【旧道ロケーション】・北海道旧道保存会メンバーによる旧道歩きの記録です。

ご注意・ここに紹介する旧道等は、実際に歩いたのが2000年から2010にかけてのものでかなり時間を経過しておりますので、現在ではほとんど消滅しているか、進入が困難であることが予想されます。「ツアーガイド」としてはまったく役に立ちませんのであくまでも当時の記録としてお楽しみください。(本文は当時HPに掲載していたものです)

旧国道5号線 蘭島~塩谷

 旧道ガイドとして今回紹介する旧道は、札幌から小樽を通って函館へ至る国道5号線の、塩谷~蘭島間の旧国道部分である。

現在海側を通っている国道も、昭和20年代まではいくつもの山を越える内陸部に作られていた。昭和30年代に入り現在のルートに整備されたが、当時から乗り合いバスも通行していた幹線道路であったらしい。近年は、その一部のルートを利用して広域農道が整備され、”フルーツ街道”という呼び名に生まれ変わった部分もある。また、それ以外の区間もそれほどハードな”やぶ漕ぎ”とはならないので、春先など時期を選べば、総じて歩き易いコースでもある。

 

以下、2000年4月23日の記録

「旧国道5号線」と「水準点」

 4月23日午前、JR蘭島駅から、この旧国道5号線探索の旅が始まった。

「北海道旧道保存会」の今年最初の活動となるこの日の行程は、道内でも最も歴史の古い部類に含まれるであろう、現在、函館から札幌へ至る国道5号線の旧道部分のうち、蘭島から塩谷までを辿る、約7kmほどの徒歩探索である。

 蘭島と塩谷の中間には、かつてニシン漁で栄華を誇った忍路(おしょろ)があり、この旧道も当時は重要な産業幹線道路であった。現在、塩谷から仁木へ至る区間は、「フルーツ街道」と称して、その一部分が現国道のバイパス道路として活き続けている。今回の旧道探索の核となるのは、現在はトンネルで貫かれている2箇所の峠越えである。国土地理院発行の2万5千分1地形図「小樽西部」でも、部分的にかろうじてその痕跡は残っているものの、実際に歩くことができるのかどうかはわからない。その現在の姿を確かめるのが目的である。また、その区間にかつて存在し、現在は所在が不明となっている水準点を辿るのも、目的のひとつ。今回の対象となる水準点は全部で6箇所。そのうち、3箇所は旧道上にあり、地形図上には記されているものの、現在どうなっているかは不明である。

 幹線道路としてわずかに痕跡を残す急勾配のその途中で、忍路で獲れた海産物を山のように積んだ荷車が過ぎる幻影と、あるいは遭遇するかもしれない・・・。

一等水準点 第6997号の所在確認

場所・小樽市忍路1丁目153番地

  JR蘭島駅からしばらくは、現国道5号線沿に小樽方向へ進む。やがて、忍路小学校が左手に見えてくる。その、「忍路小学校前」バス停から20メートルほど手前の道路わきに、第1の目標である水準点があった。カットのとおり、わりと存在感のある看板が設置されているため発見自体は容易だったのだが、ここでひとつ謎が発覚した。

 平成10年7月30日現在の謄本記録では、水準点第6997号は確かにこの位置に記されているのだが、平成3年4月1日発行の2万5千分1地形図「余市」上では、この位置よりさらに先、忍路トンネル手前の、旧国道5号線と分岐するあたりに「15.0」として記載されているのである。それらしきところを(踏切の周辺)探してみるも、手がかりらしきものは見当たらなかった。さらに謎なのは、昭和に発行の古い地形図には、ほぼ今現在の地点と思われる場所に「14.3」として記載されていることだ。移設され、再び元の場所へ戻されるということもあるのだろうか?

