【旧道エッセイ】・北海道旧道保存会メンバーによるリレーエッセイです。

Vol、1 裏サンドウぶらぶらひとり旅   根布谷 禎一

「裏参道、ああ知ってるよ。あの札幌の原宿だろう。俺はよく彼女と行くんだぜ」なんて言っているヤツは、布団でぐるぐる巻にして、外へポイしてやろう。僕の言っているのは「裏山道」なのだ。「じゃあ表山道っていうのはあるのか?」「え~い、どうでもいいからこの際何が何でも裏山道なのだ」と頑張っておりますが、ただ単に昔むかし峠越えに利用されていた道のことを言っているのです。

 ちなみに広辞苑によると「山道」(山中に通ずる道。やまみち。山路。)とフムフムもっともなことを書いてあったのでした。そもそも歴史をひもとくと、アイヌ語で越路を「ルペシュペ」と言っていたそうで、特にアイヌは、山嶺、縣崖を神霊の地として、柳の木を削って「イナホ」即ち木幣を造ってこれを建て、神を祭って往来の安全を祈ったとのこと(現在の稲穂峠、稲穂崎等の地名は全てこれに起因するのです)。僕はこれを知った時、思わず立ち上がり「サン

裏サンドウぶらぶらひとり旅

           根布谷 禎一

上2点とも初冬の濃昼山道にて

 ところで、開拓の時代に遡ってみると、あるある北海道には本当にたくさんの山道があったのですなあ。河野常吉先生の著書「河野常吉著作集 北海道史編(二)」によると、ピタタヌンケ~ルベシベツ間山道、様似山道、猿留山道、木古内山道、余市山道、阿冬(雄冬)山道、濃昼山道、オクリキ(送毛)山道、太田山道などなど数え上げたらきりがありませぬ。これらの山道の中には、現在でも立派?に表山道として生き残っているものもありますが、裏山道としてもうこれまた立派に綺麗さっぱりと忘れ去られたものが大半です。それではここで濃昼山道にでも行ってみましょうか。

 濃昼山道(ちょうど札幌から石狩・厚田を過ぎたあたりから濃昼にかけての間の山道です)は、ずうーっと昔の安政四年厚田請負い人浜屋与三右衛門が自費でもって開墾したという頭が下がりっぱなしの山道なのです。ここで旧図(大正八年測図)を見ると、あるある確かにこれまた立派に「濃昼山道」と載っているじゃありませんか。僕はその二〇ンーッ年間の人生の中でそこに思わず最高点をつけて感動してしまうのでした。(ちなみに現在発行されているのには残念ながらもうすっかりと消えてなくなっているじゃありませんか。)

ドーッ」と感動的に叫んでしまうのでした。そんなことから、そのとっても神秘的なイメージに魅了されてしまった僕は表山道ではなくて裏山道を追い求めて、てくてくと歩き出したのでした。

濃昼峠への九十九折。春先にだけ姿を現す。

 ある筋によるとここだけの内緒の話ですがこの山道には数々のエピソードがあるんですよ。終戦後の話ですが、濃昼へ行く花嫁さんが厚田で髪を結って晴れ着姿のまま同行の人達とともに、山道を歩いて行った時、濃昼の村が見えるところまで来てあとは下る一方になったので、もう一度裾をはしょり直して木から木へ斜めにつかまりながら降りて行ったら、途中でカツラがぬげてころころころがってお嫁さんより先にそのカツラが濃昼の村に着いたという笑えそうで笑えない話があるんです。

 また、途中にいくつもの深い沢があって通称バカクサイ沢と異名を持つ沢があるんです。これは対岸が手の届くように近くて、オリンピックの選手なら簡単にジャンプできそうなのに(このたとえがまたシャレているじゃありませんか)、沢が深くて恐ろしく、飛び越えることもできず対岸をうらめしそうにし眺めながら疲れた足でその沢の上を約一キロも遠回りしなければならないので、ここを通る人は誰でも馬鹿臭いと思うからそうなったとのこと(厚田村史より)。ここに挙げたのは、たまたま愉快なエピソードであって、大半のところは悲話がほとんどなのです。「本当に濃昼山道ってひどいところだ」って言うのが、実感のこもった言葉として僕の脳裏に焼きついてしまいました。

