定山渓鉄道資料集
【定山渓鉄道沿線百話 その九四
「堀淳一氏と定山渓鉄道」】
鉄道や地図を趣味にされている方であれば、堀淳一氏のお名前をご存知の方は少なくはないと思います。昭和四〇年代半ばより「地図」の謎にまつわる数々の旅のエピソードを著わし、その後「旧道」「廃鉄道」を訪ね歩くことの「たのしみ」を伝えた、まさに日本を代表する地図紀行エッセイストでした。
しかし、古くは北海道大学物理学の教授時代から北大鉄道研究会の顧問を務め、その当時、鉄道友の会北海道支部長だった小熊米雄氏(北大教授)との交流も深かったことは、鉄道ファンの間でもよく知られています。近年ではJR北海道の車内誌に「風に吹かれて一人旅」という、現役のJR線と列車をテーマにした連載もされていました。鉄道に対する想いは、地図へのそれに負けないものがあったことは疑いないと思います。
堀淳一氏が、生涯にわたり撮り続けてきた写真の中で最初に定山渓鉄道が登場するのは、昭和二三年六月二〇日に撮影された滝ノ沢駅のホームでのカット。同じ日付の写真には「藤の沢の河原(十五島公園)」「砥山水路(簾舞発電所導水路)」があり、いずれも定山渓鉄道が宣伝していたハイキングコース上のものであることから、この日の行程はこれに沿って歩いたものであろうことが想像できます。
大正一五年生まれの堀淳一氏は、この時二三歳。同じアルバムには樽前山の「馬返し」や昭和新山でのスナップもあり、若いころから地球物理に関心が高かったという某著書のプロフィール文を裏付けています。話を戻すと、少なくともこのころには定山渓鉄道との接点があったことになりますが、それ以外のアルバムでは定山渓温泉での行楽風景や、未舗装で幅の狭かった国道二三〇号線石山付近などの写真が散見されるものの、残念ながら定山渓鉄道の電車が撮られたものは見当たりません。しかも昭和四六年に発刊された『英国・北欧ベネルックス軽鉄道の旅』以降、ヨーロッパで撮られた「軽鉄道」の著書が続々と登場するのとは対照的に、定山渓鉄道の電車は昭和三八年にやはり滝ノ沢で撮られたカットを最後に、以後のアルバムや書籍にはまったく登場しません。
一方で、国鉄赤字ローカル線問題、いわゆる「赤字八三線」が話題となり始めた昭和四〇年代半ばごろからのアルバムには、北海道内各地のローカル線を訪ねる記録が多く見られるよ
うになります。廃止が近いことを見越していたのでしょうか。奇しくも定山渓鉄道が廃止されたのはその直前の昭和四四年でした。
堀淳一氏の著書に定山渓鉄道が現れたのは、昭和六一年発刊の『サッポロこぼれある記』と『れいる残照』(いずれも、そしえて刊)で、どちらも定山渓鉄道廃止後の線路跡が描かれます。氏が自身で作成し遺した一五〇冊を超える写真アルバムの中でも、定山渓鉄道の廃線跡に関しては三冊にわたって記録されていました。このことは、コマ数が少なく断片的な他線区の記録(一冊に複数)とは明らかに「待遇」の違いを感じます。また各著書では跡地の「散策路」としてのたのしみを数々の発見とともにわりあい淡々と表現していますが、その後の著書の中で、もっとも定山渓鉄道への想いに踏み込んだ文章は、『地図の中の札幌―街の歴史を読み解く』(亜璃西社 平成二四年刊)の中のコラムになるでしょう。
「幸い定山渓鉄道には数回乗ったことがあるのだが、…」で始まる短い文章の中では、札幌へ移住して間もない小学生のころの思い出が語られます。後半、タブレット交換の一節からは、それが後に鉄道への興味が芽生えるキッカケであったように私には感じ取れました。文頭で「幸い」と表現するあたりにほんの少し後悔の念がよぎっていたようにも感じられます。多少、強引かもしれませんが、もしかしたら小学生時代の定山渓鉄道との出会いがあったからこそ、「地図と鉄道のエッセイスト堀淳一」が生まれたのではないか、と思えて仕方がないのです。たとえ写真アルバムの中に定鉄電車の活きた写真が数えるほどしかなかったとしても…
※写真は上より、堀淳一氏のアルバムに最初に登場した定鉄電車。滝ノ沢停車場で昭和二一年ころ。中段が八剣山の頂上から撮られた豊滝方面の俯瞰。写真下方に豊平川と段丘に沿って伸びる線路。右側豊滝小学校下に走行中の貨物列車が見える。昭和三八年ころ。下が、廃止後に線路跡を最初に歩いた時のカット。同行したコンターサークルのメンバーが見える。この時の廃線跡の模様が『れいる残照』で紹介された。いずれも堀淳一氏撮影。
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