【旧道エッセイ】・北海道旧道保存会メンバーによるリレーエッセイです。

Vol、4  幻の興浜線 『夢よもう一度 オホーツク本線今再び!     根布谷 禎一

はじめに

 ボクは決して熱狂的な「鉄道ファン」ではないが、今では幻の鉄道となってしまったオホーツク海に面した興部町と浜頓別町を結ぶ予定であった「興浜線」についてはちょっと特別な思い入れがある。

 

 実は、先日実家の納戸を整理していたら、雄武町の今から30年ほど前の町民カレンダーが出てきた。その中の1枚には雄武町市街地を南側上空から撮影したカットが掲載されていて、そのカットにはとうとう幻で終わってしまった国鉄雄武駅から北に向かう未成線の「興浜線」の築堤が見事に伸びているのである。当時は気にならなかったが、改めて見てみると、今にも列車が走り出しそうなそんなふうに思えてしまう。そんななつかしさから、昔を思い出しちょっと独り言を・・・・。

幻の興浜線

『夢よもう一度 オホーツク本線今再び!

   根布谷 禎一

 ちなみに札幌から雄武に向かう時はこの逆で、途中途中でまるで打ち上げロケットのように車両がどんどん切り離されていって、気が付けば最後に残っていたのは自分の乗っていた車両だけになっていたなんてことがあった。

 そんな雄武町に住んでみて、どうして雄武駅が終着駅で、そこから先に鉄道が敷かれていないのかが不思議でたまらなかった。それは雄武駅を北に向かう築堤はできているし、ちょっと高台になっている末広町を通過するトンネルも完成していたし、その先の豊丘、幌内へもきちんと築堤ができていたのを記憶していたからである。

 さらに、興浜南線・興浜北線というネーミングも将来を期待させるような妙に不思議な気分にさせ、ここま

昭和56年 札幌鉄道管理局発行 道内列車時刻表より

子供の目から見た興浜線

 今から30年程前、ボクは小学校から中学校にかけて、父の仕事の関係でオホーツク海に面した流氷の見える街雄武町で4年間を過ごした。当時、国鉄を使って雄武から札幌に出るのは無茶苦茶大変なコトであった。なんと言っても隣町の興部町から札幌行きの急行列車は1日1往復のみで、それも早朝、勿論特急などは旭川に出るまであるわけがない。このため雄武駅を朝6時頃発の1輌編成の汽車にゆられて30分かかって興部に着き、そこで7時ちょっと前に遠軽からやってきた急行「紋別」号に乗り換え、そこからは旭川、深川でそれぞれ網走・幌延からやってきた急行と合体して、お昼ちょっと過ぎに長大な急行になって札幌駅に到着していたのを記憶している。

興部発浜頓別行き普通列車

 ところで、もし興浜線が全線開通していたとすれば、どんな駅が開設されていたのであろうか?ある資料によると、雄武駅から先は、元稲府(魚田)、北見音稲府、北見幌内、枝枝幸、北見音標、風烈布、乙忠部、山臼、徳志別、岡島、南枝幸、という奇名・難読地名駅のオンパレードだったようである。そうなると雄武は終着駅ではなく、興部発浜頓別行き普通列車の一停車駅として機能していたことになる。

 もし、興浜線が開通していたと仮定しよう。興部発浜頓別行きの普通列車の旅はこんな感じではなかったろうか?・・・・・・

 

 国土地理院発行 二万五千分の一地形図『雄武』『北見幌内』 を縮小合成。ともに昭和47年発行

でお膳立てはできているんだから、いつかはきっと合体するんだろうなと子供の頃は思っていたものである。

 朝早い午前6時28分に興部駅から浜頓別行きの普通列車に乗り込んだA氏は、これから先の約2時間半の列車の旅にいささか興奮気味であった。興部駅を出て大きく北に迂回してしばらく進むと、進行方向右側にエメラルドグリーン色に輝くオホーツク海が目に飛び込んできた。その先に見える日の出岬とその付け根にある沢木の集落を寝ぼけ眼でぼんやりと眺めていた。

 

