【旧道エッセイ2nd】・北海道旧道保存会メンバーによるリレーエッセイ 道外版です。
Vol、1 滞在時間25分の旅 浅倉寛行
かつてはディーゼル急行が闊歩した四国も今や特急だらけ。高知で堀さんにお会いしたときの往路が私のラスト急行で、細々と一、二本だけ残っていた様に記憶しています。
いずこも同じですがこれにつれて普通列車も淋しくなってしまいましたね。土讃線の安物架線(直吊架線)が終わる琴平(ことひら)から先はキハ20を混ぜた3両編成くらいの各停がのんきに高知への長旅に出たのももう昔、現在は阿波池田を直通する普通列車はありません。
ここでちょっとお断りを。JR四国では「各停」と「普通」を使い分けており、一駅も通過しない列車を「各駅停車」と呼びますが、この拙文では気にしないことにします。
切れぎれにしか乗ったことのない同好の士でもある我が息子、夏休みに入っても部活等でなかなか暇がない中「この日があいている。」とぼそりと一言。「一人で乗って来れば?」と水を向けると行く様ないかないような・・・。元より嫌いでない弱み、とどのつまり彼はスポンサー付きで出発することと相成りました。
早起きをしてマリンライナー、普通電車を乗り継いで、琴平九時六分発を捕まえます。キハ54単行池田行は安普請とは云え五〇〇馬力エンジン(二五〇0PS二台)はさすがで塩入(しおいり)への上りをぐいぐい加速します。黒川で谷を横切り、讃岐財田(さぬきさいだ)を出ると勾配とカーブの介在でめっきりスピードが落ち、険しい県境猪ノ鼻峠の長いトンネルに突入します。数少ないスイッチバック、そして以前ご紹介した(コンターサークル会誌『等高線』一八、一九号)川のトンネルがある坪尻(つぼじり)で行きつ戻りつ
滞在時間二五分の旅
浅倉寛行
した後山肌にへばりつくように吉野川の谷へ降り始め、箸蔵(はしくら)の先で吉野川を渡り、佃(つくだ)で徳島線に合流して、九時五二分池田着。ところが先への普通はなんと 一一時三三分までお預け。ただ側線に鎮座しているキハ58+ 28コンビのエンジンがかかったままです。ひょっとしたらと願いつつ一軒あるスーパーで昼飯を調達し、その辺をぶらついて……もまだまだ時間は来ない、カットでも撮りたいが列車が無い! そんな中で駅前に定期観光のボンネットバスが入って来ました。これは以前に家族旅行で使いましたが今日も満席の様子で「まだ元気そうだね。」と見送ります。このバスは大歩危峡(昼食と船下り)~平家屋敷~かずら橋~祖谷温泉(ひと風呂浴びるには下車要す)を廻って池田へ戻ってきます。一度お試し下さい。当時運転手さんに聞いたらエンジンは換装していないとのこと、元気なものです。
やがて各方面の特急が集まりだし、駅はひとしきりやかましくなります。最後に「剣山」が徳島へ向けて折り返して行くと先ほど一旦佃方に移動していたゴハチ、ニハチコンビが期待に違わず高知行として入線して来たではありませんか。色こそ往年の急行カラー、赤とクリームではないものの水色とクリームと云う単純な塗り分けはあまり気になりません。車端部には「日本国有鉄道」の長円形の銘板もそのままです。ただ座席が交換され、車端寄りはロングシートに変わり、更にデッキとトイレがなくなっているのがさみしいところ。二両で三基の一八〇馬力のなつかしいエンジン音を響かせて出発。三縄(みなわ)の先で一旦トンネルで山側に回り込み、吉野川を渡ると祖谷川が合流する少し手前、祖谷口(いやぐち)から大きく左に廻って行きます。阿波川口を出てすぐ右手に煉瓦積みの橋台の跡があり、若干線路が移動したことが判ります。小歩危(こぼけ)の先で川を渡り返すと大歩危峡に入って行きます。【カット-1・小歩危駅で特急をお待ちしての列車交換】
カット1