   謄本の記録によれば、「平成7年11月15日に埋標」とのことなので、何らかの理由で現地点へ移設されたのだろう。

旧国道5号線へ・・・

 現国道5号線の忍路トンネル手前より旧道は、右方向へカーブし線路を渡る。現在も、交通量は少ないもののフルーツ街道方向へつながる道路として利用されている。数件の民家があり、しばらくは線路と平行して進む。

 かつて重要な街道だったという面影を見つけ感じたのは、忍路へ通じる道路と交差したあたり。商店らしき古い木造建築の民家がいくつも並び、いかにも以前は街道筋だった、と思わせる雰囲気が、そこにはあった。

 

第2の目標点、一等水準点第6996号

場所 ・ 忍路2丁目101番地1地先

 忍路方向との交差点を過ぎ、さらに進むと、現フルーツ街道と合流する。生まれ変わった「旧道」は、現在の国道5号線のバイパスとしてその交通量を増やしている。

そして狭い道路の、すぐ脇を過ぎるクルマに注意しながらしばらく進むと、道路左脇にふたつめの水準点を確認。ここは第6997号の時の金属標ではなく、標石、花崗石でできたものであった。

昭和60年8月1日選点、埋標となっている。

第1の峠・・・

 SL、C62が記念運転されていた頃は撮影の名所でもあった函館本線を跨ぐ”一本杉”陸橋を過ぎ、先程の水準点地点から約1キロほど進むと、いよいよ、区間で最初の「峠」部分への入り口となる(左カット)。

 フルーツ街道では、この先、短いトンネルが掘られ、クルマならなんの苦労もなくほんの数秒で通過することが可能になったのだが、旧道は、ちょうどこのカットを撮影したあたりから、今は切通しとなったこの斜面を正面方向に登っていったに違いない。

  とりあえず、旧道らしきものを確認するまでは道路わきの藪をこがなければならない。カット向かって左側の斜面の笹薮を進んだ。春先だけあってまだ雑草が少なく、木々に葉もついていないことから、思いのほか明るく、歩きやすかった。そして気付くと、カタクリの群生の中にいた。

旧道跡発見・・・

 カタクリの群生の中をしばし登り、ちょうどフルーツ街道に作られたトンネルを真下に見るあたりで、旧道と思われる路床を見つける。そこだけ、笹の生え方が少なく、明らかにかつては道路だったと思われる。

 カットは歩いてきた方向、つまり、蘭島方向を向いている。旧道はおそらくかなりの急勾配だったに違いない。

 

 反対方向は、このような状態で、山の中腹へ向かって伸びている。幅にして2メートル程度だろうか。

 

 上のカットを撮影した場所から、フルーツ街道のトンネルを見る。旧道跡は、このままトンネルと平行して山の中腹まで数10mほど進み、大きく右へ回りこんでトンネルの上を横切るように続くはず(赤いマーカー)。

 だが実は、われわれはこの後、旧道の右へのカーブを藪の中に見落として、「峠」をパスした塩谷側まで突き抜けてしまった。もちろん、元の場所まで戻ったのは言うまでもない。

 右のカットではわかりにくいが、右端の空の部分に見える送信塔のあたりが、古い地形図上では頂上付近、つまり、区間3箇所めの水準点があるあたりとなる。

 左のカットは、上の撮影場所から進行方向のようす。この直後、本来の道筋である右へのカーブを藪の中に見落とし、そのままつき進んで尾根の頂上へ出てしまった。

 「本来の道筋を歩くこと」を身上とする「旧道保存会」の掟(?)。たった今登ってきた斜面をもどり、右カーブとなる部分を見つけ、入る。すぐに、広い空き地へ出るのだが、そこにはガードレールがあった・・・。道路の証である(右カット)。そして、そのすぐ下がフルーツ街道のトンネル口。

 その空き地から先は、今までの軽いヤブ漕ぎ状況とは異なって明らかに「道路」としての体裁を保っている。残雪は残っているものの、よく見ると最近のものと思われるわだちの跡まで見ることができた。そして、ご覧のとおりの標識がある。つまり、今でも一応、道路として存在しているわけだ。

 「峠」の頂上付近に近づくと民家があり、かつての旧国道5号線は、畑への通路として活用されているようだ。カットは蘭島方向。

 

 頂上付近の、民家のそばから蘭島側を見る。塩谷側は、その軒先を左へ大きくカーブし、桃内浄水場前をとおって下ってゆく。春先で残雪が残るため、こうした旧道探索はこの時期が一番楽なのだと、サークルメンバーの真尾氏が語る。

