【旧道エッセイ・堀 淳一紀行集】
Vol、1 「沼ノ岱」の大沼、小沼 堀 淳一
函館市のど真ん中、といっても市街の真中ではなくて市域の真中、松倉川の中流部右岸の蓬揃山(よもぎぞろやま)の東側山腹に、大小二つの沼がある。
二万五千分一地形図の「赤川」では、大きいほうの沼の中に、あたかもそれが沼の名であるがごとく、「沼ノ岱」と斜体で注記されているが、これはおかしい。「岱」というのは「平らなところ」という意味、したがって「沼ノ岱」は「沼のある平らなところ」であって、沼の名ではあり得ないのだ。対して小さな沼には名前がつけられていないが、これも少々おかしい。
こちらも同じ平坦地の中にあるのだから、「沼ノ岱」の「沼」は複数であって、二つの沼をひっくるめて指している、と考えなくてはならない。すなわち「沼ノ岱」とは、「二つの沼のある平坦地」を意味するのだ(古い五万分一地形図ではこれが正しく解釈されていて、二つの沼の間に「沼ノ岱」の注記が書かれている。昔の人はエラかった!)。 というわけで、ここでは大きい沼を「大沼」、小さい沼を「小沼」と呼ぶことにしたい。
ややこしい話はここまで。
沼ノ岱の西の蓬揃山山腹には、人家が一軒もない異様な、放置された魚網を想わせる道路網がある。別荘地か住宅団地が建設されかけてポシャってしまった跡らしい。そして今また、某サルベージ会社が、そこでまた何かを始めている(なんで山の中にサルベージ会社なのだ?)。だから二つの沼も、ひょっとしたらゴミだらけになっているのじゃないか、と危惧されたのだが、しかしそれでビビっていてははじまらない。行ってみな分かれへんやんか、と、五月の半ば、湯の川からタクシーを飛ばした。
「沼ノ岱」の大沼、小沼
堀 淳一
はじめ、沼までタクシーで乗りつけようと考えたのだが、松倉川を渡る橋の東たもとでゲートにはばまれてしまい、止むなくそこから歩いて沼へ向かった。
沼へ登る道は、めくるめいて明るい新緑にすっぽりと包まれた、静かな道だった。私が入る前にサルベージ会社のトラックが一台登っていった(ゲートを仕掛けたのはこの某会社だ)きり、車はまったく来ない。人も来ない。キツネもシカも来ない。クマも来ない──
国土地理院発行 二万五千分一地形図『赤川』『五稜郭』 を縮小合成。
風はないけれども、五月の空気はひやひやとさわやか。淡い雲が薄絹のように覆っている空から降り注ぐ日ざしは優しくやわらかい。勾配はゆるやかで、息が弾むこともない。うーん、これなら、ゲートがあってかえってよかったな──そうだ、元来、目的地までのアプローチ(プロセス)をたっぷりたのしむのがオレの主義だったんだ、と思いながら、ゆっくり登ってゆく。
砂利道だが、トラックが通るのだからヤブもなく、一時間もかからずに「沼ノ岱」についてしまった。
大沼の真東あたりから地図にない道が右へ(西へ)分かれていたのでそれを行ったら、ひろやかな草っ原に出た。にわかに日ざしが強くなって、やや暑い。まさに「岱」だ。そしてもう、沼が野の果てに見えていた。そして沼がポックリとはまっている窪地のきわに出ると、沼の全景が眼の前にあった。
向こう岸には豊かな森を載せたちょっと急な斜面が迫っていて、コバルトグリーン、シャルトルーズグリーン、アップルグリーンのひろがりがめざましい。ほんのかすかにさざなみ立っているだけの穏やかな湖面は、その彩りを納戸鼠、鸚緑やアップルグリーン、抹茶色、オリーブグリーン、老緑(おいみどり)にとろとろとぼかし映している。手前の水面は空を映す藍白。時折風がやや強まるたびに、森の倒影の中を、キラキラときらめく光の点の大集団が、さぁーっと流れてゆく。そして、スイスイと立つ手前の岸のアシの明るい藁色の繊細な線の群れと、ヤナギの葉のまぶしいシャルトルーズグリーンの輝きとが、それらに絶妙な前景を添えている。
うーん、ひょっとしたらゴミの沼か、と想像していたのは、まったくの杞憂だった。うん、いい沼だ! 来てみてよかったなあ──
対岸の森の奥から聞こえてくるグヮーン、グォーンという音(サルベージ会社が何かやっているらしい。木の伐採か?)がはじめ耳ざわりだったが、沼に見と
小沼は大沼の約一〇〇m北東に孤立していて、道も行っていないので、ヤブこぎを覚悟していたが、何のことはない、草原が2つの沼をひっくるめて抱きかかえており、あっけなく岸近くまで行けた。
小沼はぐるり全部を平坦地で囲まれている。南岸側は新緑みずみずしいシラカバとヤナギがまばらに立つ、藁色とメドウグリーンの草地。北岸側はいちめん日を受けて輝くアシ原。そのため大沼よりもぐんと風景が明るく、また沼が可愛らしく小さいので軽やかな感じだった。向こう岸近くの水面には、アシ原とのそのかなたの森が、翳りを帯びた藁色とオリーブ色とを上下に重ねた倒影を落としている。手前の水面は空を映す藍白。そして前景のヤナギのめざましい鸚緑とシラカバの幹のアイボリーホワイトが、沼の眺めをキリリと引き締めていた。
れているうちに気にならなくなってしまった(これ、よろしくないことかも。だが、沼がそれほどよかったんだ、ということにしておこう)。
ふと我に返って、改めて「岱」をみわたすと、それは藁色とメドウグリーンをない混ぜた草原だった。かつて放牧地として使われていたことがあるらしく、よく見ると、あちこちに馬の糞がちらばっていた。だがすっかり乾き切っていて臭いもなく、のどけさと日ざしがひたすら身を包む。
包まれながらふらふらと歩き回って、大沼の遠景、近景のおもむきを味わったのち、小沼の方へ歩いてゆく。
大沼と小沼の間は、つややかなタンポポの黄をちりばめるアップルグリーンのまぶしい草地の中にヤナギがポッポッと立ち、オリーブイエローの水たまりの点在する湿原だった(小沼のすぐまわりも湿原なので、岸まで行けなかったのだ)。豪雨の後はおそらく、この湿原も沼と化し、大沼と小沼はつながってしまうのだろうが、この日はただただのどかな、日だまりの湿原だった。
よかったよかった、やっぱり行ってみるもんだ──
文・カット 堀 淳一
〈コンターサークルs主宰〉
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