【旧道エッセイ・堀 淳一紀行集】

Vol、4 水びたしの古びたトンネル 小山のようにそびえる切れた築堤 ──白滝・春賀間の愛媛鉄道跡

 にぶく光る高曇りの空。気温は一〇度前後しかないけれども、風がなく、寒くはない。

 そんな三月の半ば、浅倉さんと二人で、伊予白滝駅に降り立った。ホームで白形さんが手を振っていた。

 

 駅前から米津へ向かう。幅二メートルぐらいの簡易舗装道路。町を出外れると、五〇センチと離れずに右側に平行している線路──さっき私たちが大洲からやってきた線路を、大洲行きの列車が轟音と駆け抜けていった。

 六〇〇メートルほど行くと、レールと道路は相並んで東から南東へカーブする。と間もなく道は細い草路に変わって、線路を次第に下に見下ろしながら登っていった。

水びたしの古びたトンネル 小山のようにそびえる切れた築堤 ──白滝・春賀間の愛媛鉄道跡

堀 淳一

 この草路が予讃線の全身である愛媛鉄道の跡なのだが、線路がこんなに急に登れるはずはない。さきのカーブのあたりで現在線から徐々に外れ初めて、緩勾配でこちらに登ってきていたのにちがいない。線路跡とは思えない草路の細さは、新線建設のために新線側(谷側)が削られたためだろう。

 果たして、現在線から十分に離れると、草路は約三メートルという線路跡にぴったりの幅を取りもどした。山裾を斜めに登ってゆくその姿も、いかにも線路跡だ。高さもあっという間に右手の家の屋根を越えてきた。現在線はもう、さらにカーブして、その家の向こう側に行ってしまっている。

 と、行く手に河内トンネルが見えてきた。断面は小さい(愛媛鉄道は軌間七六二ミリの狭軌鉄道だった)が、煉瓦積みのアーチと、その外側のどっしりとした石積みの壁に、懐かしい風格があった。

 入口に積んである肥料の袋やビニール籠をすり抜けて中に入ると、闇のなかに出口がポッカリとあいていた。おっ、抜けられるぞ!とわくわくしながら進んでいったら、うっ、残念、半分から先の床が水びたしになっていて、出口から入ってくる光を白く反射しているのだった。

 水の深さは分からないけれども、どうやらそれを突破するためには長靴が要りそうだったので、引き返して、さあどうする?と考える。

 「トンネルの上を越えていきましょう」

と白形さんが言った。 うーん──

 トンネルの上の高さは十二~三メートルにすぎないし、てっぺんは見えているから、越えられないことはないなあ。しかし木が生えており、落ち葉・落枝がうず高くつもっていて、足場がかなり悪そうだ。それに、さっきの家の横を通って道路に降りてゆく踏みわけ跡があり、それを行って道路を歩いていっても大した距離じゃない──

 「いやあ、私は道路をまわって行きます」

と、山越えにかかる白形、浅倉両人と分かれる。

 大急ぎで道路を迂回して米津の集落に入ってゆくと、道の左側に、高さ四メートルぐらいの三角形の草山が、ぬっ、と現れた。何だこれは?と見上げたら、あれれ、てっぺんから白形さんが私を見下ろしていた。

 「うわ、早いですね。これ、築堤ですか?」

 「ええ、トンネルからずーっと続いてますよ」

 「じゃ、行ってみます!」

 

 築堤によじ登ると、上にちゃんと、踏み跡がついていた。それを辿ってゆくと、なるほど、さっきのトンネルの出口に突き当たった。

 出口も入口と同じスタイルの、煉瓦積みアーチを石積みの壁がガッシリと固めたものだった。が、アーチの裾がしぼられておらず(すなわちトンネルの断面が馬蹄形ではなく)ずん胴アーチになっている上、全体的にも入口より若干幅広になっている。その理由は分からないが、出口の山裾斜面がトンネルの縦軸とやや斜交しているためらしい。

 出口のすぐ前には、ササやシダや立木を載せた土塊が、うず高く盛り上がっていた。右側の山腹から崩落してきたもののようだ。

 あたりは暗く、夕暮れ時にはさぞ不気味だろう。トンネルの闇から何者かがこちらを窺っているのではないか、とゾーッとしそうな。

 しばらくそんな雰囲気を味わってから、築堤を引き返す。

 築堤の上も、両側の斜面に背の高い木々が生い茂っていて、薄暗かった。何かに追いかけられるような気分でちょっと急ぎ足で歩き、さっきの小山のような築堤突端に出て、ホッとした。

 線路はここで道路をまたいでいたのだが、またいでいた部分は全く消えてしまっていて、築堤はそこでちょん切れた格好になっている。そのちょん切れた頭が、小山のようにそびえて見えていたのだった。

 道路の反対側の築堤も残っていたが、こちらは気が密に生えていてヤブ状態だったので、すぐ横の道路を歩いてゆく。

 と間もなく築堤は切れて、大きな木工場が現れた。ふたたびちょん切られた築堤の頭に、一群の竹が思うさま丈高く、逆さ帚のようにぶわあっと上に広がって伸び生えている姿が、いたくユーモラス、かつ印象的だった。

 木工場の先からまたまた復活した築堤は、異常に幅が広かった。六メートルぐらいもあろうか。

 「ここ、いやに広いですね。駅があったんじゃないですか?」

と白形さん。

 

 「そうですねえ。米津にはけっこう人口がありそうだから、駅があってもおかしくはないですね。ただそうすると駅間距離が短くなりすぎるけど。ナローの軽便線だから、あったかもしれませんね。でもこの幅じゃ、本格的な駅じゃないでしょう。短いホームが一本だけ、っていう乗降場でしょうね」