 沢木の集落を過ぎると日の出岬を迂回する急勾配となるがすぐに下りとなり元沢木、栄丘を過ぎ雄武に到着した。雄武では腹ごしらえに名物の「タラバガニ弁当」を買い、早速賞味してみた。まさに絶品である。そうしているうちに、末広町の隧道を潜り、元稲府、北見音稲府、北見幌内、枝枝幸の集落を過ぎると、雄武町の枝幸町との境界付近にやってきた。そこでオホーツク海に目をやると海岸から沖合い5百メートル程のところにカモメの糞で遠くからも白く見えるゴミ島(地元ではゴメ島と言っていた)がぽつんと海から顔を出していて、何にもない北のオホーツク海にささやかながらひとつのアクセントを与えてくれる。

 そこから5分ほどで子犬の尻尾のようにいささか遠慮がちにオホーツク海に突き出た音標岬に沿うように位置する音標の集落に到着した。音標では海岸線でまるでビー玉のようなきれいなメノウを拾う子供たちの姿が見える。

 

 列車は風烈布、乙忠部、山臼、徳志別、岡島を過ぎ、南枝幸で美幸線と合流して枝幸の町に到着した。ここまで興部から約2時間。枝幸の町を後にしてウスタイベの千畳岩等の名勝を見ながら、終点の浜頓別まであとわずかというところで目に入ったのは興浜線最大の難所である斜内山道である。ここは、斜内山の山腹が山頂から一気にオホーツク海になだれ込んでいて、その先端の神威岬を通る時には、恐怖すら感じさせるところである。また、普通山道というと山奥を想像させるが、斜内山道のように海岸線で山道というのは非常に珍しいであろう。よくトンネルを作らなかったものである。

 そうして、ようやく終点の浜頓別駅に到着したのは、9時丁度であった・・・・・・。

興浜線開通の見通しはあったのか?

 しかしながら、実際にボクの見た興浜南線は、冬の大雪の時には、国道が優先的に除雪され、線路の除雪は二の次というような粗末な扱いをされていた。その例が、国道238号線と興浜南線が交差する栄丘付近では、大雪による国道の通行止めが解除されても踏切の両脇、つまり線路側には国道からの排雪が山のように積まれていて、それがいつまでたっても排雪されないでいたのを記憶している。

 では、興浜線は実際には全線開通することは見通しはあったのであろうか?

 

 角川地名大辞典によると、「大正11年に改正された「鉄道敷設法」の付則には「北見国興部より幌別・枝幸を経て浜頓別に至る鉄道」とされており、この予定線の具体化はかなり遅れたようで、昭和10年の興部~雄武間、昭和11年の浜頓別~北見枝幸間が開通してまもなく戦時体制に入り、南北両線の延長工事は中止され、両線とも昭和19年に営業も中止されてしまい、レールも撤去されてしまった。しかしまもなく終戦を迎え、昭和20年路線復旧の上営業を再開し、地域住民には南北結合の大きな期待を抱かせたのであるが、その後昭和56年廃止路線に指定され、昭和60年についに両線は廃止されてしまい、興浜線はとうとう実現しなかった。(一部略)」と書かれている。

 この興浜線は、まさに廃止となった年の昭和60年発行の小学校地図(カット左)に、美幸線と一緒に建設中の鉄道として紹介されているのが、妙にもの悲しく感じさせる。

 そこで今度は昭和45年編集の地形図を眺めると、興浜北線の終着駅である北見枝幸駅以南は歌登町に向かう美幸線の未成線は見事に記載されているが、雄武駅に向かう興浜線は枝幸駅から先は全く記載されていないのである。では雄武駅から北はと言うと、昭和47年修測の地形図では未成線はなぜか音標のわずか西地点まででストップしているのである。築堤建設工事が雄武から音標までしか実施されなかったどうかは手持ちの資料では確認できないが、ひょっとすると築堤建設工事は興浜線の全線は行われなかったのかもしれない、また完成していたとしても、その後改変されてしまったということもありうる。

 つまり、地形図上からのみ判断すると美幸線よりも完成の可能性は低かったのかもしれないと考えられる。

 次に開通していた場合の現状を考えるとと、昭和50年の国勢調査によると当時の雄武町の人口は7407人、枝幸町の10172人を合わせると沿線人口は17579人であった。では平成12年の国勢調査ではというと 雄武町5778人、枝幸町7973人の合計13751人と22%も減少しており、当然利用者の減少に繋がることになる。