第3の目標点、一等水準点第6995号

場所 ・ 小樽市忍路2丁目10番

 古い地形図上でも、現在の地形図上でも同じ場所に記されているこの水準点は、旧国道として道路が存在していた時代から、通るものを見つめつづけていたに違いない。選点は明治38年4月27日。埋標は同年5月3日である。そういう意味でも、水準点は貴重な歴史の生き証人とも言える。先程のふたつめに確認した水準点、第6996号からは、ちょうど2キロ。

 カットの「通行止」標識の右側が旧道。奥に見える民家のすぐ右をとおり、向こうが蘭島側。

 

 頂上付近は眺めがよい。塩谷側を望んで、われわれも昼食タイムとなった。はるか下方には函館本線が見える。ときおり列車が通過する様を見ることができる。

 ディーゼルカーが写っているカットの線路は、実は後に、トンネル新設とともに付け替えられた部分である。古い地形図によると、踏み切り手前から左へ大きくカーブし、左端にある赤い屋根の倉庫付近をとおって、今はトンネルとなっている正面の山を回り込むように線路が敷かれていた。

 

旧函館本線の橋梁跡

ここでは、ちょっと横道にそれて、先程の函館本線、新線付け替え以前の築堤、路床探しの一幕を・・・。

 

 現在、線路の海側はそのほとんどが畑となっているが、旧線跡も、その一部分は立ち並ぶビニールハウスへと変貌していた(前ページカット、赤い屋根の倉庫から左方向)。

 畑仕事の最中だった土地のオバチャンにサークルメンバー根布谷氏が尋ねると、「私が嫁にきた頃に、線路が新しくなった。古い線路は畑用の土地として譲ってもらった」のだという。

 そして、その畑が途切れるあたり、ちょうど山が迫り桃内川とぶつかるあたりで、この、軟石を積み上げて作られた古い鉄橋跡を発見することとなった。当然桁ははずされているが、数十年を経て今もなお、立派に存在感を見せつけている。畑をはさんでほぼ並行して走る道路からもはっきりと眺めることができる。鉄道としてはかなりの急勾配で山を上っているのが、容易に見てとれた。

 向こう側とこちら側の間に立ちはだかるように生えている木が時の流れを感じさせる。

ふたたび、旧国道5号線探索へ・・・

 話は戻って、先程昼食を取った桃内浄水場前から、旧道跡(P5右カット)と畑をはさんで並走した新道を下ると、トンネルを抜けてきたフルーツ街道と再び合流する。しばらくはフルーツ街道を、右手の山の中腹に先程の旧函館本線の線路跡らしき林の切れ目を確認しつつ、足を進めた。そして、やがて右手に現れる「産業廃棄物最終処理場」への細い上り坂の道が、この区間、ふたつめの「峠」への旧道入り口となる。

 フルーツ街道はこの先左手へ進み、二つの新しいトンネルによって塩谷へ向かうが、旧国道5号線は、標高約104メートルの高さまで登る山道となる。根布谷氏曰く、「ここからが藪こぎの本番です」。覚悟はできているつもりだが、地形図上では、「幅1.5メートル未満」の「道路」として残っているので、実はあまり心配していない・・・。

 カットは、函館本線の新線と旧線が合流したあたりの踏み切りから、旧道塩谷方向を見たもの。「峠」の入り口である。すぐ右は処理場入り口。当然、旧道のこの先は車両通行止めである。

緩やかなのぼりが続く旧道と、第四の目標点、79.82メートルの不明水準点

場所 ・ 旧国道5号線沿、特定不能・・・

  意外にも今でもしっかりと管理されているらしく、踏み固められた歩きやすい道が続いた。頂上付近にあるらしい、三角点測量のためだろうか。ともかく、快調に足が進む。

 鉄道線(函館本線)が道路のすぐ左下を走っており、短いトンネルがあるため、列車が通るたびタイフォンの音が響く。有珠山噴火の影響で室蘭線が運転見合わせとなり、函館方面への特急列車もこちら側、通称「山線」を経由している。そのため、長い編成の特急列車が、眼下の林の向こうを通過していくめずらしい様を、時折目撃する。

