【旧道エッセイ2nd】・北海道旧道保存会メンバーによるリレーエッセイ 道外版です。

Vol、5 H16年7月 七面山山行  相澤 均

 夏の大台ケ原登山の足慣らしに、連休で七面山という身延山系の山に登った。七面山には七面山教会もあり、日蓮宗の聖地なので、登山道がそのまま修行道になっている。

夏休み最初の連休とあって、400名を超える霊友会の大団体と一緒になり、「南無妙法蓮華経」の妙号を唱えながらの大合唱と共に七面山教会まで登った次第。

標高490mの山門から1982mの山頂までの標高差1500mの2日の登山で、翌日から2、3日は足腰のあちらこちらが痛くて、膏薬だらけになった、そんな山行記録です。

H16年7月 七面山山行

      相澤 均

 7/18(日)

 千葉を5時に出発し、順調に首都高速を抜け、中央高速へ入る。談合坂SAで朝食を摂るが、ひどい混雑に蕎麦と飯を駆けこんで、逃げるようにSAを出た。

 9時にJR身延駅着。駅前の観光地図で行き過ぎたのが判り、一旦早川まで戻って、早川沿いに七面山登山口の角瀬バス停まで行った。

 タクシー乗り場で案内を請うと、車は道の反対の駐車場に置いておけばいいと言ってくれた。また、タクシー乗り場に備え付けてあった杖を2本借りて、タクシーに乗り込んだ。

 羽衣迄タクシーで行く途中、60過ぎのタクシーの運転手から登山口から、七面山の敬慎院迄は、50丁あり、2丁、13丁、23丁、36丁に宿坊兼休憩所があると教えて貰った。小さい頃から七面山に登っていると云うその運転手さんは、今でも2時間半位で登り、日帰りすると聞かされ、吃驚仰天。慣れと鍛えでそんなにも足腰は強くなるものかと感心した。

 先ずは、白糸の滝を見物。ここは、女人禁制の七面山の禁制を解いたことで知られる、徳川家康の側室「お萬の方」の銅像があった。滝では白装束の修行者が滝に打たれる景色も珍しくないと聞かされていたが、早朝に修行が終わったのか、近くの蛇口の下には、洗濯中なのか脱ぎ捨てられた白装束が一組置かれていた。

 

 

 白糸の滝から羽衣の山門に渡る橋からは、春木川上流の右岸に「雄瀧弁天堂」が見える。

 羽衣の冠木門形式の白木の山門を前に登山の心構えを整えようとしていると、白装束の人達が続々と集まってくる。背中や襟にはあの独特の筆致で、「南無妙法蓮華経」と書かれており、日蓮宗の宗徒であることが一目で判った。

 歩き始めて直ぐに神力坊(高度540m)がある。次いで、十一丁先の肝心坊(850m)に着くと、白装束

の集団が休憩を終えて、出発する所だった。各班の点呼を取り、マイクで出発の合図をする。先導が「なんみょーう、ほうれん、げきょーう」と唱えると、続いて一斉に「なんみょーう、ほうれん、げきょーう」の大合唱。これが歩いている間中続くのだから大変。

肝心坊でお茶の接待でも戴いて、早目の昼食をと思ったが、すっとこどっこい。白装束の集団が出て行った後には、お茶は無く、肝心坊の世話人も空の薬缶を引き上げには来たが、一般登山客にはおもてなしの労を取る気配すらない。自前の水筒の水でお握りを戴き昼食を済ませた。

 ここまでで穿いていたジーンズは汗でじっとり濡れており、時間が経つに連れて腰から下がじわーっと冷えてくる。

 先に出発した集団の中にいた乳飲み子を連れた家族が、火の点いたように泣く赤ん坊に手を焼いて、困り果てていた。背負子を直しては背負うのだが、背負う途端に赤ん坊がまた泣き始める。仕方なく、父親(だと思う!)が手で抱いて追いかけて出発し、先行集団を追いかけて行った。それも、「なんみょーう、ほうれん、げきょーう」を唱えつつ。

 後から来て我々の隣りで昼食をしていた70年配の女性が、「新生児は一年間は山に連れて上がるものではないのに!」と、若い夫婦の世間知らずを避難口調で話していた。どうやら、山に上がると気圧が変化するが、乳飲み子には気圧の急激な変化に対応する能力が充分に備わっていないのかも知れない。

 

 

