【旧道エッセイ・堀 淳一紀行集】
Vol、7 ユウベツ(雄別)炭砿跡の廃墟群 堀 淳一
6月末の道東の森。それはまだ、まぶしいほどに輝ききらめく新緑と、しっとりと翳る日影の黒緑との、めくるめく交錯だ。
ユウベツ炭砿の病院廃墟群は、その交錯にすっぽりと包まれて、沈黙していた。
建物はほとんどそのまま残っているが、窓ガラスもドアの扉もことごとく失われて、どこからでも出入り勝手、のぞき放題。外壁は薄汚れてはいるけれども無事なのに対して、内部は壁面という壁面が隅から隅まで落書きに溢れかえっている、という惨状(こんな人里はなれたところに面白半分でわざわざやってくる連中が、けっこういるらしい―いや何を隠そう、私もその一人だが)。中央ホール(待合室?)の天井は、あちこちで板が抜けて穴があいており、板が落ちきらずにだらりとぶらさがっていたりする。トイレの壁も板だったようで、細い柱と横木だけを残してスカスカだった。床も、ゴミや落ち葉や紙屑だらけのところが多い。
ホールからは、螺旋階段で二階の屋上まで登って行けるようになっている。ホール真上の二階の床は、この斜路にぐるっと囲まれた円形。周りには広い窓が連続している。すぐ外がまだ森ではなかった当時は、さぞ明るく心地よい空間だっただろう。ここはサンルームだったのだろうか?それともこちらが待合室だったのだろうか?日当たりが悪く陰気な待合室でいつも待たされている身には、いたくうらやましい。
ユウベツ(雄別)炭砿跡の廃墟群
堀 淳一
屋上に出るとまた格段に広々として明るかった。かんひゃさんたちは屋上に出ることを許されていたのだろうか?もし許されていたのだったら、屋上はさらに快適な、日差しいっぱいのサンルームだったのだろう。
円形のサンルーム(あるいは待合室)や螺旋斜路は、この病院がなかなかモダーンなスタイルのものだったことを物語っている。
友人のM医師によると、炭砿の病院は都市のそれよりも格段に優遇されていて、スタッフの給与も高く、優れた医師に恵まれていたのだそうだ。この病院の建設にも惜しみなく費用が投入されたため、モダーンな様式のものができたのだろう。
そのモダーンさをみじめに裏切って、いい區の鉱山病院の廃墟がそうであるように、この廃墟も、夜な夜な(いや昼でも?)幽霊が出る、という噂でもてはやされて(?)いる。しかもこの病院跡は、幽霊のおそろしさで全国一位なのだそうだ。
なのに、私が行った日差しまぶしい真昼間には、一向におそろしくも不気味でもなかった。残念! いや、ホッとしたのも事実だが。
ユウベツ炭砿で本格的な採掘が始まったのは大正8年(1919年)。北海道炭砿鉄道会社の手によってであった。大正12年に炭砿とクシロ(釧路)港を結ぶ運炭線、雄別炭砿鉄道が敷設されたが、翌13年には三菱鉱業に買収されて、ユウベツ炭砿鉄道会社となった。
昭和16年(1941年)の2200名余よりは採炭の機械化のため減少したとはいえ、同39年にも1200名余の鉱員を擁していたが、同45年に閉山を迎えた。以来33年を経て、今は学校、郵便局、神社、寺院などもあった一大炭砿集落は森に埋もれ、草に埋もれて、影も形もない。わずかに残っているのは、若干の住宅の基礎部分、2、3の用途不明のコンクリート構造物、道路より一段高い大地に会った住宅地に登る石段、ユウベツ炭砿鉄道の終点、ユウベツ炭山駅の草だらけのホーム、“雄別購買”の廃墟、一本の太く高いノッポ煙突、ぐらいのものだった。
文・写真 堀淳一
螺旋斜路に囲まれた二階サンルーム(?)
個室病室(?) 右手にトイレ
雄別購買の跡
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