 

 

区間第4の水準点は、発見できず

 資料として持ち歩いている古い地形図上にはしっかりと記されている、「79.82」の水準点は、結局見つからなかった。

 

 密かに「今回の探索の目玉」(サークルメンバー、常国女史談)でもあったわけだが、全員で手分けしてあれこれ推理しながらあたりを探すも、標石自体は発見できなかったのである。

ただ一箇所、一つ前の第6995号水準点と同様の、土が盛り上がった部分(右カット)があり、地形図から推測すると、このあたりにあったと思わせるに充分な状況証拠となりそうなのだが、当の標石自体は発見できず。

 ちなみに謄本記録によると、連番となる第6994号は昭和49年5月9日に、現在の国道5号線の笠岩トンネル余市側出口付近に選点されているため、おそらくこの旧国道5号線の共用中止とともにここから移設されたものと解釈するのが、妥当なのかもしれない。

水準点を発見できなかった場所の、旧道のようす

右が蘭島側。塩谷側の左方向へは、さらにのぼり道が続く

   このカットを撮っていた時に不思議なことに気付く。

このカーブの中心付近の路盤が、実は不自然にややえぐられている。

 カットで見ると、われわれは右から歩いてきたわけだが、カーブの入り口付近から左側の出口付近まで、道路を削ったような感じでくぼんでいる。というより、何らかの理由で削ったのであろうが、われわれにはその理由はわからない。まさか、水準点移設のために掘り起こしたわけでもなかろう・・・。

 このコーナーを回った先は道路上にも笹薮が見え始めるが、残雪のおかげで歩行に支障はなさそうだ。

”笠岩峠”(勝手に命名)へ向う九折・・・

 このあたりは、「峠」と呼ぶにふさわしく、くねくねと九折が続く。が、先程の、カーブをまわって山の北側へ出ると、ご覧のとおり残雪をこいで進むありさまとなった。同行する私は、ただひとりスパイク付の長靴だったためどうということはなかったが、他のサークルメンバーは、気の毒に靴の中がぐしょぐしょになっていた。夏場なら、笹薮が生い茂り、歩行困難になるかもしれない。

 海が近いせいだろう、山の中を歩いているにもかかわらず、頭の上を、カモメの群れが時折通過する。

この「峠」の頂上付近からの眺め。

積丹半島まで見渡せる

 旧道ほど絶景ポイントが多いことを、再認識することとなった。

 この「峠」のほぼ頂上付近は、ご覧のとおり日本海を望むがけの張り出しにあり、この日は曇天だったものの、遠く積丹半島まで望むことができた。眼下には、現在では国道やフルーツ街道からは見ることができない、「笠岩」が海から突き出しているのが目にとまる。

 

 もちろん、記念カット撮影となった。この日参加の「北海道旧道保存会」メンバー、左から、根布谷氏、真尾氏、常国女史。

一転、この日最大の難所に・・・

 前に触れたとおり、この「峠」は道路としての体裁を保っていて非常に歩きやすかったのだが、それも頂上付近までであった。三角点があると思われるこの頂上も、山側には畑があり、この道路もおそらく今現在も利用されているのであろう。ただ、三角点そのものは、周辺を探るも藪の中に発見することはできなかったが。

 右のカットは、頂上付近から見た塩谷の港方向。

 大きくカーブするこの「峠」の頂上付近を回りこむ。すると、ここから先の塩谷側の旧道と思われる部分は、背丈ほどある藪に覆われているではないか・・・。意を決して先へ進む・・・

 

 幸いにも、藪の繁った区間は意外に短く、再び線路が見下ろせるあたりまで出ると、道路の痕跡をしっかりと確認できるほどになった。

現在の地形図によれば、塩谷側に回りこんだところで線は消えている。つまり、その先は今となっては旧道跡が残っているものかどうかわからないということだ。

 しかし、圧雪で倒された藪に足を取られながら実際に進んでみると、伐採した材木置き場として使われており、旧道の痕跡が残っている。少々ほっとする。

 塩谷の町と、斜面の下のほうで伐採作業を続けている人を横目で見ながら、残雪の残る旧道をさらに下る。次の問題は、この先、線路のあたりまで下りたところにあるはずの、区間第5番目の水準点の所在である。