 地形図では、490mの羽衣の登山口から、1790mの敬慎院まで1300mの高度さを一度も下ることなく、一方的に登るのだが、広い九十九折の歩き易い道であるため、暑さを除けば地形図で予想していたよりも楽珍な道であった。

 昼食を済ませ、水の補充をして、出発。途中一箇所、春木川と流域の部落が見下ろせる所があったが、それ以外は深い樹木に遮られ、殆ど景色を楽しむことは出来なかった。

 肝心坊を出発して、暫くすると、「南無妙法蓮華経」の大合唱が次第に近づき、遂には先の白装束の集団を追い越したが、今度はその大合唱に後ろから追われるような気ぜわしい登りとなった。

 3番目の中適坊(1072m)では、もう一つ前の白装束の集団が昼食を済ませた所で、今や出発と準備していたので、トイレ休憩だけにして、この集団よりも先に出発した。この集団で約70~80名がおり、点呼では、「No.10Gr,~」と報告していたので、前後と併せると300名を超す信者が登っていることになる。後で宿坊に着いてみると400名を超す団体だったようだ。

 36丁の4番目の晴雲坊(1410m)でも水を補給して先に進む。

45丁を過ぎた所で、道幅が広くなり、参道のようだと思っていると、七面山教会の入り口の和光門が見えてきた。白装束の集団は門を潜ると、更に左の坂を上り、山門から入って行ったが、疲れたこともあり、我々は坂道を敬遠して、脇の門から境内に入った。中には大きな宿坊が2棟もあり、ここだけでも1200名が宿泊できるそうだ。我々個人の宿泊客は本堂に続く脇の敬慎院であった。

 敬慎院と云う宿舎は、七面山教会の付属施設なのだ。

 敬慎院で宿泊の手続きを済ませ、部屋に案内して貰った。20畳程の大部屋で10人程が男女入り混じっての同室のようで、既に家族が一組休憩していた。その家族に簡単に挨拶をし、早速汗で濡れた衣服を替えたり、リュックの荷物を整理し始めた。すると、しばらくすると3時からは、風呂に入れるとの知らせが何処ともなく伝わってきた。此れだけの人数の宿坊であるから、混まない内にと、作業を中断して風呂場に行った。

 温泉ではなく、沸かし湯であり、山上での水、エネルギーの節約と環境への配慮から、石鹸は使用禁止となっていた。納得して、湯をかぶってから湯船に浸かった。暫くすると、続々と人が増え、洗い場で待つ人が多くなってきて、芋の子を洗うような状況になりそうだったので、適当に上がることにした。

 さっぱりした所で、散歩に出掛けた。散歩と云っても、寺内に入る時に通らなかった山門付近と、明日の七面山山頂への登山口を確認する程度だった。

 山門前の広場からは、正面に富士山がドデーンと座り、雲に隠れては、時々その雄大な姿を見せてくれた。山門手前から見える富士は山門の柱などが窓枠のようになり、まるで壁に架けた絵のように見え、思わずその構図の巧みさにシャッターを切った。

 丁度春秋の彼岸の頃に朝陽が富士山の山頂から登って来る、所謂「ダイヤモンド富士」となるのには驚いた、この七面山の聖地と云われる理由が真に納得できた。

 夏ともなると花は少なく、宿坊のまわりではホタルブクロ(蛍袋)、アカショウマなどが咲いているだけだった。唯、花こそ開いていなかったが、トリカブト(鳥兜)があちこちに自生しているのには驚いた。

 宿坊に戻ると、4時から本堂で祈願の人への七面菩薩のご開帳があると云う。宿泊料の中に祈願の費用も含まれていたようで、我々もご開帳の栄誉に預かれる

らしい。宿泊料5200円の内、2000円が「御開扉」と云う名の祈願費用として扱われているらしい。

 20台後半であろうかと思われるやや童顔の僧侶が、その若さに似合わない低いしかし良く響く濁声(だみごえ)で、読経に続いてご開帳の案内をする。本堂の内陣に案内され、七面菩薩を拝ませて戴いた。椅子に正面を向いて座った、吉祥天女のような優しい面持ちの女性形の菩薩像だった。ご開帳が終わると、全員本堂外陣に座り、祈祷が始まり、祈願者の名前が読み上げられていった。勿論我々二人の名前もあった。

 

