【旧道エッセイ・堀 淳一紀行集】
Vol、14 艫作崎(へなしさき)の喉もとを越える ──中山峠越えの国道一〇一号旧道 堀 淳一
某年五月四日、今日も上天気。いい気分で深浦駅から外に出た。田島さんが出現した。タクシーをたのみ、二人で旧道の入口A地点へ。
A地点には、「元城」の説明版が立っていた。北、東、西の三方が急崖で落ちる丘の上にあった、とあるから、Aに向かって南から突き出ている尾根の先端にあったのだろう。中世の山城で、築いたのは、安藤氏との抗争で嫡流が絶えてからもなお抵抗を続けた残党、なのだそうだ。
だが、下から見上げた限りでは全く何の特徴もない自然の尾根の突っ先、にしか見えない。登れば何かがあるのかもしれない。とはいえ登ってゆく路などは見当たらない。ま、古城探訪に来たわけじゃないから、とパス。
道は三メートル幅の舗装道路だった。これは予想通りだったからそれでよし。それよりも何よりも人もクルマも滅多に来ない長閑な道であることがありがたい、と、春の日ざしに包まれて歩いてゆく。
艫作崎(へなしさき)の喉もとを越える
──中山峠越えの国道一〇一号旧道
堀 淳一
国土地理院発行 二万五千図「深浦」
はじめ一キロあまりは水田もある湯ノ沢の広い(といっても幅は三〇メートル前後くらいのものだが)谷を、坦々と遡ってゆく。小さな綿雲が折りおりいつのまにか予想もしないところにふわっと浮くだけの青空から降りそそぐ日の光をあたたかく浴び、五月の爽やかな空気を味わってゆくのは、心地よさ最上だった(あ、そうそう、忘れてた。A地点から一〇〇メートルばかり行ったところにあるはずの一二.三メートル水準点は、しばらく探したのだが、なかった)。
B地点には道がその先で二本に分かれることを示す標識がヨットブルーもあざやかに立っていたが、、右へ行く道の到達先が消されてしまっていた。念には念を入れて色濃く塗りつぶされていて、全く読めない。昔は途中にあったマンガン鉱や艫作無線中継所を経て、舮作まで通じていたはずだから、消されたのは多分「艫作」の字だろう。
左に分かれる国道一〇一号旧道は、別れると間もなく山腹を登りはじめる。といってもめざす中山峠は標高約一五五メートルしかなく、先の分岐点との高度差は一二〇メートルほどに過ぎないので、勾配はゆるく、ラクな登りだ。しかしそのくせいやにくねくねと曲がってゆく、その曲折がおもしろい。
旧道は閑散としていて、クルマもほとんど来ない。風もなく、日ざしの降る音が聞こえそうな静けさだ。草の鶸色も思いっきり明るく、天国的。ここで昼寝がしたいなぁ!
とはいえ寝過ごしてしまったら大変、陸奥岩崎駅で列車を掴まえそこなう--
昼寝の代わりに小一時間ボーッ、と日を浴びたあと、時間を見計らって歩きはじめる。
道ははじめ、大きくふくらんでゆるやかな玉坂川最上流の谷頭部を横切ってゆく(日向ぼっこをむさぼった草の斜面は、この谷頭部の北東縁なのだった)。道の右側(上流側)には、スカイブルーの空を映して空よりもぐんと濃い、薄群青色の沼があった。ただし、向こう岸近くの水には細いアシが群生しており、彼方の針葉樹の森を映して小豆色に染まっていたが。いや、よく見ると手前の岸近くにもまばらながらやはりアシに覆われつくして、湿原に移行してゆくのだろう。
左側には鶸色の草原がはるか遠くまで続いている、と見えたが、目を凝らすと、実はこちらにも沼があるのだった。
登りはじめてすぐのところの八一.一メートル水準点は、今もあった。標石は丸い石の頂部に金属票が埋められている、わりと新しい様式のものだが、保護石は四個ちゃんと揃っていて、整ったものだった。海岸まわりの現国道には水準点はないから、これは現役なのだ。
道は黒々とした針葉樹林の中を、日を受けて白く輝きながら、ほぼ忠実に等高線をなぞって登ってゆく。森が密なため、ところどころ樹影が路面に落ちてはいるがそれも黒い塊。「木洩れ日」の風情には遠い(地図ではこのあたりの森は広葉樹林になっているが、何分未だに一九八五年修正のままなので、実情と合っていないのだろう)。とはいえだからといって歩く楽しさが減殺されることはなく、曲折のおもむきをたっぷりと味わいながら、ゆっくり登る。
峠が近くなってからは、森が広葉樹林に変わった。が、高い木がまだ裸木状態のままであるため路面に落ちる影は淡く、やはり「木洩れ日」の道にはなっていない。しかし、逆光にきらめく低木の浅緑や路傍のササのしげみと、真っ黒に陰る裸木のシルエットとのコントラストが、なかなかよかった。そして間もなく、峠。
といっても、両側とも林で、展望はなく、ただゆるい登りからゆるい下りに変わる、というだけの峠だった。また、下り始めるとすぐ右側に広く明るい草の緩斜面が開けるのも、「峠越え」感を薄めた。
「何だか峠を越えた、って感じがしないけど、ここ、いいですね」
「ええ、ちょうどいい日だまり、って感じ。気持ちよさそう~」
「うん、ここでおひるにしましょうか?」
「ええええ、そうしましょう!」
というわけで、高原の草っ原での日向ぼっこ兼ランチタイム。
道はやがてこの「遠い沼」の西岸に沿ってゆくことになる。そして沼を過ぎると、「中山牧場」へ行く道を左に分ける。
それは草蓬々の道だったが、ちょっと入ってみたら「遠い沼」を左に見て高く盛り上がる土堤の上の道だった。そうか、そういえば最上流部の沼を右に見て通ってきた旧国道も、沼を見下ろす土堤の上を走っていたのだった。どうやら二つの沼は溜池で、それぞれの締切り堤防を利用して道が敷かれた、ということらしい。いやそれとも、道が谷を横断してつくられたのでそこは必然的に築堤になり、沼はそれに堰き止められて自然に出来たものなのかも。
地図に描かれているさらに下流の第三の沼は、締切り堤防が明示されているから、明らかに溜池だ。道はこれの西側の斜面をまっすぐ南下していって、谷の中に入ってゆく。
おっと、また忘れてしまうところだった。さきの中山牧場に向かう道との分岐点には、一四九.五メートル水準点が、現存していた。これは昔ながらのヘソつき花崗岩の標石で、四つの保護石も立派に備えていた。
谷に入ってからは道は終始、玉坂川に沿って下る。勾配も曲折も、、ともにゆるい。両側は相変わらず森だが、ここでは針葉樹になったり広葉樹になったりと、変化がある。時にコブシの木が今を盛りの白い花をいっぱいにつけて、「待ってたよ!」というように立っているのも嬉しい。
八六.三メートル水準点も、きちんとあった。ただし、日本地図と測量作業中の技師が浮き彫りにされている円形の鉄の蓋でふさがれたマンホールの中にあって、御本尊は拝めなかった。残念。
水準点を過ぎると道は今度こそ木洩れ日の愉しい雑木林の路となった。そして一〇分ほど、深浦町・旧岩崎村地内の浜野集落の赤屋根の群れが、ついで五能線の玉坂川鉄橋が、行く手に見えてきた。
国土地理院発行 二万五千図「深浦」
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