通称、「バカクサイ沢」。飛び越えられそうな沢を挟んですぐ対岸に道がある。上流の橋まで延々と続く。

 次に挙げるのは古平山道(正式名称は不明なので僕が勝手に命名)です。余市市街地を過ぎ、古平方向に向ってぐんぐん進んでいくと出足平峠(ああ好きだなあ僕は、この「でたりびら」っていう響きが)があるのですが、ここも通り越して海に出て、海岸線沿い、いくつものトンネルを通って古平に辿り着くまでの間は旧図(大正六年測図))によると、山の中をぐるぐると抜けて行っていたのです。最近の地図(昭和四十九年修正)と比べると確かに当時の山道が明確に残っているではありませんか。

  ただ残念なことに当時の出足平、島泊、湯内(ゆうない)といった北海道独特の地名がそれぞれ、白岩町、潮見町、豊浜町と北海道の漁村あたりではどこにでもありそうな町名(失礼)に変わっているんですね。湯内なんてとっても美しい響きで、僕は残しておいてほしかったなあと思っておるのです。

 最後は送毛山道です。この山道は先述の濃昼山道を過ぎて、送毛から毘砂別に至るまでの山道でつい最近まで一般国道として立派に利用されていた山道なのです。という理由で今でも時間に余裕のあるドライバー(悪く言えば砂利道をほこりをたてながら走りたがる迷惑なドライバー)がたまに利用しているのです。最近の地図にも立派に「送毛山道」と記されているではないですか。ただこの山道、地図からもムムムッと読み取れるように、最高点が四〇〇.七メートルとハンパな高さではなく、なおかつ送毛側からだと極めて急な登りといろは坂もどきのようなカーブの連続のため敬遠されがちで、当然のことながら一般のドライバーは長い長い送毛トンネルを通っているようです。

 毘砂別側からの登りはだらだら坂で、ふと後ろを振り返ると「ウオーッ」と思わず叫んでしまいたくなるような絶景が目前に広がっているのです。プルシアンブルーの日本海、残雪が目にまぶしい雄冬連山、なぜなぜこんな姿になってしまったの教えてといった感じの黄金山、もう全てが感動的なのです。「こんな絶景は俺だけのものだ。誰にも渡すもんか」と一人で興奮していると、目の前に「雄冬道立自然公園展望台」と書いてある看板がでーんと立っていて、僕の興奮は見事に覚めてしまったのでした。

 また、だらだら坂を登り詰めると、もうあなたはコーフンの局地に達するでしょう。もうあとは手が震えて書けません。といった具合で軽い登山気分で一汗かいて、なぜか心落ち着く送毛の部落が優しく迎えてくれるのでした。

 

 といった感じで、僕の裏サンドウめぐりはようやく始まったばかりであります。ところで、ここにあげた三つの山道、(一)地図からもすっかりと消えてしまった山道、(二)地図には残っているけれども、ほとんど利用されていない山道、(三)つい最近まで国道であった山道は、どれもかつては、先人達や囚人達が、風雪に耐えながら、数々の犠牲をもって開設したものです。しかしながら時代の波にはやはり勝てず、このまま忘れ去られてしまうのでしょうか。

 僕は、これらの山道に一歩足を踏み入れただけで、一体どんな人々が、どんなことを考えながらここを歩いていったのだろう?、ここから見える風景を一体どう感じ取ったのだろうか?、などとついつい考えてしまうのでした。今日も積丹のとある山道を歩きながら、ふとそんなことをまた考えてしまったのでした。

(みなさん、今度熊の出没しない季節にでも、この裏サンドウめぐり御一緒しませんか?)

 

 

文   根布谷 禎一

カット  久保 ヒデキ 〈ともに北海道旧道保存会〉

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