定山渓鉄道資料集
【定山渓鉄道沿線百話 その九三
「一の沢停車場(続)」】
さかのぼること第六話目の「停車場と停留場」というテーマの中ですでに「一の沢停車場」について触れていますが、今回はその続編です。
先回で、この駅は「片面ホーム一つの無人駅」であるにもかかわらず、昭和三九年に作成された駅平面図は「一の沢停車場」となっていることの疑問をご紹介しました。定山渓鉄道としては「駅員配置=停車場、駅員無配置=停留場」という社内的な定義があったそうですが、通学時間帯に限って駅員を配置した慈恵学園停留場や、停留場でありながら「業務委託」として一般人家族が在住していた東簾舞停留場や小金湯停留場といった例外駅も存在していました。それらを踏まえて今回は、「なぜ一の沢駅は停車場なのか?」という点を推理します。
まず、一の沢駅は大正一五年八月一五日に開業しています。電化後の昭和四年ごろに作成されたと思われる駅平面図によれば、この時の図面上の表記はは「一の沢停留場」でした。伝えられている駅開業のいきさつは以下の通りです。
現在の豊滝から小金湯にかけては温泉宿以外は農家が点在する地域で、駅周辺はとくに集落があったわけではなかったようです。ところが簾舞発電所に次ぐ豊平川流域で二つ目となる一の沢発電所が、大正一三年ごろに一の沢川との合流付近を建設地として工事が始まります。そして建設資材の運搬に鉄道が利用されることとなり、この場所に資材を下ろすための側線が設けられたのです。大正一五年には当時としては珍しい六階建て鉄筋コンクリートの発電所が竣工します。当時は勤務する職員が多かったのでしょう、職員住宅群が一の沢川の対岸周辺に何棟も建てられました。その利便のためにこの位置に駅が開業したわけです。平面図によれば、本線にホームがひとつ、待合小屋のようなものがあるだけの棒線駅に見えますから、スタートは駅員のいない停留場だったと思われます。
さて、発電所建設にあたって資材の荷卸しをするための側線が敷かれたわけですが、どの位置にどのように敷かれたか、という点が謎でした。大正末期の地形図では当然のことながら縮尺の関係で側線の存在までは記されていません。駅平面図を見ると駅構内の敷地界が実線で描かれていますが、これは多少の
ヒントにはなりそうです。特に「通路」のある側が広く矩形にとられているので、ここに積み下ろし用の側線が伸びていた可能性があります。ここで下した建設資材は、馬曳きの荷車など別の手段で定山渓道路の一の沢橋を渡って、対岸の発電所建設現場へ運んでいたと思われます。
今では再開発がなされたため駅周辺は全く面影が無くなってしまいましたが、ホームの残骸、痕跡がまだ見られた平成一二年ころにはまだ、旧国道跡と線路跡との間にその当時の荷卸し場を想像させる広い空間がそのまま残されていました。
その側線ですが、少なくとも昭和三六年あたりまで残されていた可能性がある、数少ない手がかりを見つけました。この年に撮影された国土地理院の航空写真です。一の沢停車場のホームを中心に定山渓方から分岐してホームの南側を通るもの、そして、ホーム手前より反対に定山渓方へ分岐するもう一つの線。枕木が連続しているように見えます。レールが敷かれているかどうかは判読が難しいところですが、発電所の維持管理などに資材を運ぶため、発電所稼働後も実は側線が維持されていた、という推理もできます。不定期にしろ荷卸しの作業が絡むわけですから、一時的に駅員が配置されること可能性もあり、ちょっとコジツケっぽい感じはしますが「停車場」の条件に合う、と言えなくもありません。
次にダイヤグラムに見つけたもう一つの手がかり。停車場の条件として駅員配置であることは先に触れましたが、ダイヤグラムの駅名表示には、この駅員配置に関する印が付けられています。具体的には駅員無配置(=無人)駅は◎印が付いているのですが、手元の資料で見る限り昭和二八年四月までは一の沢駅にこの印があるものの、それ以降、少なくともこの昭和三六年四月までにはこの印が抜けているのです。この間に一の沢発電所への資材運び込みを要する大きな変化、例えば発電機の更新などがあったためでしょうか。額面通りに受け止めるとこの間は駅員配置=停車場ということになります。昭和三九年二月に作成された駅平面図で「一の沢停車場」となっている裏付けになるかもしれません。ただし、平面図には待合小屋風のものはあっても駅舎が描かれてはいないので、「駅舎がない」のに駅員配置?という疑問は残り、この点は当時を知る方からの証言を求めるしかなさそうです。
昭和三六年以降に作成されたと思われる「鉄道台帳」によれば「停車場一一、停留場八」と記載されていました。駅員が配置された駅であることが資料や写真などで明確な停車場は、東札幌、豊平、澄川、真駒内、石切山、藤の沢、簾舞、滝の沢、錦橋、定山渓の一〇駅です。これに、「一の沢停車場」を加えなければ数的には一一になりません。ということで結論としては、やはり一の沢駅は無人の棒線駅という形態でありながら、社内的には「停車場」という認識だったと思われるのです。
※補足
後日の取材で「一の沢停車場」の謎が解けました。元社員の方の記憶から、「昭和三〇年六月に改正したダイヤ上、「一の沢駅に貨物側線敷設、チ、チサ留置」という話を伺いました。「チ」「チサ」は、材木用途の貨車のことです。つまり、前年の洞爺丸台風による風倒木被害が沿線で発生し、その処理のため、一の沢に側線を設けた、というわけです。またこの期間、一の沢は隣の錦橋停車場の構内の一部とされ、駅員は錦橋より出張し入換作業にあたった、ということでした。
ちなみに一の沢停車場の上流側に架かる百松橋も、この風倒木被害をきっかけに、それまでの吊り橋から現在の鉄橋へと架け替えられました。
※写真は、一の沢駅のそれぞれ停留場、停車場平面図と、昭和三六年に撮影された航空写真の駅周辺拡大画像(国土地理院)。そして鉄道台帳(甲)の駅に関する記載部分。
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