第5の目標点、一等水準点第6993号

場所 ・ 旧称 塩谷村  残雪のため発見できず・・・

 残雪の深さは予想を越え、場所によってはひざぐらいまでぬかるところもあるほど。私も、デジカメを抱えたまま思いっきり前のめりに転んでしまった。

 しかし、下りであることと、目標地点が目前に迫っていることから、どうしても自然と足が速くなる。塩谷側も結構な九折が続き、しかもかなり勾配がある。つまり蘭島方向へはかなりの上り坂となる。

 さて、そろそろ終点に近づいているこの旧国道5号線探索であるが、最後のヤマが、第4の目標と同じく現在所在がつかめない「58.75」表記の水準点探しである。幸い国土地理院の謄本記録には詳しい地図略図が記されており、事前にそれを見る限りでは、さほど苦労しないで発見できるだろうと踏んでいたが、甘かった。

 有珠山噴火による迂回措置のため、この時期にしか見ることができない振り子特急を尻目にあたりを探しまわるが、残雪に阻まれて思うように見つからない。

 というより、この状態では見つけるのはほとんど不可能に近いかも。

 ご覧のとおりの雪深さ。常国女史持参の園芸用ショベルでは、あまりにも非力だった・・・。ちなみに、ここにあるはずだった水準点は、記録によると「一等水準点第6993号」といい、昭和28年4月27日選点、同年5月2日埋標となっている。

 しかし、残念ながら昭和61年6月に「亡失」とも記されており、現在はその姿を失い、水準点としては機能していないとも解釈することができる。

再びフルーツ街道へ・・・ 

 古い地形図上に記され、現在はどうなっているかがわからない水準点。謄本記録という手がかりがありながらも、現場が雪の下とあっては打つ手もなくあきらめるしかなかった。「雪が解けた頃を見計らってまた来ましょう」 リベンジを誓って現場を後にする。しかし一方で、この区間の旧道は地形図上では中途で消失していたものの、実際にはその先まで歩くことは可能であることがわかった。おそらく新道開通後も、地域住民の生活道路、あるいは造林用の道路としてしばらくの間は利用されていたのだろう。

 前後の盛り土を含めて踏切跡も朽ちるままに残されていたが、そのわりに標識の塗色が妙にきれいだったのが印象に残った。

 

  列車が来ないのを確認して踏切(だったところ)を渡り、フルーツ街道へ合流する。ゴールの塩谷はもうすぐそこである。

 

文庫歌(ブンガタ)、「ゴロダの丘」の旧国道5号線跡

 深く切通しとなった塩谷駅と現国道5号線を結ぶ新道。実はこの新道を横切るように旧国道が存在していた。そして今は、塩谷小学校と市街地を結ぶ歩道橋に生まれ変わっている。ちなみに旧図上では、文庫歌は”ブングラダ”と書かれている。おそらくアイヌ語の「ブングラ・コタン」からきているのかも。ちょっと前までは”ブンガタ”と呼ばれていたが、現在は地名としては残されていないようだ。いずれにせよ、ちょっと当て字に無理がないか?と思うのは私だけ?

 明治39年ごろから塩谷のこの地に住み、詩集「雪明かりの路」を出版し、のちに小説、評論、翻訳などで活躍した、伊藤整。 旧道沿いの海を見渡せる丘の上に、その文学碑がある。

 伊藤整文学碑周辺の旧道は、現在も生活道路として活き続けている。しっかり簡易舗装されている。左のカットは塩谷側から蘭島方向。

この坂を下ると塩谷の市街地となる。

六番目の目標 水準点 準基311号

場所 ・ 小樽市塩谷2丁目25番1 徳源寺内

 今回の旧国道5号線探索の旅の締めくくりは、旧道が現存していた頃の地形図に載せられている、「6.96」表記の水準点の所在と、現在の地形図に載っている「19.8」表記の水準点の確認である。 だが、当時とは道路事情が違いすぎることから(現在も国道の四車線化工事が進行中)、「6.96」表記の水準点に関しては調べるすべもなく、現在の地形図にある、「19.8」表記のものを確認することになった。 こちらは記録内容から、国道より塩谷駅方向へ坂道をしばらく上ったところにある、徳源寺というお寺の敷地内にあることがわかっている。そして、基準点標識から容易にその姿を確認することができた。と同時に、この旅のゴールを迎えたことになる。