小歩危と大歩危では地層の傾きが丁度山の左右のように反対向きとなり、その境目は先ほどの鉄橋(第二吉野川橋梁)から少し大歩危(おおぼけ)駅寄りだったと記憶しています。この渓谷の創造主が中央構造線であることはコンターサークルの皆さんには説明不要かと思います。又「大股で歩いては危ないくらい険しい場所で大歩危、小股でも危険だから小歩危」と云う説明を昔は「なるほどそうか。」と合点していたのですが、ホケ、フケなど崖を表す古語に由来することも地形に興味を持ち始めて知ったことでした。
かつての急行列車気分を少し味わいながらトンネルと落石覆いが続くホケの道を進みます。対岸の国道から見るとコンクリートのアーチの助けで半分岩肌をはみ出すように敷かれた険しい線路の様子がよく判ります。名勝大歩危への最寄り駅も静かなもので、今は車で来る方がメインなのか或いは特急ならば降りて来る人がいるのかも・・・。
図1
まだまだ渓谷美が続く筈のところ線路改良の為に掘られた長い大歩危トンネルでしばし川の景色が切れてしまいました。そのトンネル出口に続くシェルターの右側にはもう一線分の落石覆いがあり、徐々に狭くなって現在線に合流します。土佐岩原を過ぎると川筋も緊張感がゆるんだ様子、豊永(とよなが)は少し段丘面が開けて対岸から国道が渡ってきます。駅を出て程なく国道は再び対岸に帰りますが線路沿いには細い道が続いています。それこそ旧道かと思ってみたり…。太田口(おおたぐち)と土佐穴内(とさあなない)の間では曲流に沿った旧線を捨ててまっすぐのトンネルが掘られています。細道を辿れば民家の裏で物置になっている、ぽっかり開いた旧トンネルやもう木が茂ってはいるものの一段下に細長く続く平坦面が見て取れます。【図-1・ 土佐穴内付近の現在線と旧線(手書きの点線)(五万分一地形図「本山」より)】
このショートカットに関して面白い記事をご存じですか? JTB刊「鉄道廃線跡を歩く」シリーズⅢの中で今尾恵介さん(一度お会いしたのに私は執筆者名を全く覚えておらず失礼してしまいました)が地形図の修正ミスについて書かれていますのでご一読下さい。以前歩いた時にかの平坦面の一部にトタン屋根の作業場があってやけに幅があるなといぶかった箇所がどうやら旧駅の位置だった模様です。今の穴内駅へ続く道の橋がどうも元鉄道橋らしいのにホームへつなげるにはちょっと高さに無理があると思ったのも駅の位置が変わったことを知れば合点が行くのです。
線路は吉野川を離れ支流の穴内川沿いに変わっています。大杉の先でくぐる長いトンネルは上りの片勾配でエンジンはうなりっぱなし、排気の臭いがかすかに車内に漂ってきて、何とも言えないムードにひとりにんまり。もうひとつ短い隧道を抜けたところで左車窓に目を凝らすと線路跡らしき道が離れて行きます。右へカーブした列車は川を渡ってまたトンネルに入り、暫くしてブレーキがかかり、ポイントを渡ると同時に明るくなるや「トラス橋の中の駅」土佐北川の細いホームに停車します。左から川を渡らずにやって来た旧線跡が橋のたもとで合流します。途中大王信号場を挟むこの区間の廃線跡は新しい道路工事などで踏破はむずかしそうです。【カット-2・ 大杉~土佐北川間の旧トンネル 】
カット2
峠まであと二駅、この辺り岩の露頭がなくなりなんとはなしに景色がだれるのでしょうかやや印象が薄かったのですが、それでも曲がりくねる狭いV字谷を短いトンネルでショートカットしながら角茂谷(かくもだに)停留場に続き繁藤(しげとう)へ着くと、七分停車のアナウンス。ホームに出て駅の廻りを見渡してみましたがかつて国道も駅も止まっていた列車をも川に押し流した山津波があったとは一寸見には判りません。いずれゆっくり見てみたいとは思っていますが、さて見る目があるかどうか・・・。やがて下りの特急がホーム反対側の中線を駆け抜けて行きました。