 食事は本当に質素で、じゃが芋・人参など野菜の煮物、ヒジキの煮物、漬物、若芽の味噌汁と全くの精進料理であったが、吃驚したのはお神酒が付いていたことだ。10人程の同室者に2合徳利2本が付いているのだ。女性と子どもが半数であるから、一人一号当てになる上、隣り部屋が男性一人なので、持て余した徳利を一本こちらに回してきたので、結構酔いが廻ってくる。

 食事の用意は宿坊の世話人がしてくれたが、片付けは自分達で行うようで、食器を重ね、お膳を纏めて配膳室に持って行った。

 

 夕勤(夕方のお勤め)まで、ごろ寝。

 夕勤は再び本堂に集まり、「南無妙法蓮華経」のお題目の大合唱に続いて、先の祈願とは別に特別祈願した方たちの名前と祈願の内容を読み上げ始めた。途中で抜け出して、部屋に帰った。

 大部屋での雑魚寝だった。長さ5mもあろうかと云う敷布団と掛け布団を部屋一杯に2列敷き、それに鰯の目指しのように並んで寝るのは、今でも思出だすと笑いが込み上げて来る。

 

7/19(月)

 朝の3時過ぎだろうか、廊下の洗面所で大声で顔を洗いながら話す声がする。一人が終わるとまた次に新手が来て、同様に喧しい。信心するものの心得として、少しは他人の迷惑を考えないのかと腹が立ってきた。

 4:40頃のご来光に合わせて、山門前の広場に出てみた。低く垂れ込めた厚い雲が、東の空を覆っている。段々と明るくなってきた東の空では、富士山頂の大分左20度程の位置が朱色が強くなり始めた。みるみる内に雲の薄い所は薔薇色に染まり、空は朱、薔薇色、灰色、白の織り成す不可思議な模様の絨毯のようになってきた。その中に富士は頂きに雲を被ったまま、灰がかった藤色の蔭となって座っていた。

 続々と集まってきた霊友会の信者達はリーダーの掛声に合わせて、ご来光を妨げる雲を追い払うべく、数珠をつま繰りつつ、雲に向って数珠を突き出し、大声で、「にしーっ、にしーっ」と、雲退散の祈祷を始めた。年寄りなら判るが、うら若い美しい女性までが白装束に身を包み、「にしーっ、にしーっ」と大声で、しかも真剣な面持ちで叫んでいるのを見ると、宗教力の強さと同時に、身震いするような怖さも感じられた。オームの信者にも通じるような狂信性をみたような気がした。

 しかし、残念ながら、朝は雲が多く、ご来光は少し朱色の円が見えただけで、分厚い雲に隠れてしまった。でも、あの分厚い雲間から少しでもご来光が見られたのは、雲退散のお祈りのお蔭なのかもしれない。

 

 5:00 朝食。朝食も夕食に劣らず質素で、昨晩と同じ若芽の味噌汁、沢庵、海苔、大根の煮付けだった。食事を済ませ、七面山山頂への準備をした。

 6:00 敬慎院発。600~700m程の緩い登りを詰めた所で、ナナイタガレ(崩壊地)の壁に突き当たった。突き当たったとは云え、崩壊地の崖の際と登山道との間には20m程の笹藪の斜面で仕切られて

 

いるため、全く崩壊地を見ることはできない。その崩壊地を巻くように上がる道からは、ややきつい登りはあったが思った程ではなく、敬慎院(1790m)から、七面山(1982m)山頂まで案内の通り、ぴったり40分で到着した。所が、そのガイドにある通り、山頂からの眺望は全くない。

 ナナイタガレ(崩壊地)を見るため、変更されたルートの旧道を歩くことにした。樹木も生え具合で崖の状態を確かめながら、崖際まで行ってみる。すると、富士が正面に見えたが、足元を見るとそっくりなくなっている。煉瓦色、茶色、白茶の剥き出しの地肌がナイフで抉っって底なしになっている。良く見ると、つい最近崩れ落ちたと思われる緑の葉を付けた樹木が幾つも途中に引っ掛かっている。それを見ると、この崩壊地は今でも活動しているのだと云う実感が湧いてきた。

 何箇所かでナナイタガレを覗いてみたが、どうも昨年の日向山程の感激はない。日向山は初めてだったせいもあるが、眩しい程真白い砂礫であったこと、両側が切り立った尾根筋で、視界一面が崩壊地という視覚的にもはるかに強烈な印象を与えられたことによるのだろう。

