【旧道エッセイ2nd】・北海道旧道保存会メンバーによるリレーエッセイ 道外版です。
Vol、2 “国道”最長の手掘りトンネルだった「中山隧道」~トンネル技術が育んだ棚田・闘牛・錦鯉 ~ 石川 成昭
1 再開通に集まった人たち
2 入口の幅は1.7m!
軽でもミラーがあたるほど
●再開通記念日
昭和二四年五月一日、住民自らの手で掘った中山隧道が開通した。それから五三年目にあたる平成一四年五月一日、偶然にもこの隧道の再開通日に現地を訪れた。「再開通」というのは、すぐ横に新しいトンネルが平成一〇年にできたため、旧隧道は通行止めになっていたのだが、その保存が決まり、元々の開通日を再開通日とした記念すべき日だった(1)。小松倉(山古志村)側の入口では、地域の方々が集まり地元の野菜を配ったりしてお祝いをしていた。どこから来たの?と聞かれ、札幌からと告げると、驚きながらも喜んでくれた。
そして、別な手掘りトンネル(2)のあるところまで連れていっていただき、トンネルにまつわる興味深い話をたくさん伺うことができた。手掘りで十数年かかったことしか知らなかった私にとって、驚きの連続だったとともに、北海道との深い繋がりも聞かされたのでご紹介したい。なお、これらは広神村在住の増田さんからお聞きしたことをベースとしている。
“国道”最長の手掘りトンネルだった「中山隧道」
~トンネル技術が育んだ棚田・闘牛・錦鯉 ~
石川 成昭
3 失敗した最初の水路隧道
3 水路隧道(小松倉側)
●水への想い
急峻な斜面ばかりの新潟県山古志村。江戸時代には、田んぼもできない場所が多かったので、藩領にもならなかったという。
明治の初め、小松倉集落上方にある城山の南側斜面に田を作るべく、一人の男が尾根の向こう側にある谷から水を引こうと考えた。尾根の頂上から同じ角度と長さの縄を張り、水路用のトンネルを掘った。ところが、下流側の方が二mも高くなってしまい一旦は断念したという(3)。しかし、水への想いは断ち切れず、前回両側から掘って失敗したことを教訓として再挑戦し、水源(上流)側から勾配をつけて二五〇mの手掘りのトンネル「水路隧道」を完成させた(4)。完成までに二五年の歳月を費やした一大事業を一人で成し遂げたというから驚異である。
水路隧道は、中山トンネルの小松倉側入口の下手すぐ右側の棚田が拡がる山腹に今も残っている。この界隈の山地は地滑り地形により水の少ない沢が多いため、いかに水を引き水田を作るか…が大きな関心事でもあったとはいうものの、半生をかけて掘ったことに想いの強さを感じる。
●苦渋の峠越えを克服
標高三〇〇mの小松倉は、標高四〇〇m近い中山峠を越えれば、沢沿いに下るより広神や入広瀬側の里に近い。そのため、昔から一里で越えられる峠として幹線ルートだったという。しかし、一里でも山道ゆえ“三里の峠”と称され、冬は命がけだったという。
そこで、過去に水路隧道で実現できたトンネル掘りの技術(その伝承と自信)を峠越えの克服に活かすべく、昭和初期にトンネル計画が持ち上がり、住民自らが掘ることとなった。
「自ら」の背景には、この地が藩領ではなかった(有益な耕作地でなかった)ことと、有益でない故に地主がいなかったということで、人に使われることがない(人に依存しない)“無頼な気質”があったのではないかということだった。
●地域の文化はトンネルから!?
さて、トンネルとこの地域特有の文化といえる棚田、錦鯉、闘牛、それぞれは深く関係しているのだという。棚田の背景に水路のトンネルがあることは察しがつく。その水利のための溜め池が錦鯉(真鯉の突然変異)を生み、棚田を作ったことでできた数多くの斜面の草を利用して牛を飼い、闘牛が生まれたという。
話を伺った増田さんのお祖父さんは博労(牛馬の仲介業)で、岩手の青森県境あたりから2カ月もかけて牛を引いてきたという。地域の文化・産業・景観の背景にはトンネルありなのだった。
●無頼の精神は北海道へ
意外な事実なのだが、広神村を含む北魚沼郡長を明治一〇年代に務めた関矢孫左衛門という方が野幌森林公園の保存活動の一端を担っていたという。彼は明治二〇年代に北越殖民社を興し、北海道への植民活動をした。活動は第三者を送るだけではなく、自らが先頭に立って植民を実行した。植民社は関矢ともう一人が興したが、初代代表の大橋という方が急死してしま
追記・
中山隧道は、今回の地震(二〇〇四年新潟県中越地震)の震源直上にあったにもかかわらず、無事のようです。
今回震災を受けた魚沼の地域、道内ではお米やお酒では知られていますが、おいしい「へぎ蕎麦」をはじめ、うどんやラーメンを手打ちで出すお店も多いなど、ぜいたくを望まなくても満足度の高い地域です。
復興が進んだ暁には、北海道からも魚沼を訪れ、素晴らしい文化と自然を味わってほしいと願っています。
無頼と自立と自然との調和を大事にする心を持った山古志や魚沼地域の方々に敬意を表して記させていただきます。
5 水路隧道から引いた水が棚田や溜め池を支えている
い、関矢は衆議院議員を辞めて北海道に来たという。江別(野幌)に入植し、稲作を成功させたりしたほか、当時は切ることしか考えられていなかった森林に、保存する価値を見いだし、その保護に取り組んだのだという(明治30年頃にその運動をしていたとうのがスゴイ)。現在の野幌森林公園は、その成果あってのものだというのだ。
このような個人の行動力と地域への貢献の姿勢は、中山隧道にも通じる「自らやる」という地域の気質が生きている気がしてならない。
こんな話を、山古志の何とものどかな山奥の、溜め池前のあぜ道で聞かされ、トンネルのことしか知らずに訪れた自分が少々恥ずかしくなった……
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