【旧道エッセイ・堀 淳一紀行集】
Vol、6 広漠の親子沼 ──兜沼・子泣沼 堀 淳一
そもそも、沼の北東岸は兜沼駅からわずか一〇〇メートルのところにあるのに、これらを直結する道がない。また沼の東岸に接して兜沼公園と称するキャンプ場があることはあるけれども、こいつ、あたかも沼には背を向けているような存在なのだ。岸は密な林になっていて、それが沼を公園から隠蔽する役割をしてしまっているし 、林を突っ切って岸に出ようと思っても 、林床の稠密なヤブに妨げられる。また、兜沼公園にクルマで行く道は沼と反対側(東側)から公園に入るため、クルマからは沼はまったく見えない。
という次第で、兜沼公園でキャンプ生活を営んでも、
国土地理院発行 二万五千分一地形図『兜沼』(平成七年修正測量)より抜粋。縮小しています。
兜沼という集落もある。宗谷本線の兜沼駅もある。いつも人一人いない侘しい無人駅だが 、レッキとした(?)特急列車交換駅だ。そして沼は、列車車窓からの人目を、印象的に惹く。
だから兜沼を「知られざる沼」とは言えないだろう。
にもかかわらず、沼を訪れる人は少なく、いつ見ても静かでものさびしい沼だ。
広漠の親子沼
──兜沼・子泣沼
堀 淳一
兜沼駅西北西A地点より見た兜沼
さまざまなニュアンスの若草色と鶸色と蘇枋色とを織り混ぜた中にくすんだ海松色の木立をボチョボチョと立てている、まぶしく明るい草原が、眼前にひろがっている。その向こうに、眼のさめるようなコバルトブルーと甘やかなベビーブルーの帯を重ねた水面が、横たわっているのだった。そして対岸は、若草色の牧草の緩斜面と、その上に低くもわもわと連なる千
沼の存在に気づかないままで過ごしてしまう可能性すらある。
が、そのおかげで兜沼は汚染からまぬがれて、原始的な姿をまずまず保っているのだろう。その姿を、列車からかいま見るだけに止めず岸を歩いて、ゆっくり見たい、と思った。
九月半ばのよく晴れた日、兜沼駅で列車を降りて、北へ歩き、T字路にぶつかったところで左折。
その先で心地よい林を抜けてゆく砂利道は、踏切を渡って、一〇.一メートルの三角点の北北東一〇〇メートルの地点に出た。ここもT字路。左へ行けば兜沼のほとりだが、まず右へ行ってみる。
二〇〇メートルほど進むと、左手に沼が見えてきた。これ以上行っても沼からは遠ざかってしまうだけだ、と、ここで沼をじっくりと眺めた。
鉛色の帯を重ね、こちら岸近くでは鉛色の小斑点を散らす淡水色となる。そして目の前のヤブは黄の花とちぢんで小さなススキの穂とを点在させる 、さまざまな緑の混淆。
さらに東へ進むと兜沼公園の中に入ってゆくが、前記のように公園からは沼は見えず、公園の南端まで行ってようやく、生い茂るヤブをへだてて沼が顔を出す。ここでは沼はふたたび彩りを取り戻していた。
対岸近くの水は、かすかにくすんで暗い、コバルトブルー。それから手前に向かって 、ベビーブルーの細い横筋、アッシュグレイのかすんだ帯、やや淡い
草鼠の丘なみ。日差しはほわーんとあたたかく、風は優しく爽やかに肌を撫でてゆく。いいなあ──
これに比べると、兜沼駅の南の湖畔からの沼の眺めは、色彩に乏しく、どちらかといえば平凡なものだった。潅木のしげみを混じえる荒れ原の向こうに白い湖面が茫とひろがり、そのかなたを真っ平らな低い丘陵が一本の黒い帯となって画している、というだけなのだ。
兜沼公園南端B地点から見た兜沼
さてところで、実は兜沼の南の湿原の中には、名前のない小さな沼がある。親に置き去りにされ取り残された孤児、という風情で、ポツンと離れて。
この沼は昔からあったことはあった。が、広大な湿原とヤブに囲まれたまま路もなく、近寄るすべとてなかった。ところが最近になって、地形図上に、兜沼公園からこの沼の岸まで行く路が出現したのだ。長い間兜沼を車窓から見るのみで過ごしていたのにこの日になっていよいよ兜沼駅で降りる気になったのは、何をかくそう、この路の出現に誘われてのことだった。
