定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その八四  「一枚の古地図から」】

 

 これは、『札幌支庁管内図』から札幌~定山渓周辺を抜粋したものです。大正四年四月二五日に発行された手書きによる地図で、陸地測量部の地形図と違い表現方法にはいささか正確性に乏しい感があります。しかし「編者」によれば、「管内における開拓は進捗しつつあるけれどもその実態を記した資料が全くないのは不便極まりなく、そこで実地調査を行ってその事業現況をこの地図にまとめ、拓殖事業者の便益に供したい」という思いから作成した旨が説明されており、当時としては札幌支庁管内の土地利用状況を俯瞰するもっとも詳しい地図であったと思われます。

 

 この地図を眺めていると興味深い点がたくさんあるのですが、ここで注目したいのは「鐡道未成線」として破線で描かれた、白石より定山渓へ至る路線。

 図面上部の鉄道院線の途中に「志ろい志」と書かれた駅が見つけられ、ここより右方へ二本の破線が別れています。そのまま右へ伸びるものはおそらく鉄道院が計画していた「白石~追分間の鉄道」の計画路線と思われますが、これは実現していません。そして下方へ伸びるもうひとつの破線(緑線)を辿っていくと定山渓へ行きつくため、これは明らかに定山渓鉄道(の予定線)を描いたものであることは間違いないでしょう。しかし、過去に定山渓鉄道の沿革を紹介した記事は数多くありますが、この地図のルートを取り上げた例は見かけたことがありませんので、あまりよく知られてはいないようです。ではこの地図に描かれた定山渓鉄道「未成線」について考察してみます。

 

 発行が大正四年四月ということなので、少なくとも大正二年の「苗穂起点免許申請」よりも後に計画されていた路線、ということが想像できます。この「苗穂起点」ルートは同年七月に許可が下りるものの、翌月には未曾有の大雨により豊平川が大氾濫。予定の場所での建設が不可能となってしまった経緯があります。そのため、会社では白石駅を起点とする新ルートを急遽検討し、その年度のうちに『定山渓鉄道営業収支・建設費概算書』が作成されています(実際の路線変更届は大正五年五月)。これが認められて鉄道建設がいよいよスタートするわけですが、あらためて地図上の破線と史実(図中の赤線)とを比較すると、明らかに線路の通っている個所が違うことがわかります。ではこの破線の意味するものは何なのでしょうか?

 可能性はふたつ考えられます。ひとつは、そもそも定山渓へ至る鉄道が構想されていたルートであり、この地図が作成される以前からの情報だったこと。そしてふたつ目は、「苗穂起点免許申請」ルートに代わって新たに検討された「白石起点」の代替案…。私は前者の可能性が高い、と考えています。

 

 実際に定山渓と札幌とを結ぶ鉄道の話が初めて持ち上がったのは明治の終わりごろで、そのきっかけとなったは御料林から伐り出される良質な材木の輸送手段でした。必要な線路用地は御料局が無償提供、輸送を手掛ける鉄道会社を民間資本に求めて鉄道院線に直通し、札幌駅へ運ぶという構想が御料局と札幌鉄道局との間で交されたのです。そして鉄道局長より鉄道建設の勧誘を受けたのが時の豊平町長、さらに町長と交流のあった札幌商工会の松田學氏を推薦し、定山渓鉄道株式会社実現へと動いていきました。その意味ではこの話を持ち掛けられた時から町長の頭には「豊平町民に交通の便を図るための鉄道」という目的もあったものと思われます。さらに、松田學氏の談話「札幌停車場を起点とし白石村を経て定山渓に至る延長十八哩(マイル)にて已に実測を了したれば…」という記事が「定山渓線計画」の見出しで大正元年一二月の新聞記事に初めて登場するのですが、この記事は前述の大正二年の「苗穂起点免許申請」より前であることと、この苗穂起点の場合は「十八哩八鎖(チェーン)」であり、その数値に若干の差異があること、札幌~白石間は鉄道院線を含めた上で白石より分岐して豊平町中心地(現在の月寒)を通り定山渓へ至る、という具合に解釈できます。まさにこの地図に描かれた破線に符合し、これが鉄道局長と豊平町長とが検討したそもそものルートであったのではないかと考えられるのです。

 

 では、後者の可能性についてはどうでしょうか。実際に地図の編纂にどのくらいの期間がかけられていたのかは想像するよりほかありませんが、「編者」が広範囲にわたって実際に踏査した上で描画した可能性からすると、年単位の時間がかけられたと考えるのが自然です。「苗穂起点」がとん挫してその後「白石起点」に計画変更されるものの、それが正味わずか一年足らずでこの地図に反映されたとは考え難いと思われます。さらに決定的なのが、先に触れたとおり「白石起点」とした後の経路の違い。地図上をよく見ると未成線は望月寒川沿いに遡って現在の西岡付近の丘陵地を越えて石山へ向かっていますが、

「白石起点」は天神山、真駒内を通過するルートとなっていました。その後、大正五年より実際に鉄道建設が始まると用地買収の不調の度に線路は迂回し、最後の形になったことはご存知の通りです。

 

 定山渓鉄道開業から一世紀が過ぎ、開業以前の鉄道建設構想の歴史が埋もれていたこの古地図のように、他にも隠されたエピソードがまだまだたくさんありそうです。

 

 

※カットは『札幌支庁管内図』抜粋(大正四年・札幌公文書館所蔵)。右下は大正二年に作成された『定山渓鉄道比較線 営業収支 建設費概算書』の一部(北海道立図書館所蔵)。苗穂起点ルートを断念せざるを得なくなったのが八月なので、わずか数か月の間に比較線が検討、計画されたことになる。ここからも、もともとの白石起点ルートが以前から存在していたことが想像できる。

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

 

 

 

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