地形図比較図参照 新図上部右側の「209.3」の水準点)の、直下の旧道上には「7296」と思われる水準点が示されている(新・旧地形図比較図参照 旧図上部右側の「206.64」の水準点)。 そして考えられるのは、その直前にあたる、この峠頂上付近にあるはずの水準点は、移設前の旧「7295」ではないか、ということ。「7296」水準点は、謄本記録がいまだに閲覧可能であるが、残念ながら、この旧「7295」水準点の記録はすでになかった。つまり、移設したために当時の記録がないらしい。

 

 ともかく、水準点「命」常国女史のもと、探索は続いたが、結果的には見つけることはできなかった・・・。

 この峠頂上付近は、廃道後、何らかの理由で周辺に盛り土がなされた形跡もあり(無線中継局への道路施設に関連するかどうか)、おそらくは地中深く埋もれてしまったのだろう・・・。

 

 右カットは、参加者の意見を元に推測した、おそらく水準点があったのではないかとされるあたり。向こうが共和町方向。

 松浦武四郎の記録に「はるか遠くまで見渡すことのできるすばらしい眺め」が、そこにあるという。「峠」と聞くと、だいたい眺めがよい開けたイメージを思い浮かべるものだが、旧稲穂峠は、少なくともこの日に見た限りではその「眺め」を望むべくもなかった。もともと天気もぐづついていて雲が低く、視界が悪かったせいもあるが、深い木々に囲まれているため、そもそも遠景を見通すことができない(左カット)。

もっとも、P.5 で書いたとおり文政5年の峠道はこのルートとは違うので、同じ景色を見ているとは限らないのだが・・・。

 一転して、藪の中・・・

 

 峠頂上付近を後に、旧道探索は続く。

 管理された道路と一転して、旧道は藪の中へ進み、「幻の道」らしさを増すが、30数年が過ぎたとはいえ、雑木や藪が生い茂っていることを除けば、このあたりはまだ左側の法面をはじめ、谷側の路肩などは比較的しっかりとしていて、かつて道だったことを容易に察することができる。

 左カットは、先に触れた営林署区界標識。埋設されたのはこの道路開通と同時期と思われるが、廃道後すぐ上のがけから何らかの理由で崩れ落ちてきたらしい。

 右カットの空き瓶は、自然に還ろうとしているこの旧道の中で見つけた”文明の落し物”である。コカ・コーラの500mlビンだが(現在は作られていない、1970年代のものと思われる)、よく見ると、破裂防止のビニールカバー処理がなされていない初期のもの(登場後に、夏季に暑さにより破裂する事故が多発し、ガラス飛散防止のビニール処理がなされた)。

 4分の1程度の茶色い液体が残っていたが、腐りかけた王冠には開けられた形跡がない。つまり、未開封品を誰かが落としたか放置したものが、長い年月をかけて中身を染み出していたということか。時代の活き証人である、というのは言い過ぎだろうか。

 旧稲穂峠の仁木側は、ルートの斜面がおおむね北東方向を向いていることもあって、廃道後の植物の生育が、倶知安側ほどではないのかもしれない。

 かつて道路だった部分には、頂上付近ほどの藪はなく、歩き易い個所が続く。

 

 足元には自然発芽したらしい、まだ若い木が見られる。時が過ぎ、やがてこの道もこうした木々に埋もれていく・・・。

 

 手彫りともつかない荒削りな法面。大きな石を積み上げているところもあれば、こうして、天然の岩肌がそのままの個所もある。その大部分は、今でもこうして崩れずに残っている。

下りカーブが続く・・・

 

 雨足がいっそう強くなり、集団も、先頭、中盤、後方と次第にばらつくようになった。雨とともに周囲も暗くなり、肉眼ではこのカットほど明るくは感じられない。ちなみに、今回の撮影では、デジタルカメラ、Nikon D1を持ち込んでいる。撮影感度はISO800相当からISO1600相当で撮影しているが、それでも、1/30から1/15という低速シャッターを余儀なくされている。

 旧道の方は、地盤はしっかりと踏み固められていたので今のところ、ぬかるような道ではない。道幅も思ったよりも広く、草木を除去すれば今でも立派に林道として機能しそうだ。しばらくは、共和町側と違って、かなりゆるい勾配の下りが続く。

 

 

 次の尾根へと続く大きなカーブ。

 カットではわかりにくいが、峠頂上からの行程中、唯一道路の向こうが確認できたポイント。まだ、草や木が芽吹かない春先から初夏にかけては、もっとわかり易いのだろうが・・・。

