【旧道エッセイ・堀 淳一紀行集】

Vol、12 廃線跡歩き、変じて特級B級湖沼探索となる   ──仁鮒森林鉄道跡、前田代潟 田代潟   堀 淳一

廃線跡歩き、変じて特級B級湖沼探索となる

──仁鮒森林鉄道跡、前田代潟 田代潟

堀 淳一

 「いい路ですね」

と石橋さんが言った。

 「ええ、今んとこね」

 そう、それは本当にいい路だった。ただ、あとでどうなるかはわからないから「今んとこ」なのだ。でもそれでいいじゃないか。いい路なら。

 路だけではなかった。五月はじめの光る青空。ぬくもりの日ざし。爽やかな大気。山中の小盆地の眠るようなのどかさ。どれもいい。

 そこは出羽田代の集落南方のA地点。歩きだしたのは、ここでクルマ道から分かれて北上している、仁鮒森林鉄道田代線の跡。それが今は、明るいアップルグリーンの草の中に二条の轍を引く、まぶしい日向と暗い木陰との交錯のうれしい土の路になっていたのだ。

 左(西)側は山裾の林、右側も潅木の疎林だったためよくわからなかったのだが、疎林が切れたとたん、分かった。路は田代盆地西縁の山裾にピタリと沿う築堤に載っているのだ、と。向きが次第に東寄りに変わってゆくので、右側に木があってももはや影をつくらなくなり、路は終始光をいっぱいに浴びて、緩やかなカーブを描きながら延びていった。

 

国土地理院発行 二万五千分一地形図『下岩川』をもとにカシミール3Dにて出力したものを縮小使用。

 やがて山裾が後退して両側とも水田になると(水田といってもまだ肉桂色の土のままだったり、枯れ草に埋もれた休耕田だったり、と、あまり田んぼらしくなかったが)、築堤は、アップルグリーンをチョボチョボと混じえる藁色の枯れ草に全身を覆われただけの、立木も轍もない丸裸の姿になった。燦々の日ざしの下で嬉々と歩く一行の、赤、黒、白、ベージュ、青の点々が、その上を三々五々動いてゆく風景に、目を細めて私も行く。

 出羽田代の集落にさしかかったころ、前方右側に、薄群青の水面が見えてきた。築堤の足元に水を湛えるため池だった。藁色や肉桂色の多い、ややまぶしすぎる水田景が、水のさえた薄群青と、ため池の岸に生えるヤナギのめざましいシャルトルーズグリーンで、キリリと引締められている。思わずみとれて、しばらく足を止めずにはいられなかった。

 

 溜池から先、路の両側はふたたび木、草、ササ、枯れススキで賑わってきた。路面にも鸚緑の草が、そして不明瞭ながら轍も戻って来、きらめくシャルトルーズグリーンの木々の葉も加わって、ゆたかな彩をもたらす。さらに先では路は満開のサクラのトンネルをくぐっていってみんなを喜ばせたが、サクラが去るともう一度裸の草路に変わって、盆地の北端まで水田の中をつらぬいていった。北端からは、突然様子が変わる。線路跡が急崖で田代川に臨む尾根の先端を回りこみはじめるからだ。そんなところでは廃線跡は林道にでもしない限り使い道がないため、すっかりヤブ化してしまっていたのである。

 いや、ヤブ化しているだけならばまだしも、路は実は崖の崩壊のためにほとんどもとの急斜面に戻りかけていた。しかもすでに、崩壊によって倒れかけたり倒れてしまっている木々が、

乱杭歯状、あるいはメチャクチャな逆茂木状に進路をふさいでいて、それらを無理やり踏みつけ掻き分け押しのけ押し上げてゆくのは、おそろしくエネルギーを食う難行だったのだ。

 真っ先にその難行に突入していったのは、いつも元気いっぱいの相澤さん。私がそれに続いたが、傾木倒木を一本突破するたびに一息つくこちらは、バリバリと音を立ててヤブを突進してゆく相澤さんには、到底ついてゆけず、ずんずんとおくれてしまう。それでも一五メートルぐらいやっと進んだ頃、相澤さんは、

