定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その八

       「定山渓鉄道の橋梁」】

 

 豊平川には大小たくさんの沢が流れ込んでおり、定山渓鉄道もこれらの沢を渡るためにたくさんの橋梁が設けられました。『橋梁表』という記録に残される橋の数は一三ありますが、これ以外に幅が一メートルに満たない沢などを渡るための拱橋(こう橋)なども数多く作られています。今回は橋の話を…。

 

 東札幌~定山渓間の橋梁の数は二三。そのうち、橋が一〇、橋梁が一三(うち跨線通路橋が一)

橋台および橋脚の種別は煉瓦積およびコンクリート。

 

 ところで拱橋とは、線路が水路を渡る際にトンネル状の構造物によってこれを渡る橋のことで、定山渓鉄道では穴の沢川が軟石と煉瓦積による半円拱、盤の沢川が煉瓦積とコンクリートの半円拱が用いられました。沢から見るとアーチ橋のような造形であることが特徴。それ以外の沢はコルゲート管(軸方向に波型成形された管)が線路下に埋められているケースが多数あり、滝の沢停車場近くの中の沢川溝橋は径間三.六六メートルで最大のものです。ここは現在、路盤部分が崩落しかけているものの、コンクリート部分はまだ当時のままの姿で見ることができます。

 

 鋼鈑桁を用いた橋梁ではもっとも長いのが真駒内川で全長三九.二八メートル。次いで一の沢の二四.三八メートル、簾舞川の二一.三四メートルと続きます。ただし、真駒内川橋梁は複数の桁を連ねた橋で、一本の桁の長さでは一の沢橋梁が最長となります。また一の沢は橋の高さでも一番で、昭和初期の写真を見るとおおよそ二〇メートル以上はあったのではないかと思われます。

 

 鋼鈑桁を用いた橋梁でもっとも短いのは精進川橋梁で、二.一六メートル。札幌市営地下鉄南北線自衛隊前駅の真駒内側に流れている現在の精進川の川幅は、今見るとかなり広くなっていますが、これは鉄道廃止後の河川改修によるもの。同様な例は藤の沢停車場手前の丸重吾川橋梁(四.五七メートル)、下藤野停留所手前の野の沢川橋梁(三.六六メートル)にあり、どちらも廃止後に河川改修によって直線拡幅化され、煉瓦積の橋台は撤去されてしまいました。

 橋梁のくくりにはなっているものの、ちょっと特別なのが「石山跨線道路橋」。これは通称石山陸橋と呼ばれる場所。路線中、唯一道路が立体交差していた場所になりますが、最初からこの形だったわけではありません。

 真駒内川を背に細長い尾根状の地形だったここは、眼下に豊平川を望むところからかつて望豊台と呼ばれ、開拓使によって石山の軟石を運び出すために造られた道路が明治時代より存在していました。鉄道建設においては高低差からこれを超えることができず、真駒内川を渡ってすぐの、この道路の下に小さなトンネルを掘り線路を敷きました。そのため開業当時は陸橋ではなく”石山小隧道”と呼ばれ、開通当初は断面も馬蹄形でした。

 時期やいきさつの正確なところは不明ですが、その後ここは切通しとなり道路の方に橋が架けられ、石山陸橋となったわけです。おそらく昭和四年の電化に際し、架線を設置するために高さが必要となることから改良されたのではないかと想像しています。

 ちなみにこの跨線道路橋の長さ(道路から見れば幅員になる)は四.八メートル。壁はコンクリート製で、道路橋は鋼製の桁で渡されていました。廃止後しばらくたってから、さらに石山陸橋をまたぐための高架道路橋が造られたためこの桁を直接目にすることはできなくなりました。現在、線路跡地に沿って真駒内方向への一車線道路が設けられていますが、先の理由から大幅に拡幅改良されたためトンネル全長が長くなっています。

 

 現在、消滅しつつある定山渓鉄道の面影の中で、当時のままの姿で残されている煉瓦積橋台がいくつかあります。そのひとつは鱒の沢川橋梁。八険山トンネルから小金湯温泉へ通じる市道の、滝の沢停車場跡を過ぎて二〇〇メートルほどのところにある小金湯東橋から見下ろすと目にすることができます。地元の有志が保存管理しているのだそうです。一方でなかなか近づくことができないのが一の沢川橋梁とそれに続く一の沢鉄管横断橋。ここはかつて一の沢発電所が置かれていたところで、鉄管横断橋とは発電用の送水管をまたぐために造られた橋。背の低い煉瓦積の橋台が今も林の中に残されています。(国道拡幅工事と周辺の再開発により、現在は容易に観察することが可能になりました)

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

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