定山渓鉄道資料集
【定山渓鉄道沿線百話 その九〇 「吉田初三郎」】
一目見るなり目が離せなくなってしまう、独特なタッチと色彩表現で描かれた鳥瞰図。隅々まで細かく描きこまれ、眺めているとついつい時間を忘れてしまいます。大正から昭和にかけて、大衆芸術家として活躍した吉田初三郎氏が生涯手がけた全国各地の鳥瞰図は、戦前の昭和一一年ころには軽く一〇〇〇点を超え、世に出た印刷部数は二〇〇〇万部を超えると言われていました。
明治一七年、京都生まれ。一八歳のころに京都三越の友禅図案部に勤め始めたのをきっかけに、二〇代は絵の勉強に専念し、京都美術院の鹿子木孟郎(かのこぎたけしろう)画伯に入門。日本画家を目指していながらも初三郎の技量と先見性を見抜いた画伯は、自身が持ち帰ったパリ市街の鳥瞰図を示し、これを応用した地図の作成など商業美術家になることを初三郎に勧めます。
大きな転機は明治四三年でした。四月一五日に開業した京阪電気会社に、沿線の鳥瞰図を試しに描くことを提案。大正二年に出来上がった図版「京阪電車御案内」は大好評となり、「皇太子(のちの昭和天皇)より綺麗で見やすいとの御嘉賞のお言葉」を聞くに及んで大感激し、終生を絵師として尽くす決意を持った、という逸話が残されています。
京阪の電鉄沿線鳥瞰図からスタートした初三郎の仕事は以後、「耶馬溪御案内」や「京都市全図」「小豆島御案内」など次々と作品を公開します。そして大正六年、鉄道省から鉄道路線図とポスターの仕事を受けると、その活動範囲は関東圏に広がり、さらに全国から注文を受けるようになるのです。
大正八年にジャパンツーリストビューロー(JTB)主催の展覧会への作品出展の機会が得られるとこれが評判となり、さらに大正一〇年には鉄道省の「鉄道旅行案内」が四八版を出版する大人気となって旅行ブームを牽引。こうして全国的にその名が知られた初三郎は、鳥瞰図絵師として日本の第一人者となっていったのです。
北海道へは大正六~七年ごろに来道しています。札幌鉄道局より開道五〇年記念博覧会開催に合わせて北海道交通鳥瞰図の依頼を受けたためだそうですが、この時、北海道各地を回って
調査、さらに樺太まで足を延ばしてスケッチに明け暮れたのだそうです。定山渓鉄道との関係も、もしかするとこのタイミングで築かれていたのかもしれません。
定山渓鉄道は、初三郎に少なくとも二度、鉄道沿線の鳥瞰図作成を依頼しています。ひとつは電化開業後の昭和六年。『定山渓電鉄沿線名所図絵』と呼ばれるもので、全長二三五センチ×五二センチのもの。この年に発行された折本パンフレットにも印刷されました。もうひとつは昭和二五年に描かれた『定山渓鉄道沿線景勝鳥瞰図』と呼ばれるもの。全長一五〇センチ×五〇センチで、『国立公園 定山渓温泉鳥瞰図』として折本印刷され発行しています(オリジナルは株式会社じょうてつ所蔵)。
※写真は、下から『定山渓電鉄沿線名所図絵』(昭和六年作図だが、昭和一一年に「北茨木」「白糸の滝」をシールで追加している)、『国立公園 定山渓温泉鳥瞰図』(昭和二五年作図)、そして、やはり昭和二五年ごろに描かれたと思われる『札幌市観光鳥瞰図』。
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