定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その八三  「幻の平岸駅」】

 

 昭和四四年廃止時の定山渓鉄道には、東札幌を起点として定山渓まで一九の駅がありました。大正七年の開業時は白石共同駅を出ると豊平、石切山、藤ノ沢、簾舞、そして定山渓と六つだけでしたが、その二年後に真駒内種畜場の利便のために真駒内停留場が設けられたのをきっかけに、列車交換のための滝ノ沢停車場(大正一三年)、発電所職員のための一ノ沢停留場(大正一五年)、木材積み出しの土場があった錦橋停車場(昭和三年)と数を増やしていきます。特に昭和四年の電化後は、沿線人口の増加とともに続々と停留場が設けられました。

 近隣に学校が開校したため=慈恵学園、病院の利便のため=北茨木、東簾舞、温泉客のため=白糸の滝、小金湯、行楽で人気の高かった十五島公園への利便のため=十五島公園、そして沿線住民の要望、利便のため=豊滝、下藤野、緑ヶ丘。

 

 駅順を念頭に沿線住民の要望という点に着目すると、実はある疑問に気づくかもしれません。豊平の次は澄川(北茨木)ですが、この間には明治開拓期より入植が早かった歴史を持つ平岸地区があるのです。廃止時の駅間距離をみると、東札幌~定山渓間二七.二キロ中、実は豊平~澄川(北茨木)間がもっとも長く、その距離は三.七キロになります。歴史的にも開拓時代には早くから入植者が入った中心地だったはずなのに、なぜここには駅が設けられなかったのでしょうか?

 

 豊平村、月寒村との合併前、平岸村中心地であるこの場所は、明治四年五月に始まる仙台伊達水沢藩六二戸の団体移民による開拓が、その礎になります。その後続々と入植者が入り、畑に適した土壌ではなかったことから亜麻の栽培や果樹栽培を行う人々が増えていきます。果樹は梨や葡萄、スモモなど幾種も植えられたそうですが、気候が合致して本格的に栽培が広まったのは林檎でした。良質な林檎の収穫が定着した明治中期以降は、大正、昭和を通じて「平岸りんご」の名を広めるほどの名産地となっていったのです。つまりは鉄道が開通する以前から一大農村地帯としての人々の暮らしが脈々と続いていたわけです。

 やがて時を経て、戦後から昭和三〇年代にかけては林檎畑や水田が次々と姿を消して宅地化されていきます。沿線人口も飛躍的に増えていったものの、電車はその移り変わりを横目で見ながら、廃止となるまでの五一年間を素通りし続けていたことになります。

 さて、駅が設けられなかった謎のヒントは、地図上に描かれた線路の形にありました。当時の地図を開くと線路は、豊平を出たあと南進し、その後平岸街道(現平岸通)を避けるようにして大きく迂回しながら進みます。天神山へ近づくあたりから街道筋へ寄って澄川停車場へと続くのですが、鉄道建設時、実はこの平岸周辺では沿線の果樹農家を含む三二戸の代表者による、壮絶な建設反対運動が繰り広げられました。まさに建設が始められようとしていた大正五年の七月から八月にかけてのこと。きっかけは、白石から月寒を通る当初の計画路線が、月寒坂下での用地買収の不調のため断念せざるを得なくなり、豊平経由、平岸地区を通過する路線に変更したため。「(線路を)平岸村唯一の果樹圃内を横断することに変更せり爲めに果樹の煙毒被害鮮少ならず延いて一村の死活問題たり…」、というのがその理由でした。反対住民からの定山渓鉄道株式会社への再三にわたる抗議は熾烈を極め、札幌の警察署、道庁長官への陳情にまで発展していたことが当時の新聞記事から伺えます。結局のところは反対運動を会社側が押し切る形で迂回ルートの測量が強行され、地図の通り「林檎圃内を横断」することを避けて、果樹園に隣接する東側の水田との境界に線路が敷かれることとなったのです。

 大正時代の建設前の大反対運動が、昭和の、しかも戦後にまで影響を及ぼしているとは考えにくいものの、最後まで平岸に駅が設けられなかった裏側にはやはり、こうした因縁の歴史が引き継がれていたからと考えずにはいられません。当時、入植者の絶対数から言えば平岸よりも少なかったと思われる澄川に、用地の提供を受けて北茨木停留場(のち澄川)が開業したこととは対照的です。

 

 では、平岸に駅を誘致しようとした運動がまったくなかったかというと、実はそうでもなさそうです。そのひとつが、豊平町における都市計画の一環として、定山渓鉄道「平岸駅」を中心とした街づくりが計画されていたと思われる記録。豊平町史によれば、戦後の疎開入植などから人口増が進んで道路開削や宅地化が無秩序に行われることへの危機感から、昭和二八年ごろより具体的に都市計画を進めていました。豊平町の市街化地域が描かれたその図面をよく見ると、定山渓鉄道線のすぐそばには「駅」の表記はないものの広い空間を中心に平岸街道へ向かって延びる放射状の区画が認められます。明らかに駅を意識しているように思えます。しかし、この”平岸駅を中心とした”であろう街づくり計画は結局、実現を見ないまま消えてしまいました。その理由も今となっては想像するしかありません

が、都市計画進行中のタイミングで本決まりとなった札幌市との合併により、札幌市が検討を続けていた都市交通網計画、都市街路計画に豊平町域が含まれたこととは、おそらく無関係ではないと思います。

 計画図にある「駅」と思われる場所は、現在の豊平区平岸三条と四条、九丁目と一〇丁目の交差点付近にあり、その中心を環状通が貫いています。

 

※カットは、左地図が昭和二四年ごろの地形図抜粋で赤色が果樹畑、緑色が水田を表す。平岸街道に沿って見える青い点は建物を示しており、澄川駅周辺に比べると鉄道開通前から集落を形成していたことがわかる。右地図は「豊平町都市計画図」(豊平町史より抜粋)。鉄道線の途中丸く囲った区域が「平岸駅」予定地だったと思われる場所。下左カットはその現在の様子。環状通が貫き地下鉄南北線が地下を横切って、この先(右方)で高架になる。下右カットは地表へせり上がってきた南北線のスノーシェルター。

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

 

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