 築堤は次第に細くなっていって、さっきから脇を続いていた道路が、それにとって代わった。レッキとした舗装道路で、クルマも少ないながら走っている。ここでは線路跡がそのまま生活道路になっているのだ。

 八多喜トンネルも、断面は河内トンネル同じく狭く、煉瓦のアーチもまわりの石積みも鉄道時代のままだが、ちゃんと天井に明かりがついて、道路トンネルとして使われていた。

 ところがトンネルを出てしばらく行くと、道路は廃築堤に戻った線路跡から、右にそれてしまった。築堤は草に覆われ、果樹らしい幼木をチョンチョンと立てて続き、やがて清永川に沿って予讃線八多喜駅から谷を上がってくる道路に突き当たって切れた。

 切れたところには、今度はちゃんと橋台が残っていた。道の向かいにもこれと対をなす橋台。どちらも小ぶりだが、ていねいに石がつまれた台形の姿が、まわりに植わっている果樹、横に置かれたひと山の薪、あるいは密集し、あるいはまばらに散らばって咲いているあたりの花や黄の花々とともに、のどかな田園をコトコト走ってゆく軽便列車のおもむきを髣髴させた。

 道向かいから続く築堤の上はちょっとゴチャゴチャとした家庭菜園風の畑になっていたが、畑をぬってゆく細い道があったのでそれを行くと、大きなアパートの裏手にぶつかってしまった。

 アパートの横をまわってその前に出ると、そこは大きなコンクリートの広場だった。隅っこにいくつかの丸太の山があるほかは何もない、ただだだっ広いだけの──

 「これはたしかに駅の跡ですね」

と言ったら、

 「ええ、こっちは確実ですね。さっきよりもずいぶん広いし、今も予讃線の八多喜駅があるんだから、当然当時も駅があったでしょう」

と、浅倉さんもうなずいた。

 線路跡のすぐ南に西から近づいてきていた道路が、広場の(アパートと反対側の)端で二本に別れ、一本は北東へ向かい、一本はそのまま線路跡の南側に沿って東へ続いていた。線路跡はそこからしばらく草のベルトとして残っていたが、間もなく道路にとって代わられた。と思うと春賀トンネルがもう行く手に見えていた。

 これももともとは前二つと同じく狭い煉瓦積みアーチのトンネルだったはずだが、今はすっかり改築されて、二車線幅の広いコンクリートのトンネルに変貌していた。立派だが、何のヘンテツもない道路トンネル。味わいには大いに缺けるのが残念だ。

 トンネルだけでなく、その先は線路跡も終始二車線の面白味のない舗装道路だった。和田の集落をつらぬく道路との交差点から春賀駅までの、最後の部分を除いて。

 その部分はぐんと狭く、舗装もお粗末な場末の街路。ゆっくりカーブしながら家々の間をぬけてゆくその風情は、軒先をこするばかりにギイギイと曲がって行っただろう昔々の列車の姿を、まざまざと眼に浮かばせた。

 愛媛鉄道は一九二〇年に若宮分岐点(現在JR予讃線と予讃新線{内子線}が分岐している地点)・内子間を軌間七六二ミリで開業した。が、一九三三年(昭和八年)旧国鉄に買収され、同時に白滝・春賀間のルートが現在のJRのルートに切り替えられた。またその二年後には予讃線が松山までつながったのを機に一〇六七ミリに改軌した。

 内子線は国鉄になってから分岐点が若宮から立部に変更されたが、一九八六年に予讃新線が開通した時、再び若宮にもどった。

 ところで愛媛鉄道の白滝・春賀間は、なぜはじめから平坦な肘川の谷に敷かれず、わざわざトンネルを三つも掘らなくてはならず勾配もきつい、山まわりのルートで敷かれたのだろう?

 これはナゾだったが、現地を歩き、地図を改めてよく眺めて、また松山市の出身でこのあたりの地理歴史

 白滝・春賀間には、そういう氾濫原が二つ連なっている。そのため、洪水を避けてレールが山まわりで敷かれたのだろう。

 愛媛鉄道の内子支線は、はじめ五郎から分岐するはずだった。それが若宮に変更された理由も、大洲・五郎間の肘川の谷が、春賀南方の狭窄部の上流にひろがる、大きな氾濫原であることにあったようだ。

 肘川の旧流路は、今の肘川から大きく東にそれて、氾濫原の東端沿いに迂回していた(今の地形図からもその様子はうかがえるが、旧版地形図を見ればさらに明瞭だ。氾濫原内の頻繁な流路支代の歴然とした証拠)。五郎のすぐ南でこの迂回部分に東から矢落川が入っているため、ここに鉄道を通すのが難しかったらしい。

 ともあれ、廃止後七十年も経った山まわり線のトンネルのうち二本が、今も使われていたり、床が水びたしになっているとはいえ崩落もせず閉鎖されもせず、長靴さえあればくぐれる状態で残っていたり、また築堤のかなりの部分や道路をまたいでいた橋の橋台も残存しているのは、感動的なことだった。

 「思ったより密度の濃い収穫がありましたね」と三人で喜び合いながら、春賀駅で帰りの列車を待った。

 

参加者  白形 浅倉 堀 (コンターサークルs)

 

に明るい白形さんに示唆されて、ハタと思い当たった。

 春賀から白滝にかけてその肘川の谷は、洪水の常習地だったのだ。

 肘川の谷は広く、川はその中を大きく蛇行しているが、ところどころ、両側に山が迫る狭窄部がある。また白滝から下流では終始山に挟まれて、谷は狭い。そういうところでは水の流れが妨げられて、その上流の谷の広い部分(氾濫原)に水が溢れ、洪水を引き起こすのだ。そして川はそのたびに流路を変える。

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