路ははじめ、さわやかな林を抜けてゆく木漏れ日娯しい路だったが、林は一〇〇メートル足らずで尽き、その先は折りおり湿原の中に顔を出す地図にもない小さな沼、というより水たまりを眺めながら陽をいっぱいに浴びて続く野路となる。それが途中で突然、湿原の草より五〇センチも高い盛土に載る真新しい砕石敷き道に変わったのに驚いたが、七メートルの標高点のところで、これから無名沼へ行く小径が分かれた。それは、びっしりと密生する背の高いアシに挟まれた、草の踏み心地と日だまりのぬくもりの、ステキに心地よい路で、三〇〇メートルばかり行って森に入った。と思うとすぐ、沼の岸ギリギリに建てられた木の展望所に、階段で登っていった。
ギリギリの岸から眺めるため、沼は視角一八〇度に広がっていて、兜沼よりも大きく見える。彩りもいい。ごくごくかすかにさざなみ立つ水面は、ところどころで利休鼠やオリーブ茶のぼやけた横帯を棚引かせたり、千切れちぎれのオリーブ茶の斑点を浮かばせたりしているほかは、わすれなぐさ色一色。その中に、鶸色または光る白の水草の小さな島が、まばらに散らばっている。
オリーブ茶の帯や斑点は、なぜかそこだけ波がなくて、対岸の森がそのまま映っているところなのだ。
向こう岸は大部分、まぶしい輝点と鸚緑とを渾然と混ぜる、スイレンの大群に縁取られていた。その上は濃淡の納戸鼠を細かく織る湿原の森。空は限りなく広
この無名沼は、おもしろい貌をしている。親に去られて大声で胸に手を当てながら泣きわめく子供の上半身に似ているのだ。私は「子泣沼」と名づけることにした。
子泣沼は、なぜ親の兜沼に置き去りにされたのだろう。
兜沼という名は、その平面形が兜の鍬形に似ているところから来ている、という。しかし、今の兜沼は鍬形には少しも似ていない。なんで?
国土地理院発行 五万分一地形図『抜海』(大正十二年測量)より縮小して掲載。
国土地理院発行 二万五千分一地形図『兜沼』(昭和三二年測量)より縮小して掲載。
子泣沼、北々西望
く、まぶしくあたたかな日ざしとやわらかな微風が、何とも快い。人は誰もおらず、日ざしの降る音とかすかなさざなみの囁きが、聞こえてきそうだ。
子泣沼、西望
実は大正年代後期(一九二〇年頃)には、沼の北西側が、今よりも一キロほども北々西にのびており、しかも二股になっていた。つまり正しく鍬形だったのだ。それがどんどん縮まっていって、ついに「角なしの兜」になってしまったのである。
さらに一九二〇年頃には沼の南東側もまた二股になっており、今より東の腕は約六〇〇メートル、西の腕は約三〇〇メートル南東に延びだしていて、その間に子泣沼をはさむ格好に──つまり両腕で子泣沼を抱く格好になっていた。
兜沼の北西側の鍬形は急速に消滅して、一九五五年頃にはもう現在とほぼ同じくまったく消えてしまっているが、南東側の二本の腕の状態は変化がおそく、一九七五年ごろまでは昔とあまり変わらずに子泣沼を抱いていた。ただし子泣沼の形は変化が大きく、一九五五年頃には胎児形、一九七五年頃には幼児形(まだ泣いていない)だったのは、おもしろい(一九二〇年頃の形については、当時の地形図の精度が粗いため、何とも言えない)。
現在サロベツ川は沼のはるか東方を南々西方向に流れているが、これは人工的にそう強制されたためである。もともとは川は沼の南方一キロほどのところを西流し、子泣沼のすぐ南で南々東に急転回して、ひどく
蛇行しながら、およそ今の兜沼川と同じ経路で流れていっていたのだ。また、子泣沼の南で直接急転回せずに、その西側をかすめていったん兜沼に入ったあと、すぐに兜沼から出るという、複雑な流れ方をしていた時期もあった。
サロベツ川の西進部分がつくった自然堤防(現在の地形図上に標高七.五~一二メートルの微高地として表現されている)によって堰き止められてできたのが兜沼なのだろう。一時期サロベツ川がいったん兜沼に流入していたのも、自分自身がつくった自然堤防に邪魔されて南々東に急展開しにくくなったせいなのだろうか?
子泣沼がこういうサロベツ川の流露変遷に巻き込まれず、終始孤立を守っていたのはちょっと不思議だが、それは、ここがまわりより僅かに高かったおかげらしい。
とすると、子泣沼は実は泣いているのではなくて「オレは自立してるんだぞ!」と大声でわめいているのかもしれないな。
参加者 富田、堀(いずれもコンターサークルs)
国土地理院発行 二万五千分一地形図『兜沼』(昭和五七年測量)より縮小して掲載。
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