 「ちょっと先で深い谷を渡るんですけど、橋が落ちてるんです。行くのはムリそうですよ」

と大声で言いながら、またバリバリと引き返してきた。そうか、相沢さんがそう言うのなら、やはりムリなんだろうなあ──

 「橋が落ちているそうです。戻りまーす!」

と振り返ってどなり、私も引き返す。

 ヤブに入らずに日和っていた石橋さんが、こちらにビデオカメラを向けている。カメラを下ろすと、

 「堀さんの退却場面をバッチリ撮りましたよ」

とニヤニヤしている。コノヤロー! と思うが、泣く子と鬼の編集長には勝てない。苦笑いしてやり過ごす(石橋さんは私の本の編集担当なのだ)。

 農道を通って田代川を渡り、クルマ道に出た。

 今歩いていた路は、秋田営林局能代営林署が管理していた仁鮒森林鉄道・田代線(軌間七六二ミリ、全長一一、三キロ)の跡である。田代線は支線で、本線は西隣の谷、仁鮒・濁川間に一九〇七~一九一一年(明治四〇~四四年)開通した。田代線の開通はずっと遅れて一九四〇~一九四七年(昭和一五年~二二年)。主任務は秋田杉材の運搬だが、客車もあって、沿線の人々を乗せていたという。廃止は一九六四年だった。

 さて、廃線跡歩きは途中で挫折したが、この日はもう一つの目標があった。出羽田代の北北東にある二つの沼、前田代潟(地図では無名だが、勝手にこう命名した)と田代潟を見る、という目標。それに向かってクルマ道を北へ歩く。

 前田代潟の北側にひょろ長く横たわる一六二メートル標高点を載せる丘の、北麓をかすめている林道に入り。途中からそれと分かれて田代潟に登る小径を行くつもりだった。前田代潟へ行く道は地図にはない上、前記の丘が屏風のように林道から沼をかくしているが、丘の西端または東端あたりからヤブをこいでいけば沼に出られるかもしれない、という思惑で。

 しかし、林道の入口が行く手に見えてきた時、道の右側に鳥居が立っているのに気がついた。そして、鳥居の前に立つと、それをくぐって登っていっている、踏み跡が見えた。

 誰も来ず、小鳥の囀りだけが遠く近くあるいはハッと耳を打ち、あるいはささやくように小さく響いてくる森の中。山腹が三方に迫る狭く深い窪地のため、風は全くない。水面は、落葉を万辺なく鏤めた中に木々の白い幹や藁色の枯枝やアップルグリーン、コバルトグリーン、白緑などの葉を、ほんのかすかにぼかすだけで、そっくりそのまま映していた。水は浅いらしく、底の土をすかして暗いマホガニーブラウン。それが静けさを、いっそう身にしみこませる──

 踏み跡は、沼からさらに奥へと続いていた。いつのまにかすぐ脇に現れていた、細い水路を伴って。この水はどこから来ているのだろう?

 二〇〇メートルほどで踏み跡は林道に入る。林道から田代潟へ登る小径は、すぐ先で分かれているはずだが、入口が不分明だった。

 ん? この踏み跡、丘と前田代潟の間をぬけてゆくんじゃないか? という直感(ヤマカン?)が、降って湧いた。

 「これを行きましょう。多分前田代潟の岸を通りますよ」

とみんなに声をかけて、踏み跡に入る。

 それは、森の中を細々と続く、わあいいなあ! と思わず叫びたくなる、ステキな路だった。しかもヤマカン通り、一六二メートルの丘の南側を通ってゆく。うんいいぞいいぞ、ゼッタイ沼の岸を通るぞ!

 期待誤たず、沼が右下に見えてきた。想像した通り、なかなかいい沼だった。ヤッタ!

 今来た踏み跡にすぐ続くあたりのヤブに相澤さんが入っていったけれども、どうもそこではないようだ。で、もう少し先へ行って、林道の右側に立っている小屋の向こう側から、前記の狭く深い谷の北東側山腹を見上げる。

 と、木々の密度が何とはなしにやや小さくなっている線が、山腹をナナメに登っていっていた。これだ! と直感して(ヤマカン?)、

 「ここが路らしいです。これを登りましょう」

とみんなを呼びざま、登ってゆく。

 ヤブといえばヤブだが、歩行を妨げるほどのものではなかったので、どんどん登る。とやがて草木はまばらになり、むきだしの土と岩と岩屑の急斜面をよぎってゆく路が、ずっと明瞭に見えてきた。うん、間違いない! 地図通り、右側は深く狭い谷に、ダーッと落ちている!

 進むほどに、路は加速度的にあやうくなってきた。草木がなくて崩れ易い斜面なので、路面が斜面なりに傾いていて水平部分がない上、ひどく滑りやすい。うっかり足を滑らせると直下四~五〇メートルの谷底に転落必至だから、慎重に少しでも滑りにくそうな着地点を次々に選び、バランスを失わないよう注意深く足を運ぶ。

 だが一方、もうすぐ沼だぞ、という期待感が、ぐいぐいと足を動かそうとする。それに、ここでもまた相澤さんが、いつの間にか私を追い越して、ずんずんと登ってゆき、もう姿が見えなくなっていた。よし、行くぞ!

 やがて予期通り(地図通り)、北西に向かって突き出る鋭い尾根が、前方に見えてきた。沼はあの尾根の向こう側にあるはずだ。うん、いいぞいいぞ!