この先トンネルを抜けると川筋は消え、山腹を右に左に廻り込み、途中狭苦しいスイッチバックの駅新改(しんがい)で今度は上りの特急をやり過ごして、再び高度を下げ、田圃が広がり始めると程なく高知平野のはずれ土佐山田に着きます。【カット-3・ 新改駅で小休止のキハ58】
カット3
次の山田西町までは路面電車の如く短い距離、まっすぐ進んで土佐長岡を出ると、左から開業したての土佐くろしお鉄道なはり(奈半利)線が下りて来てその接続駅後免(ごめん)に到着。奈半利と云えば堀さんがNHK-TVの廃線跡探訪シリーズで歩かれた魚梁瀬(やなせ)森林鉄道が思い出されます。
終点高知まであと五駅は坦々と走ったと記憶していますが、今日はここで失礼しなければなりません。この列車は高知一五時四〇分発の上り列車として折り返すと思われますが、それでは帰宅がかなり遅くなってしまうのです。ごめんねとゴハチを見送って気がつけば途中でぱくつこうと思っていた握り飯も車窓から外を見るのに忙しくてそのまんま。暑い駅のベンチでの昼食となりました。ローカルスーパーのおにぎりがまたデカイこと。
一四時一分阿波池田行の各停はキハ54+32の大小コンビ(それぞれ大型ワンマンカー、小型ワンマンカーとしてデビューした)、滞在時間わずか二五分で帰路に着きます。ゴーヨンは片隅運転室の為前が見やすいと云う良いところはあって彼は早速「立席展望席」へ。延々池田まで見続けても疲れないというのは若さでしょうか。実はこのスジで戻ってきたのにはもう一つ理由があります。池田からの接続列車がキハ五八+六五なのです。猪ノ鼻峠をこれで登ろうとの魂胆です。一六時二二分発ゴハチ、ロクゴペア二組四両の豪華「普通列車」は途中琴平から「快速サンポート」となって高松まで足を延ばします。気動車は上り坂であえぐものとの趣味的な期待には少し出力がありすぎるとは云えカーブも手伝って箸蔵を出ると先ずまずの鈍足ぶり。坪尻の1線しかないホームには下りのゴーヨン単行が止まっていますから決して面倒臭くて通過するわけではないようです。さて往路の中継点琴平をあっけなく過ぎ、予讃線に合して多度津(たどつ)を出ると今度は快速然と飛ばし始め、これまた往年の急行を思い出させる場面となりました。当時急行が多度津を出ると車掌氏が急行券だけ回収に来ました。高松
では連絡船への桟橋には改札がなかったのでこうしないと急行料金を取り損なう訳です。そんな頃のおもかげはもう全くない新装なった明るいホームに昭和世代の気動車は滑り込み、我先に船を目指して走る人もなく、皆ゆっくりと改札口へ向かっていました。
さてこちらはもう一息快速マリンライナーの普通展望車で岡山へ。おや、ルートがおかしいことにお気づきですか? はい、本来ならば宇多津(うたづ)、或るいは坂出(さかいで)で乗り継ぐところですが、今回は「青春18」の威力でわざわざ乗り通した次第。(二〇〇三年一〇月マリンライナーは車両が223系に交代して立席展望車になってしまいました)
(二〇〇二年七月の一日)
ⒸhiDeki (hideki kubo) 2001 Contact ・ st-pad@digi-pad.jp
ご注意・この北海道旧道保存会ホームページ『裏サンドウ喫茶室』では、寄稿者の方々の研究成果を発表しています。掲載の文・カット・図版等はそれぞれ著作者の権利が保護されています。無断で他の媒体への引用、転載は堅くおことわりします。当ホームページ掲載の地図は、国土地理院長の承認を得て同院発行の当該地域を含む5万分の1地形図及び2万5千分の1地形図、数値地図25000及び数値地図50mメッシュ(標高データ)を使用、複製したものです。<承認番号 平13総使、第520号><承認番号 平13総複、第390号>このホームページに掲載されている場所は、自然災害や経年変化などで取材時よりも状況が著しく変化している場合があります。