定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その八六

 「豊平駅前横断歩道橋」】

 

 平成一七年に、再開発のため高層マンションへ姿を変えた豊平駅舎と(株)じょうてつ本社。札幌市電豊平線の豊平駅前停留所引き込み線だった駅舎前のスペースは、その空間を保って駅前広場の面影を残していましたが、近年の再整備によって見える景色は大幅に変わってしまいました。

 豊平駅舎と(株)じょうてつ本社社屋が解体されてちょうど一〇年後の平成二七年には、ある意味で「豊平駅前」を示す最後のランドマークだった「豊平駅前横断歩道橋」が撤去され消滅。この場所で豊平駅の存在を示すものは、広場の歩道にひっそりと置かれた「とよひらふるさと再発見」の「市電終点豊平駅前跡」の碑だけとなってしまいました。

 

 明治開拓期に拓かれた札幌越本道からの歴史を持つ現国道三六号線は、特に大正期以降、豊平橋が札幌本府の玄関口となることから流通の拠点、商圏としての豊平の発展を支えた重要な道路でした。月寒連隊の軍馬や荷馬車が往来する街道筋には、蹄鉄屋や馬具店が米穀荒物などの商店とともに軒を並べ、定山渓へ続く平岸街道まで続いていました。平岸街道よりも先で街道と交差する定山渓鉄道の踏切周辺は、電化開業した昭和四年以降にこの街道筋へ駅舎が移転したことから、次第に繁華街はそれまでの平岸街道付近から豊平駅前へと移っていきます。札幌電気軌道時代に平岸街道まで通じていた路面電車は昭和二年に札幌市に買収され市電となりますが、同じ年に沿線住民から出された要望を受ける形で豊平駅前まで単線で延長。戦前には豊平駅前には旅館や食堂、理容店、娯楽店舗なども見え始めて、賑やかなターミナルへとその風情を整えていったのです。

 ところが、豊平橋~平岸街道(当時の幅員約一八メートル)までとは違って豊平駅前までの道路は狭く(最大で約一二メートル)、単線とはいえ馬車に混ざっての運行はあまり安全とは言えず、戦後になってクルマの往来が急速に増えてくると交通事故が多発するようになります。そうした中、昭和二七年ごろになってようやく、平岸街道~豊平駅前間の道路拡幅と市電の複線化が具体化。翌年より工事は始まりますが、これはむしろ街道筋の地元民が自主的に協力し合ったことにより実現を早めた、と言われています。この時すでにクルマの一日あたり通過台数は四〇〇〇台を越えており、地元民の危機感は非常に高かったことが想像できます。

 一方で、単線時代は道路上に設けられていた市電豊平駅前停留所は、道路拡幅以前の昭和二五年に豊平駅前の広場へ引き込み線が設けられたのを機にそちらへ移転します。ところが定山渓鉄道豊平駅利用の際の、乗り降りをする人たちやその送迎車などで混雑するので、元の道路上へ戻すべきとの請願が後になって出されるなど、この市電停留所の位置を巡っては賛否両論がぶつかっていました。なお、この時の請願は退けられています。

 昭和三二年に平岸街道と豊平駅前との道路が二五メートル幅での拡幅が完了、同時に平岸街道~豊平駅前間の市電複線化も完了すると、昭和四一年には再び道路上へ停留所が移転することになります。このころには国道の交通量は拡幅前の一〇倍ほどに膨れ上がっていました。そのため国道を横切る定山渓鉄道の踏切での交通渋滞が常態化し、さらにその渋滞が引き込み線からの市電運行にとっては障害になるため、との判断からでした。となると市電利用者は道路を横断しなければならなくなります。つまり、市電利用者の安全確保が大きな理由として、道路中央部で市電停留所に接続する階段を設けた全国的にも珍しい横断歩道が誕生することになったのです。

 

 この「豊平駅前横断歩道橋」は昭和四二年三月に竣工、北海道内ではもっとも古い歩道橋のひとつと言われていました。定山渓鉄道の廃止、市電豊平線の廃止などを経ながらなお生き続けて、その名に定山渓鉄道の名残をとどめていたのですが、残念ながら老朽化のため平成二七年一一月に解体されその姿を消しました。

 

 

 

※写真は中央および左が豊平駅前歩道橋全体と銘板。中央下は、アスファルトから顔をのぞかす引き込み線時代の軌道敷きコンクリートタイル。今は再舗装のため見えなくなった。右上は市電豊平線豊平駅前電停(札幌公文書館所蔵)。右下が「市電終点豊平駅前跡」の碑。豊平駅舎も歩道橋もなくなった今、定山渓鉄道の存在を示すものはこの碑だけになった。

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

 

ⒸhiDeki (hideki kubo) 2014           Contact : st-pad@digi-pad.jp