 尾根の先端近くには、滝がかかっていた。真っ白にきらめいて勢いよく光の筋を曳く滝が。光の筋は数メートル下で無数の光の粒にくだけ、谷底へと雲散霧消していた。そうか、この水が谷を下って、さっきの水路の源になっているのだな。

 滝のすぐ上流の浅い流れを渡って、神社の前を通ると、沼が見えてきた!

 沼の手前はササと草の生い茂る湿原。それを、ズブズブと足が埋まりそうになる直前まで進むと、とろりと暗い水面が、眼前に迫っていた。

 沼はすっぽりと森に囲まれている。今立っている湿原を除いては。森の木々は、半分が日を受けて輝くピンクベージュの裸木。半分は緑。緑の半分は明るいシャルトルーズグリーン、アップルグリーン、残りの半分はやや暗い常盤色や深緑。裸木も緑の木々も、幹は一様に目立って明るいベージュホワイトの細い筋を、スイスイと垂直に立ち並べている。

 かすかにゆらぐだけの、静穏そのものの水面に、それらの木々が、ほとんどそのまま逆さに映っている。暗い緑は深いアービーグリーン(限りなく黒に近い濃いオリーブグリーン)に、明るい緑とベージュホワイトとピンクベージュはそれぞれややくすんだ同色に、そして空は、目のさめるようなサルビアブルーに。

 風は相変わらずほとんどないが、ここは前田代潟より約九〇メートル高く、かつ段ちがいに谷間が広い(といっても野球場ほどもないのだが)ため、時々微風、あるいはそよ風が吹いてくる。そうすると、アイビーグリーンの部分はもともと細かい図称がないのであまり変わらないけれども、明るい部分は、あるいはいちめんのさざなみの中にきらめく輝点の大群がサァーッと走るハバナローズの水面と化して細部をすっかり消してしまい、あるいは図柄は残すものの、それを絹目状に微細にゆるがしたり、鱗目状に大まかに動揺させたりする。

 しかし風がきても、水はあくまで静穏。そして、ウグイスをはじめとする鳥たちの声と聞こえるか聞こえないほどのかすかな風のそよぎが、その静穏さをいよいよ心身にしみ通らせるのだった。

 そんな水面と軽やかな水のさざめきは、いつまでみつめていても飽きることがなく、みんなを岸辺に釘づけにしてやまない。

 「いやーいいですね──あの神社、誰もいないようだからボクが住んじゃおうかなぁ──大都会にいつもいると、こんなところで暮らしたくなっちゃうんですよねえ」

と、丹羽さんが感に堪えたように言った。

 「立ち去り難いでしょう?」

と私。

 「ええ、いつまでもいたいですねえ」

 小一時間ほどが、そうして経った。がふと気付くと、相澤さんが消えていた。あれ?と振り向くと、いつの間にか彼は神社の横に立って、こちらを見ていた。

 ようやくみんなもそろそろ動きだして、さっきの滝のところへ戻ってゆく。滝は西日を受けて、いっそうまぶしくきらめいていた。そこでおそまきながら気がついたのだが、滝の水は田代沼から来ているのだった。沼の静けさと滝の激しさとのあまりにもきわだった対照がフシギだったが。

 さっきの水路も、結局田代潟を水源としていたわけである。そうか、田代潟の水が羽後田代の水田をうるおしているのだ。それで沼は田代潟と呼ばれ、そのほとりに水の神が祀られているのだろう。

 さて、相澤さんは?

 さっき来た路ではなく、神社の横から裏手に登ってゆく小径を、もう歩いていた。そして追いつくと、

 「さっきの路を下るのは、登るのよりもっと危ないですよ。遠回りにはなるけど、これを行って林道に出る方がラクですよ」

と言った。改めて地図を見ると、たしかにその通り、こちらを行けば、たった五〇メートルで林道に出られるのだった。

 林道への出口にも、鳥居が立っていた。というより、こちらの方が神社への入口なのだ。本来の参道はさっき来た道なのだが、今は前述の通り、すっかり荒廃してしまっている。そこで近年つくられた林道を利用して、こちらから神社へ行けるようにしたのだろう。

 「こっちから来たほうがラクだったんですね」

 「ええ、遠回りにはなりますけど」

 「でも、苦労してあのひどい路を登ってきたおかげですよ。沼にあんなに感動できたのは。だから古い参道を登ってきたのは、やっぱり正解だったんですよ」

 「ホント、それがよかったんですよね。苦労した分、よけいに沼が美しく感じられたってことですね」

 

 

参加者   石橋(尚)、石橋(和)、湯目、相澤(均)、相澤(洋)、丹羽、堀

 

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