定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その七九

         「北海道初の〇〇」 その一】

 

 蝦夷地が北海道と名付けられたのは明治二年。定山渓鉄道が開業して一番列車が走ったのは大正七年一〇月一七日。奇しくもこの年は北海道誕生から五〇年を迎え、札幌の市街地には馬車に代わって路面電車が登場。中島公園を中心に開道五〇周年を記念する大博覧会が行われました。以後、札幌の経済や交通の発展が加速し、定山渓鉄道もまた材木輸送、豊羽鉱山の鉱石運搬、そして定山渓温泉湯治客の輸送に活躍、沿線の発展にも大きく関わっていきました。

 

 定山渓鉄道が走った約半世紀の中では、他の鉄道では前例がない、と言われているトピックがいくつかありました。今回は定山渓鉄道の持つ「北海道初の〇〇」について少々触れてみたいと思います。

 

 まず今回は、定鉄電車は「北海道初の電車?」について。

 定山渓鉄道は昭和四年一〇月に全線電化を完了して電車運転が始められ、当時の観光パンフレットなどに「北海道初の電車」といったフレーズが登場しています。

 電車という大雑把なくくりで見ると、定山渓鉄道が開通した大正七年一〇月の時点ではすでに、札幌電気軌道が二四両の路面電車を走らせていましたし、全線電化の前後では、わずか一年足らずしか電車を走らせていない札幌温泉軌道という、今となっては知る人も少ない短命な路線がありました。北海道全体を見ても、登別温泉軌道が大正一四年に電化営業を始めていましたし、旭川電気軌道は昭和二年に旭川四条から東川の間で順次路線を延ばしながら電車運転を開始。昭和四年一月には洞爺湖温泉軌道が虻田から洞爺湖温泉までの間で電車を走らせ、さらに同じ月には大沼電鉄が大沼と鹿部の間で電車運転を始めていました。定山渓鉄道が電車を走らせる前にすでに少なくともこれだけの電車路線が存在していたわけです。そういう意味では定山渓鉄道の全線電化を指して「北海道初の電車」と呼ぶには多少、誇大広告っぽい印象がぬぐえません。が、所要時間がそれまでの約半分になり、本数も増えて定山渓温泉が日帰り可能となったことから定山渓温泉への観光客はそれまでと比べて飛躍的に増大。また温泉客のみならず電車目当ての客もたくさん訪れたということですから、当時としては「北海道初の電

車」と言っても疑問に思う人は少なくなかったのかもしれません。

 さて、定山渓鉄道に先んじて走っていたそれぞれの電気鉄道および軌道ですが、比べてみるとその仕様に大きな相違点がありました。いずれも電圧が六〇〇ボルトで集電方式はサオのようなポールによるもの。車両も最大一〇メートル程度の二軸固定車で、定員も多くて五〇名前後と現在のバスよりも小さい車両。定山渓鉄道について見ると、電圧は首都圏で普及し始めていた一五〇〇ボルトと高圧で、開通時の車両(モ100形)は大型のパンタグラフを持つ一六メートル級定員一〇〇人の二軸ボギー車。そして、営業キロ数でも旭川電気軌道の約一五.五キロに対して約二七.二キロと長く、少なくともこれらの点では「北海道初」と考えてもよさそうです。つまり、「大型パンタグラフを備えた郊外型電車としては定山渓鉄道の電車が北海道初である」というところでしょうか。

 

 蛇足ですが、北海道一〇〇年記念にあたる昭和四三年八月に小樽~滝川間で営業運転を開始した、国鉄の711系電車も「北海道初の電車」と表現されていた例がありましたが、こちらは「北海道の国鉄としては」という意味合いになります。もっとも登場時、量産型の交流専用電動客車である点において「北海道のみならず国鉄初の」(新幹線を除く)電車、ということでもありました。この点は定山渓鉄道が採用していた直流と相容れないことから苗穂~東札幌間の架線撤去問題に発展し、ディーゼルカーを使った札幌駅乗り入れへの実現につながりました。国鉄が直流を採用していたなら相互乗り入れももう少し実現性があったかもしれませんが、なぜ国鉄が交流を採用したかについては、別の機会にしたいと思います。

 

※写真は上左から「モ100形電動客車(絵葉書)」、上右が「洞爺湖温泉軌道湖畔駅(絵葉書)」、中段左が「大正7年大博覧会時の札幌駅前通を走る路面電車(北海道大博覧会写真帖)」、中段右が「登別温泉軌道(絵葉書)」、下段が「開道50年記念大博覧会第一会場正門(北海道大博覧会写真帖)」

 

 

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