左 国土地理院発行 二万五千分の一地形図『音標』昭和45年発行。

 

右 国土地理院発行 五万分の一地形図『枝幸』昭和47年発行。ともに縮小。

 また、雄武から枝幸間の所要時間を見ると、昭和47年度当時の宗谷バス時刻表によるとバスで1時間25分を要しているが、最近のバス時刻表によると1時間14分と約11分短縮されている。これは、国道の完全舗装や線形の改良等による短縮と考えられるが、興浜線が開通していたとしたら、55キロメートルの距離をやはり同じ時間程度を要していたものと予想され、所要時間的にはバスは十分列車に対抗できることになる。ちなみに現在の雄武~枝幸間のバス料金は2,140円であり、通常JRの地方交通線の料金1,040円の2倍以上となっている。このことは、JRの料金では全くペイできないことを意味している。これでは、とても列車では太刀打ちできないことになる。

 当然のことながら全線開通していれば、当時の赤字ローカル線の代名詞でもあった美幸線にも匹敵するような大赤字路線だったものと予想される。また位置付け的には、宗谷本線から分岐し日本海の海岸線の市町村を結んで走る羽幌線と似たような路線であったかもしれない。その羽幌線も昭和62年に早々に廃止されてしまったことは皆さんご承知のことである。

 つまり、結果論からいうと全線開通の可能性は極めて低かったと言えるだろう。

 いかにも北海道らしい「オホーツク本線」誕生

 しかし、ここでもっとスケールを大きく、興浜線が稚内から網走を結ぶ長大な「オホーツク本線」の一部として位置付けされていたとしたらどうだったであろうか?この「オホーツク本線」の話は、稚内から網走までではなく、稚内から釧路までの延々500キロメートルもの壮大なスケールの本線としての構想が過去にあったということを記憶している。さらに、道内の一連の国鉄廃線の流れの中で、ローカル線のひとつの生き残り策とし真剣に検討されたことがあるとも聞いている。

 そこで、まあ釧路までというとちょっと長すぎる感もあるので、もし稚内から網走までの「オホーツク本線」が現存していたとしたらと考えてみたら、きっとオホーツクの旅は変わっていたのではないかとボクは考える。

 雄武から枝幸間は現在の国道の距離を採用したとして、稚内から網走までの総延長は335.6キロメートル、宗谷本線や石北本線を遙かにしのぐ一級品の長大本線である。この間を普通列車が沿線の11市町村をオホーツクの海岸線に沿ってのんびりと走るとしよう。当時の時刻表を基に、雄武から枝幸間の所要時間も推定してみると、なんと8時間38分の長旅となる。

 

 日本の最北端でサハリンへの海の玄関口である稚内を発車してオホーツク観光の拠点である網走まで、クッチャロ湖やオムシャリ沼、コムケ湖、シブノツナイ湖、さらにはサロマ湖、能取湖、網走湖等豊富な湖沼群、斜内山道や日の出岬、ウスタイベの千畳岩など景勝地、そして紋別の流氷科学センターなどの観光ポイント、興部と中湧別の2箇所でののスイッチバック、さらにはホタテ、牡蠣、カニ、アキアジ等の北海道を代表する海の幸等々、豊富な役者ぞろいでその興味はつきない。なおかつ、国民の憧れにも近いひとつのブランドである「オホーツク海」を延々と眺めながら旅行ができるという、まさに最高の贅沢を味わえる

のである。

 

 しかし、札幌一極集中となってしまった北海道の現在の交通体系を考えると、「オホーツク本線」の発想はやはりほとんど不可能非現実的な話である。

 

 

 

 

 でも夢があってもいいじゃないか。いかにも北海道らしい、というよりも北海道にしか実現できないスケールの大きい「オホーツク本線」建設の鍵を握っていたのはまさに「興浜線」ではなかったか、もし「興浜線」が開通していれば・・・、とボクは今でも信じてやまない。

 

「網走発稚内行き長距離普通列車流氷3号只今発車いたしまーす」

 

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