定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その九一  「玉川聚楽園」】

 

 「玉川遊覧船 定山渓驛の北へ六丁、紺碧静寂の深淵舞鶴の瀞に舟を浮かべて探勝、往復三六丁、貸船三十餘綬」(「定山渓ホテルご案内」より)

 

 定山渓の白糸の滝近く、玉川橋の下流にはかつて、貸船や屋形船の見られる行楽地がありました。それまでは錦渓谷として深い峡谷に春のつつじ、秋の紅葉で彩られた荒々しい景色を、錦橋より見下ろすことのできた景勝地だったのですが、大正一五年に一の沢発電所とともに完成した一の沢ダムによって、その深い渓谷は満々と水を湛えて、それまでの荒々しい景色はダム湖の底へ沈んだのです。しかしその代わり、静かな湖水にどこからともなく鶴が舞い降りてくるかのような風情から、「舞鶴の瀞」と呼ばれるようになりました。直上に緑橋と呼ばれる吊り橋が架けられ、新しい景勝地となったのです。

 

 「舞鶴の瀞」がはじまるあたりに玉川橋という木橋が白糸の滝のたもとに架けられますが、当初は木の板を並べただけの簡素な造りだったようです。舟遊びの玉川聚楽園(たまがわしゅうらくえん)が営業を始めるのとどちらが先だったのかはわかりませんが、この当時、豊平川の対岸で貸船の商売を始めた「玉川さん」が自ら橋を架け、名を冠したのかもしれません。

 玉川の舟遊びとしてたちまち有名となり、昭和四年に定山渓鉄道が電化されて所要時間が短くなって、定山渓温泉への日帰り行楽ができるようになると、たくさんの人たちが訪れるようになります。そのため、白糸の滝の真上に昭和八年に停留場が設けらます。白糸の滝停留場です。駅から定山園の脇の急坂を下れば玉川橋、渡ればすぐに船の乗り場と便利になりました。

 

 しかし、次第に戦争の影が近づき世情が緊迫してくると、次第にその賑わいも消えていきます。やがて訪れる人もいなくなった玉川聚楽園は、いつの間にか姿を消し、舞鶴の瀞に舟の浮かぶ風景はすっかり見られなくなってしまったのです。

 消えたのは船だけではありません。川の中に鎮座するその姿から、明治のころより「和尚岩」と呼ばれていた奇岩が、舞鶴の瀞の中央にありました。この岩も、年に数度訪れる大水によって次第に削り取られ、玉川聚楽園が消えるころにはその姿を没してしまったそうです。

 

 それから半世紀以上を経た現在。

 舞鶴の瀞は長年の堆砂によって底が浅くなってしまいました。「和尚岩」がかつて鎮座していた場所は川の中央だったはずですが、今では岸から石原が広がっているだけ。川幅も狭くなり、玉川聚楽園の屋形船で舟遊びといった風情はすっかり消えてしまいましたが、今では夏のシーズンになると、屋形船ではなくカラフルなカヌーを浮かべて楽しむ人たちの姿が多く見られるようになりました。

 

 

※写真は、左上は昭和初期の舞鶴の瀞の情景。中央の岩が「和尚岩」。向うに見える吊り橋の緑橋より眺めると、お坊さんが読経している姿に見えることから名づけられたという。この姿を、定山坊の姿に重ねて見る人もあったに違いない。右は現在の様子。堆砂によって底が浅くなった。下写真は、川岸より上流、玉川橋を望む。向こう側に近年新設された水道用取水堰が見える。

 

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