【旧道エッセイ2nd】・北海道旧道保存会メンバーによるリレーエッセイ 道外版です。

Vol、8 千葉県の最西端を眺める  根布谷 禎一

はじめに

 千葉に住み始めて、早いものでもう1年と9ヶ月が過ぎていた(2005年当時)。職場には、私の住んでいる稲毛海岸周辺に住んでいる仲間もいることから、ある日車に便乗させてもらい、房総半島一周のドライブに出掛けた時に、こんな会話になった。

 「千葉県の最北端、最東端、最南端、最西端ってどこだろうね?」ボクが「北は野田市の関宿かな、東は犬吠崎で、南は野島崎だろうね。で、西は、富津岬かな。」するとZ氏は「いや、きっと洲崎だよ。」するとU氏が「でも、道路地図で比べると、どうも関宿が最西のような気がするな。」と、3人とも頑固に誰も譲ろうとしないのである。最西端の3つのポイントは、確かに道路地図レベルで比べると、どれもどっこいどっこいのようである。

 そこで、自宅に戻り早速3つのポイントについての経度を調べて見ると、正確ではないが、おおよそ次のとおりだった。

富津岬 東経139度47分2秒

洲崎  東経139度45分8秒

関宿  東経139度46分35秒

 と言うことで、目出度く?洲崎が千葉県最西端に決定したわけであるが、富津岬を確信していたボクとしては、どうしてもその結果に納得できないのである。そこで、もう一度地形図をよーく眺めて見ると、ご存知のとおり富津岬の西の先には、第一海堡、第二海堡がある。しかも、それらはもちろん千葉県富津市に属しているわけである。そこで、秘かにニヤリとしたボクは、早速、経度を調べて見ると、第二海堡の西端は、東経139度44分21秒。ということで、めでたくボクが正解、見事に富津岬が栄冠を勝ち取ることができたのであった。(というか、正確には富津岬と

千葉県の最西端を眺める

                根布谷 禎一

この図面はカシミール3D上の”山旅地図2万5千分1”プラグインにて表示した富津岬周辺を縮小編集したものです。

いうよりも富津岬沖の第二海堡と言うべきでしょうが)

 そこで今回は、その富津岬をのんびりと歩いて、千葉県の西端である第一海堡と第二海堡を岬の突端から眺めて見ることにした。

 

歩け歩け

 空がとても高く感じられる、ある秋の晴天の日、ボクは、京葉線稲毛海岸駅から電車で蘇我駅へ、そこで内房線に乗り換えて君津駅まで行き、そこからまたまた乗り換えて一駅、富津岬の玄関口である青堀駅に着いたのは、もう11時半を少し回っていた(写真1:青堀駅)。ここから岬までは約8キロメートル程度と、サークルの会員であれば当然余裕で行ける距離ではあったが、時間があまりないことから、まずはバスに乗って、「富津岬公園」まで行くことにした(写真2:バス)。

 富津岬公園に着いたのはもう昼を回っていた。朝飯を食べていなかったこともあり、まずは腹ごしらえということで、辺りを見回すと、ちょうど目に入ったのが「磯料理 みさき食堂」の看板であった。「磯料理」というヒジョーに魅力的な文字に誘われ、まるで

写真1:青堀駅

写真2:バス

吸い込まれるように店に入った(写真3:食堂)。中はツーリングの中年おじさん達で一杯である。こうした連中が集まる店はきっとうまいに違いないと思っていると、予想は的中、「あなご定食」はまさに絶品で、もうこれで十分富津岬に来た甲斐があったという感じである。

 これでお腹も心も大満足の状態で店を出て、再び、岬までの道のりを歩くことにした。岬までは、途中の展望台やプールなどの公園施設を過ぎると、保安林になっている松林が道の両側に広がり、誰が名づけたか、まさに海に突き出た「関東の天橋立」である。空は透き通るような青色、心地よい海風を浴びてもう最高の気分である(写真4:松林)。

 そうして歩くこと20分、ようやく岬の突端に到着した。岬では、駐車場には観光バス、イベントがあるのか、若者達が音楽を鳴らしながら、バーベキューの準備をし、浜辺では、パラグライダーをやっている人たちもいて、結構な賑わいである。また、上り口がいくつもある、まるで阿弥陀くじのような展望台があって、どこから上ろうか迷ってしまったりもした。ついに待望の富津岬に到着である(写真5:展望台)。

写真3:食堂

写真4:松林

展望台からの眺めはサイコー

 展望台からの360度の眺めは、三浦半島の横須賀、横浜から、市原、君津の工場群、そうして富津岬の南側には房総半島の、まさに大パノラマ。しかもどこも、本当に手にとるように随分と近く感じられるのである。こんなに近いものなのか・・・・・(写真6・7・8:岬からの眺め)。

 東京湾は、本当によくできた天然の入り江である。浦賀水道を入り口として、途中、洲崎、三浦半島といった関門を越えて入り組んでおり、敵が海から江戸の都を攻めようとしても、何度も何度も航路を変えなければならず、真っ直ぐには入ってくることはできない。こうした東京湾の一番奥に都が置かれたのも十分理解できるものである。つくづく感心させられてしまった。

 そんな中で、浦賀水道から進入してきた船舶のまるで障害物のように第一海保と第二海保が存在しているのである。実は、その先に第三海保があったのだが、関東大震災後半ば暗礁化してしまい、2000年から撤去工事が始まっている。また、現存する2つの海保には、地形図上では合わせて3つの水準点が存在することになっていて、第一海保には、2.6mと12.7mの2つ、第二海保には、13.1mの1つの計3

つの水準点である。残念ながら、これらは、国土地理院の報告では、全て「現況報告なし」と記されているが、もし現存するとしても、ボクたちが見ることができない、いわゆる幻の水準点となっているわけである。

 後で調べて見ると、かつて第一海堡は富津岬とつながっていたということである。確かに地形図でもその片鱗を読み取ることができる。残念ながら、今はどうやら岬の付け根辺りに河口がある小糸川上流の山の切り崩しなどが原因により、土砂が供給されなくなったため、海流の影響により消失してしまったらしい(写真9:海保)。

 うーん、本当の「関東の天橋立」をこの目で見たかった。でも、これで十分満足と悦に入っていると、突然携帯電話に娘から「50m背泳ぎで7位入賞したよ!」のメールが入った。「やったね。入賞おめでとう。」の返信メール送り、この上ない最高の気分で展望台をあとにした。

 

 

 

 

写真5:展望台

写真6:岬からの眺め

写真7:岬からの眺め

写真8:岬からの眺め

写真9:海保

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