定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その九五  「東簾舞停留場」】

 

 整然と並ぶ柱状節理が美しい断崖の上にこの停留場は設けられました。簾舞の集落としてはふたつ目の駅になります。次の簾舞停車場まではおよそ八〇〇メートル。定山渓鉄道の他の駅間距離からすれば割合間隔が短い方になりますが、その理由は第二次世界大戦の存在が大きくかかわっていました。

 拡大する戦争の中、風光明媚な簾舞御料峡の対岸に軍事保護院傷痍軍人北海道第二療養所が置かれました。昭和一八年一〇月一五日のことでした。戦地で傷病を患った軍人を収容し医療を施す目的の施設ですが、ここでは主に結核の罹患者を収容していました。当時、結核は不治の病とされていたので、空気の良い山間部であるという条件にかなったものと思われますが、住人の多い簾舞停車場付近の集落に配慮して、やや離れた山間が選ばれたとも想像できます。

 昭和二〇年には機構改革により厚生省所管の国立北海道第二療養所となり、傷痍軍人のみならず一般国民の結核療養にも広く対応することになります。それとは裏腹に、終戦直後という特殊な状況と冷害により凶作による深刻な食糧危機で、入院患者への食糧事情が悪化、職員の住宅事情も悪く軽症患者を退院、あるいは転院させて、病棟を職員住宅に充てるなどの困難な時期もあったそうです。しかし、まもなくして山間の別天地である簾舞のサナトリウムはその評判を呼んで、各地から患者が多数、ここに訪れるようになります。最寄り駅はもちろん簾舞停車場だったわけですが、療養所までの距離は約一キロで未舗装の悪路だったため、その道のりは楽なものではありませんでした。電車の車窓からは、簾舞に着く直前に柱状節理が美しい御料峡を挟んで対岸に療養所が手に取るように見える場所を通っています。そこで、訪れる患者やその家族の利便のために、診療所の眼前に渡された御料橋の直上に停留場を設けることとなったのです。開業は昭和二六年一一月一日。当初はホームだけの無人駅でしたが、後に停留場前に入院患者の家族のための宿泊施設が建てられたり、乗降客も増えてきたのでこれに

応じることになり、昭和三〇年五月に二階建ての待合室兼住宅が新築されました。駅員が業務にあたっていたのはあまり長い期間ではなく、ほどなくして近隣住民が移り住んでこれにあたることになります。小金湯停留場ですでに実績があった管理業務委託が、ここでも行われました。ちなみに鉄道廃止後もしばらくは住宅として使用されていたのだそうです。

 鉄道廃止後の線路跡ですが、直後に御料橋への道路改良とともに築堤部が削られ、その後、度重なる道路改良により駅舎も取り壊されます。宿泊施設もしばらくはアパートとして利用されていましたが今は消滅。時を経て、近年の市道新設によって停留場周辺はその面影をまったくと言ってよいほど失いました。御料橋も、市道新設にともなって下流に新しく架橋されたために取り壊され、かつて、御料橋の先にあった国立療養所も現在では国立病院機構札幌西病院に統合されたことにより、その姿はもう見ることはありません。

 

※カットは、上が東簾舞停留場全景。向こうが定山渓方((株)じょうてつ所蔵)。右が御料橋と国立療養所(札幌公文書館所蔵)。PC 橋に架け替えられた昭和三〇年代。左下は、入院患者の家族のために建てられたという宿泊施設の名残で、平成一三年ごろまで存在していた。

 

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