 上カットの撮影位置からの眺め。このとおりの天候である。晴れの景色を見てみたいものだ。

 

 

 道なりに右へカーブしてさらに進む。

 歩くとさほど感じないが、自動車で走ることを思えばかなりの急カーブだろう。次は、距離を置かず左へカーブし、尾根を超える。

新国道を眼下に・・・

 

 再び、忘れかけていた自動車の走行音がかすかに聞こえ始めていた。ふと気付くと、眼下の木陰からかなり俯瞰気味に仁木側の新国道が見えた(カットの左方向が稲穂トンネル)。思った以上に旧道は高度のあるところを通っていたことを再認識する。

 そして、われわれの旧道探索のゴールは、あの新国道の向こう側である。道のりはまだまだ続く・・・。

 

 今までとはうって変わって、道路がかなり水を含んだやわらかい場所になりつつあった。

 雨のせいだけではないらしい。山側のがけを見ると、ところどころ清水が岩肌を伝い落ちている個所がある。ちょうど斜面の北側にまわりこんだあたり。

 水のあるところは、地盤もゆるいことが多い。下の岩肌も、いくつかは崩れて路肩に落ちていた。

 ここが標高の高い北側斜面である証を見つける。時期的にはかなり遅いが、旧道上にはふきのとうが点在していた。

 そして、途中には残雪が・・・。 この右カット、よく見るとわかると思うが、残雪のある部分は、実は斜面自体も草木が少ない。おそらく春先に雪崩が起きた痕跡なのではないだろうか。

永久に失われた旧道・・・

 

 はるか下の方に見えていた新国道を、再び稲穂トンネル上で交差し最後の谷へと向かう旧道。しかし、そこで見たものは、変わり果てた旧道の姿。というよりも、跡形もなく消滅してしまっていたと言った方がよさそうだ。

 今はわずかな流れでしかない小さな沢だが、毎年のように雪解け水を蓄え増水し、長い年月それを繰り返した結果であろう。そこにあるはずの旧道は、道路の基礎部分ごと押し流されてしまったようである。

  最後に崩れ落ちてからもすでにかなりの時間が経っていると見えて、かつて道路だったあたりにも木々が茂っている。足場を気にしながら、高さ3mほどの崖を下り、対岸の旧道部分へと進んだ。

 TVスタッフが、沢の渡渉シーンを撮影中。

 

 下カットの道路マーカーは、まったくの想像図である。参加者の間でも意見が別れた。尾根に沿ってかなり山側に近い位置を旧道が走っていたか、あるいは、ある程度の高さの土盛をすることによって谷に近い位置をゆるいカーブで走っていたか・・・。

 今となっては確かめる術は、ない。

 トンネル仁木側入り口の上部を通過し、北側へ抜ける

 

 道が流された個所から先は、トンネルを横目で眺めながら、ゆるい下り道が続く。稲穂峠のもっとも険しい部分は、この先の新国道合流点が終点である。

 

 合流点は、仁木側トンネル入り口から約100mほど下ったあたりの、広い駐車帯となったところのはずれ。ここは、かつては谷間であったらしいが、新道工事と同時に埋め立てられたらしい。旧道は、その谷をまわりこむように作られていて、その一番奥まったところには、小さな滝が落ちている。

 左カットが「まつらの滝」。 松浦武四郎にちなんで名づけられたというこの滝には、天然のわさびが生えていた。

 

 

右カットでは、滝の名標と並んで記念碑が立てられているが、われわれ以外に立ち寄る者もなくそのわきを何台もの車ががひっきりなしに駆け抜けていく。

原文

岩ほ切

木を伐

葦を

刈そけて

みちたひらけし

山のとかけも

原文  建立の誌

竹四郎は(武四郎ともいう)は、安政四年(一八五七)旧暦の五月十四日、岩内領よりこの山の上の新道稲穂峠を越えその出来栄えを感じて、和歌一首を書き訳した

いまここに往時を回顧し、これを記念してこの碑を建立した

なお松浦竹四郎源の弘誌は自筆の署名である

昭和六十三年五月十四日

建立者 久保武夫

 このあたりの旧道の路肩は、コンクリートで石を組み上げた雍壁で支えられていた。向こうが仁木側。右側下が、埋め立てられて駐車帯となった場所方向。

 旧道は、正面の案内標識すぐ右を、新国道を横切ってまっすぐこちらへ向かっていた。

 その後ゆるく左へカーブしながら覆道のすぐ右わきをさらに下ってゆくが、新国道整備によりその痕跡はすでに失われていた。

 