 宿舎に戻り、下山準備をして、出発。まずは幅の広い緩い道を下る。

 途中の稲荷神社に詣でる。神社の少し先に400m程先と書かれた「イチイ(一位)の大樹」案内があり、それに釣られて、イチイの大樹を見に行った。所が、行けども行けどもイチイは見えず、谷を殆ど下ったのではないかと思う程遠かった。イチイの巨木は神木らしく注連縄が巻かれ、周囲に柵がされていた。周囲の成長の早い杉、ぶななどに混じっているので、巨木といってもそれ程目立つ訳ではない。しかし、イチイとしてはまれに見る老樹らしい。敬意を表しつつ、来た道を戻ったが、判った道なので残りの距離は想定できる安心感はあるものの、登りはそれなりに大変だった。往復でたっぷり40分は掛かってしまった。

 

 

 先と同じ広い道を行くと、500m程で奥の院(1660m)に着いた。読経の声が途切れることなく続いている。本堂の手前には、開山日朗上人が七面大明神を見たと云う影嚮(ようごう)石が鎮座していた。成る程、大きさと云い、形と云い、神が宿り、お姿を現しそうな不思議な重々しさを感じさせる。

 お水を頂いて、本堂脇から下りに掛かる。ここからは本格的な下りの道だ。下るに連れて、幅は狭くなり、勾配もきつくなってきた。

 奥の院からは1,5km程で、明浄坊(1422m)に着いた。脇の蛇口からは、谷川から引いたと思われる水が終始流れている。冷たくて美味しい。顔を洗い、濡れタオルで体を拭くと生き返った気がする。顔を上げると、七面山が覆い被さるように迫っている。

 一休憩した後、出発。途中、ゴヨウツツジ(五葉躑躅)の案内がたあったが、花はとっくに散った後らしく、辺りの躑躅の葉でそれかと思う。

 更に1,5km程で安住坊(1000m)に着いた。ここには、神木となっている大栃の木があった。付近にはその栃の樹のものと思われる実が辺り一面に転がっていた。安住坊付近では、鮮やかなアジサイ(紫陽花)が咲いており、目を楽しませてくれただけでなく、この死ぬ程の暑さの中では、その青色の涼しげな感触が嬉しかった。

 安住坊に近づいた頃に時折り、太鼓のような音がしていたが、安住坊を過ぎると、太鼓の音に加えて、あの独特の節回しで唱える 「なんみょーう、ほうれん、げきょーう」のお題目も聞こえるようになり、それが信者の集団であることが判った。昨日の大集団とは違って団体のようで、マイクは使わず、太鼓と肉声だけでお題目を唱えつつ、下山していた。この集団を追い越し、坂を転がるように下っていくと、木々の合間から時折り春川の河原が見え隠れするようになり、採石場のミルの音らしきものが聞こえるようになってきた。

 安住坊から神通坊(320m)への下りは、急な九十九

 

折りで、神通坊に着いた時には脚がガクガクになっていた。膝の力は抜け、平地を歩くとふわふわして自分の脚でないかのような気がする。

 タクシー乗り場に杖を返し、駐車場に車を取りに行った。

疲れたので汗を流したいと思ったが、角瀬の村では中学生の団体が来ているので、日帰り温泉などはできないということが判り、前以って調べておいた下部温泉に行くことにした。

 下部の町営温泉を探し当て、早速湯船に浸かる。風呂場も湯船もそれ程大きくなく、余り温泉らしい雰囲気ではない。しかし、窓の下は河原で、対岸の木々が見え、風は通り、爽やかで気持ちがよい。

 汗を流してさっぱりした所で、次はお腹の虫に餌をやらないと、「グルグル」と鳴くので、五月蝿くてかなわない。下部温泉駅の駅前にある食堂に飛び込む。アルバイトのお姉ちゃんが一人客の相手をしているが、要領が悪いのか、帰った客の湯呑み、食器などは放りっぱなしだ。失敗したかなと思ったが、もう遅いので、座敷に上がって注文する。兎に角、作るのが実に遅い。30分以上も待たされて、ようやく食事にありついた。蕎麦もかつ丼も美味しかったので、それには多少慰められた。

 中央高速の名物、渋滞に掴まった。笹子トンネルは7km程なので我慢して通過したが、小仏トンネルの19kmmでは3時間掛かるとの案内に。これを避け、R20甲州街道に下りる。が、矢張り渋滞。

 普通なら、3時間程度の所を約8時間掛かって、千葉には9時半頃の帰宅であった。

 完

 

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