【旧道エッセイ】・北海道旧道保存会メンバーによるリレーエッセイです。

Vol、9  道東旧道巡り 短編集 ―野上峠 釧北峠 浮島峠    久保 ヒデキ

この「道東旧道巡り 短編集」は、コンターサークルs会報二〇〇三年版に掲載された「出張ついでの旧道巡り 短編集」から、一部を抜粋して紹介したものです。

 

 

 別にコンターの遠足に参加できない言い訳ではないのですが、ここ一、二年は土、日を絡めた地方出張が多く、B級湖沼や大平の旧道などの遠足も魅力的ながらなかなか行きたくても行けない状況にありました。そこで、代わりと言っては何ですが移動の合間などにちょこっとだけ覗いてみた旧道を紹介します。

 まず、旧野上峠。ここには野川駅逓所跡地があるところ。駅逓所が置かれたぐらいなので要衝だったのでしょうけど、実は、「たいしたことないなぁ」と地図を眺めながら思っておりました。区間も短く標高的には三五〇mそこそこ。現在の国道を通る限り決して”険しい”峠ではなく、札幌近辺で例を挙げるなら”こばやし峠”並みのもの(笑)とも思えたりします。ところが、“険しい”部分はもっと別なところにあったんですね。つまり、その歴史的背景。この道は網走と硫黄山とを結び、すでにできていた硫黄山から釧路までの道へ接続する幹線道路で、明治二三年に、たったの一年たらずで完成しました。

道東旧道巡り 短編集 ―野上峠 釧北峠 浮島峠

       久保 ヒデキ

点線が野上峠。現在は「野上峠林道」として現存している。

 ご存知のとおりここで使役にあたったのは釧路集治監の囚人たち。酷使に次ぐ酷使で倒れていったものも数多く「死体は山野に投げ捨てられ、風雨にさらされた」そうです。今でも見つからない“墓地”が、この旧道沿いに点々としているとのこと。どうりで、この日も七月半ばだというのに妙に冷え冷えと重苦しかったわけですね(寒・・・)。

 現在の旧道は『野上峠林道』という名のついた林道となっていますが、ゲートはありません。“除草作業中”の看板があったため一瞬ためらいもあったのですが(笑)興味を優先してクルマで進入。しばらく直線的だった道もすぐにうねうねと曲がりだして次第に勾配も増していきます。いくつか出現するカーブミラーなどは意外に真新しくあまり年月を感じさせないので、もしかすると最近付け替えられたものかもしれません。ただ、水準点標識があったことを除けばそれ以外の、たとえば“屈曲あり”といった道路標識などは見つからず、また国道三九一号となったのは新道に切り替わった後のことであり、もちろん国道標識も見つかるわけもなく・・・、発見という部分では少々面白みには欠けるかもしれません。

 この時も両脇の雑草伐採のおかげでご覧のとおり道幅も思いのほか広く、現役当時を保っているようでした。もしかしたら全線を通して進むことができるかも・・・、と期待が膨らんだのもつかの間、現在の国道路肩部を見上げるヘアピンカーブを抜けた直後、左写真のとおりヤブとなってしまいました。と言ってもクルマでは無理、ということであって、徒歩であれば十分進める感じではありましたが。地図から判断する限り頂上まではまだ距離があり、雨も強くなってきたのでこの日はここで引き返すこととしました。

 後日調べてみた結果、旧道の網走側も林道となっており、ゲートもなく峠までは車でも進入できるとのこと。歩く分にはまったく障害はなさそうですね。機会があればぜひ通して歩いてみたいところです。

 次は釧北峠。

 三浦宏さん著の『峠物語』によれば、こちらは前述の野上峠と一転してその開通が文化年間までさかのぼるという歴史の深い峠だそうです。東蝦夷の北辺警備で緊急を要し、幕府の命によって土地のアイヌを使役して造られたのだそうですが、半世紀後の安政五年、松浦武四郎が歩い

た際にはすでに荒廃していたとのこと。松前藩復領ののち政策上の理由で通行止め(?)となり、その後誰も管理しなくなってしまった、ということのようです。時代に翻弄されていた峠道なんですね。「ひらきおく道をさえぎる人はみな道なき国の人にや有らむ」(松浦武四郎)