移動する水準点番号の謎

 そもそも、今回確認した水準点には連続して番号が割り振られており、最初の忍路小学校前が第6997号、フルーツ街道沿いにあった第6996号、旧国道、桃内浄水場前の第6995号という具合になっている。最初の忍路小学校前のものは、連番はそのままだが、時代の違う地形図上では明らかに異なる場所に記されていた。記録の順番では、桃内浄水場前の次の第6994号は笠岩トンネル余市側出口にあるものになる。これは、古い地形図上の「峠」の途中に記載されていた「79.82」水準点が、すでに道路としてこの旧道が機能していないなどなんらかの条件のもとに笠岩トンネルへ移設された、ということであれば、番号に変更がなくとも納得がいくものだ。ところが次の、まさにそういう状況にあった塩谷の線路に近い旧道上の第6993号は(残雪に阻まれ確認することはできなかった上、記録上は亡失)、番号はそのままで移設された記録がない。そして次の、塩谷市街地の国道沿いにあったと思われる第6992号も、古い地形図に記載されている「6.96」表記の水準点ということであればすでに亡失扱いとなっていて移設はされていないようだ。なぜなら、これに最も近い位置に設置されていたこの徳源寺敷地内で確認した水準点の表面には「準基311号」とはっきり刻印されていて、連番ではなく、”追加”の扱いであるかのようだからだ。記録では、準基311号の前は第6994号で、笠岩トンネル余市側出口のものとなる。

 はたして「亡失」は欠番になるのか?「移設」は同番号のまま移設されるものなのか? その法則性はいかに?

番外編    第五の目標点、一等水準点第6993号

         場所 ・ 旧称 塩谷村  再探索するも、深い藪のためやはり発見できず・・・

 正直言って、たった1ヶ月でこれほどまでに雑草に覆われてしまうとは思わなかった。

 前回の、残雪の残る4月23日から、1ヶ月と1週間が過ぎた5月30日、心残りもあって確認してみた。

 が、ご覧のとおりの変りよう。(旧道上からほぼ同じ方向を撮ったもので、上が4月23日 下が5月30日)

 前回は残雪のために水準点の手がかりは発見できなかったのだが、今回は身の丈以上の深い藪。雪よりもっと性質が悪かった(笑)。

 雪に覆われていたあたりを重点的に手当たり次第に踏み倒して探ったのだが、やはりそれらしきものを発見するまでには至らなかった。

 というよりは、気付くと右手が草(あるいは毒虫?)にかぶれて赤くはれ上がって我慢できず、これはたまらん、とばかりに逃げ出したというのが真相。

 右は、4月23日のときのもの。左は、ほぼ同地点、同方向の5月30日の姿。

 前回の真尾氏の言葉、「残雪のある頃が旧道を見つけやすい」を、身をもって知ることになろうとは・・・。

 右の2点のカットは、「もしかしたら・・・」と思って撮っておいた、このあたりで見つけた30センチ程度の古い石。一見、これはどう見ても一面コケに覆われているただの石。

 しかし、逆にいえば、旧道周辺で見つかった石はとりあえずこのふたつだけで、砂利も含めて石らしい石が他に見つからなかったのはやはり不自然。

 ここで、亡失扱いとなっている第6994号の記録をもう一度確認。当の水準点は「花崗石」だが、「保護石数  四個」とも書かれている。もしかするとこれは、「保護石」の残骸ではないのか?と考え一応撮影しておいた次第。

 ということで、リベンジはならなかったが、あらためて、確実に「旧国道5号線」は春を繰り返すごとに、道が作られる前の「自然」に返っていくのだなあということを実感して、帰路についた。かぶれた右手をかばいながら…。

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