深い藪の中に再び旧道を発見。しかし・・・

 

 左が稲穂トンネル方向。新国道の覆道わきから古い地形図からの推測で藪を分け入ると、再び旧道らしき痕跡が現れた。今回のもうひとつの目的である、幻の水準点「7296」の所在を確かめるために、先へ進む。

 しかし、突然目の前が開けたかと思うと、信じられない光景が目に飛び込んできた。道が、というより地面そのものがざっくりと消えていたのである。

 原因はすぐに判明した。眼下には、対岸の尾根へと続く林道があり、その建設にともなって人為的に削り取った結果のようだ。 現行の地形図測量後に新たに作られたもののようで、手にした地形図には示されていなかった。

 途方にくれたのも一瞬。草や木にしがみつきながら果敢に斜面を下ってゆく。

 旧道自身はカーブしながら下っていたようだが、新らしく作られた林道はそのさらに下側へ掘り下げられ、かつて道路だった部分は大きく削り取られた。

 

 旧道の左カーブが終わり、谷に沿って存在するはずの右ヘアピンカーブだった個所は、新国道から林道へ入る道を作るためにそのすべてを埋め立てられ、大きくその地形が作り変えられていた。

 林道が始まる取付け部分より見下ろす。かなりの急勾配である。向こうが仁木側。突きあたりの左へカーブするあたりで旧道と合流している。 旧道はそのまま右側へ続く(緑のマーカー部分)。

 

 右カットのとおり弧を描いてわれわれの足元をかすめるように、その痕跡をわずかに残していた。

 結論としては、水準点「7296」は、この新たに作られた林道の地中深くに、永久に埋もれたままとなってしまったようだ。

 マーカーは、実際にはわれわれの立っているこの高さより、かなり低い位置を旧道が走っていたことを表している。そして、左カットの右端あたりに水準点はあったはずだ。

 旧稲穂峠探索行の終点は、仁木町大江の水準点 「準基320」

 

 仁木側の平地へ下りきった、今は付近住民のための生活道路となったこの道も、当時は、写真正面に見える稲穂嶺を越えるための、峠のスタート地点だった。

 

 旧稲穂峠探索の終点は、ちょうどこの交差点付近にあるはずの水準点確認である。

 現在は「準基320」という番号が振られているが、以前は「7297」であったらしいことが、謄本記録で残されている。位置そのものは移動しているとは思えないのだが、どういう理由か、号数が変更されている。

 

 水準点自身は、「7297」は花崗岩による標石で、明治38年に選点、埋標されているが、現在の「準基320」は、金属標に置き換えられていた(昭和43年選点、埋標)。

 

 こうして、ほぼ全行程、雨の中での「旧稲穂峠」歩きは終わった。いくつかの水準点は見つけることはできなかったが、たった1.4kmのトンネルで貫かれた稲穂峠の、過去の歴史をこの目で見ることができたのは、実に有意義なことであった。時代を超えて先人たちと共有した時間は、かけがえのない記憶となる。歴史が浅いと言われている北海道でも、こうした旧道を歩くにつけ想像以上に歴史の流れの尺度がどんどん長く、深まってゆく。着実に過去の歴史を積み重ねながら、道路も、人も生き続けていることを実感するのである。

 行程中、地蔵氏の話の中で、「自分が松浦武四郎になった気分で旧道歩きを楽しむ・・・」というくだりがあった。これが、旧道歩きの醍醐味であるのだ、とつくづく感じたのだった。

 

~旧国道5号線 稲穂峠~ 終

ⒸhiDeki (hideki kubo) 2001           Contact ・ st-pad@digi-pad.jp

 

ご注意・この北海道旧道保存会ホームページ『裏サンドウ喫茶室』では、寄稿者の方々の研究成果を発表しています。掲載の文・カット・図版等はそれぞれ著作者の権利が保護されています。無断で他の媒体への引用、転載は堅くおことわりします。当ホームページ掲載の地図は、国土地理院長の承認を得て同院発行の当該地域を含む5万分の1地形図及び2万5千分の1地形図、数値地図25000及び数値地図50mメッシュ(標高データ)を使用、複製したものです。<承認番号 平13総使、第520号><承認番号 平13総複、第390号>このホームページに掲載されている場所は、自然災害や経年変化などで取材時よりも状況が著しく変化している場合があります。