 さてその釧北峠、大正時代に拡幅改良されて“道路”としての体裁が整い、その後は木材輸送などでクルマの往来も増えていったようです。昭和二八年に国道二四一号に昇格すると観光道路としても重要となって、他の峠同様昭和四六年に新ルートによる切り替えが行われ、この道は“旧道“となりました。ただし現在は阿寒側の一部を除いてほとんどの部分で立派な林道として残されていて、通して歩くことができるようです。一年前に来た際には津別側を峠まで進んだので、この日は阿寒側から攻めることに。

阿寒湖畔の旧国道三叉路。右は阿寒湖畔へ。左へ進むと旧釧北峠。

 現在の国道二四〇号と二四一号との三叉路の隅に、“林道入り口“のような旧道への分岐があります。うっかりすると見過ごしてしまうような細いものです。やや広めのダートをしばらく進むと、赤茶けた古い標識の柱が現れます。そこも三叉路で、旧釧北峠の入り口。蛇足ですが、このあたりは鹿をよく目撃します。前回、津別側を歩いていた際にすぐ近くで草木を大きく揺らす音がして肝を冷や

しましたが、よく見ると数頭の鹿の群れだった、ということがありました(後日、「クマが居たので鹿も逃げたのでは?」と知り合いから言われ、またまた背筋が寒くなりましたが)。天気はあまりよくなかったのですが、ご覧のとおり、眼下に広がる阿寒湖は格別なものがあります。ちなみにこの場所はまだ峠までの途中で、実際には送電線が旧道を横切っている関係で広範に伐採されているために見える景色。当時の湖は林の向こうに見え隠れしていただけかもしれません。昭和三〇年代の写真を見たことがある

のですが、峠直下の道路際には“釧北峠”と書かれた立派な木製の看板が設置されていたようです。その場所まで行って確かめたかったのですが、残念ながらクルマで進めるのはここまで。道路がすでに積年の雪融け水によって洗われ、徒歩でなければ進めない状態であり、しかも津別の仕事先への集合時間が迫っていたこともあってこの日は断念したのでした。というわけで、野上峠同様、またまた宿題となってしまいました。件の看板が今でも残っているとは思いませんが、ぜひ、同じアングルで写真を撮ってみたいと思っております。

 この項の最後は、浮島峠。

 浮島峠の旧道は昨年(二〇〇二年)の秋に初めて足を踏み入れました。滝上町での“七面鳥”の取材の折に、文字通り“駆け足で”通っただけでしたが、まったく障害もなく何もかもが当時のままで生き残っている、そんな感じでした。 頂上付近には『浮島峠』の看板もそのまま。三〇年前の現役時代を保っているのは、やはり観光地『浮島湿原』へのエントランスだからなのでしょう。とても恵まれた旧道ですね。国道二七三号の上川町と滝上町との境界が浮島峠ですが、地形図をしみじみ眺めると“昔の道は地形に対して非常に正直だった”、ということが非常に良くわかる良い例ではないかと思うのです。峠頂上付近上川側は広い台地となっていて、ピークは滝上町側に張り出すように伸びています。つまり、浮島湿原を大きく回りこむように進んできた道路は、滝上側の急峻な地形にぶつかり、いくつもの谷を回りこみながら下って行くのです。この日は滝上町側からアプローチしましたが、急勾配とヘアピンカ

下方、浮嶋トンネル滝上側から、細かい尾根を回り込みながら浮嶋台地へ駆け上る旧道。

ーブの続く中、一瞬、中山峠の旧道を思わせるような景色もあり楽しめました。ダートながらに道幅も広くよく整備されているので、途中クルマ同士のすれ違いがあっても驚くようなこともありません。

 が、この時に実は感動的な出会いがあり、それには驚かされました。それがこの写真。角のない雌鹿か、あるいは子鹿なら目撃するのにそれほど苦労はしないのですが、このように立派な角を持つ雄鹿に出会ったのは私自身この時が初めてのこと。発見した次の瞬間には夢中でシャッターを切っていましたが、ほんの数コマを撮ったところで崖の向こうへ消えてしまったのでした。

 

「道東旧道巡り 短編集」 終わり

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