定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その七八  「右運転台」】

 

 定山渓鉄道の特色のひとつとして、蒸気機関車に始まり客車、貨車はもちろんのこと、電動客車、ディーゼルや電気機関車、そしてディーゼルカーと多種多様な種類の車両が線路上を走っていた点があげられます。戦後の一時期、真駒内からキャンプ・クロフォードまで敷かれた占領軍専用線時代に走った車両を含めると、元北海道鉄道(旧千歳線)の苫小牧~苗穂間を走っていたガソリンカーがこれに加わって、もはやこの線路上を走らなかったのは蒸気動力の客貨車だけ、といっても過言ではないと思われます。

 そしてもうひとつの特色が、電動客車の登場以降に導入された客車車両と電気機関車の運転台は右側にあった、ということでした。

 

 現在、道内に関しては路面電車を除く鉄道車両において右運転台の車両を営業運転している鉄道会社は存在しません。JRはもちろん、札幌市営地下鉄も運転席は車両前部左側に置かれています。そして全国的に見ても右運転台の電車は、名古屋市営地下鉄、仙台市営地下鉄の一部路線など、そして首都圏でも都営大江戸線に例がある程度で非常に少数派です。『北海道の私鉄車両』(澤内一晃・星良助著 北海道新聞社刊)の「定山渓鉄道」の項にも、「定山渓鉄道の車両は右側運転台であったことが特徴の一つだが、このことは電車や気動車の再就職にマイナスに働くことにつながっている」と指摘されていました。結果論ですが、比較的車齢の若かったキハ7000形などは鉄道廃止と同時に廃車となりました。元運転士の証言として「国鉄の運転士には非常に評判が良かった」というこの車両、もし左運転台であれば他の鉄道に引き受け手があった可能性は確かにありそうなものです。では、鉄道会社の大勢が左運転台であるのに、なぜ定山渓鉄道は右運転台だったのでしょう?

 

 そもそも、多くの鉄道が左側に運転台を設ける理由は、という点で少々調べてみると、

「日本は左側通行ですから、鉄道信号や標識は左側に置かれます。ですから、左側のほうが効率がいいのです」

「日本の鉄道はイギリスからシステムや車両を導入、これにならって終端駅や対向列車が行き違いする駅では複線以上の進路を設け、進行方向左側に乗降用プラットホームを設置するのを標準とする と定めました」

「もし運転席が右側にあると、電車同士がすれ違うとき、運転士は対向車両を至近距離に見ることになります。かなりのスピードで走ってくる対向車両が間近に迫れば、運転士の受けるプレッシャーは小さくありません。視覚的にも疲れます。運転手にとっては、大きな負担になります」

 などなど、さまざまな説が出てきます。見方を変えて定山渓鉄道がなぜ右側なのか、を念頭にこれらの説を考えてみます。

 

 まず最初の「左側に置かれ」るとする「鉄道信号や標識」についてみると、滝ノ沢や簾舞など各閉塞端駅の構内平面図によれば、一部を除いて場内信号機は豊平方(上り列車)に対して左側に設置されていることになっています。しかしキロポスト、勾配標、曲線標などについては同じ豊平方に対してすべて右側に立っていました。したがって、視認性からいえばむしろ「右側の方が効率がいい」ので右運転台にした、ということがいえるかもしれません。もっとも定山渓方の場合はそれらの標識は当然左側になるので、今一つ説得力はありませんね。そもそも標識設置と右運転台決定の前後関係が曖昧なので、これは判断しかねるところです。

 次の「イギリスからシステムや車両を導入~」の歴史説では「進行方向左側に乗降用プラットホームを設置するのを標準とする」ということですが、伝統的に蒸気機関車の場合は左側に機関士、右側に機関助士が配置されることから、タブレットやスタフの交換が機関士と駅長相互に行われることを前提としたものと見ることもできます。この点でいえば、電化後の定山渓鉄道は中間の真駒内、石切山、藤ノ沢、簾舞といった閉塞端駅はすべて島ホームなので、上下線とも進行方向に対してホームは列車の右側に着くことになります。つまり、この説でいうところの「標準」に真っ向から背を向けていることにはなりますが、要は、右運転台にした方が列車交換が迅速に効率よく行える、ということになります。ただしこの場合、電化後もかなりの期間は蒸気機関車が貨物列車をけん引していたので、右運転台の理由としてはやはり説得力に欠ける説かと思います。

 最後の説「プレッシャー」について考えるなら、単線なのでその心配がないから右で(?)、という可能性が思いつくでしょうか(これは蛇足ですね)。

 

 全長五キロに満たない関東鉄道龍ヶ崎線では、途中駅ひとつを含む三駅すべてが龍ヶ崎向きに対して右側ホームであるため、龍ヶ崎方の運転台は右側に設置改造されています。つまり逆向きは左側に運転台があるわけです。これは極端な例ですが、その路線の事情に合わせて効率化を図るのは当然のことと考えられます。同様に、定山渓方の下り列車の場合、閉塞端駅はすべて列車の右側がホームとなる島ホームであったことが定山渓鉄道の特殊事情と捉えるならば、電化計画の当初より右運転台とする方針が、すでに決まっていたと考えるのが自然だと思うのです。

 最後に補足ですが、昭和四年の電化開業時に入線したモ100形は、左運転台で入線していたことが当時の車両竣工図や写真からわかっています。昭和六年に新造されたモ200形では

竣工図で明らかに右側に運転台が記されていることから、これ以降、右運転台化が進められたと思われます。

 

※《参考 各駅の線路に対するホーム位置》

注・進行方向は上り列車(東札幌方)を基準とし、昭和四四年の廃止直前時のもの。棒線(ホームが片側一本のみ)駅のホームは下り列車(定山渓方)の場合は反対側になります。

 

定山渓=右側(棒線)

白糸の滝=右側(棒線)

錦橋=左側(棒線。電化直後は島ホームで右側だった)

一の沢=右側(棒線)

小金湯=右側(棒線)

滝ノ沢=右側(島式ホーム)

豊滝=右側(棒線)

簾舞=右側(大正七年開業時より島式ホーム)

東簾舞=右側(棒線)

下藤野=右側(棒線)

十五島公園=左側(棒線)

藤の沢=右側(大正七年開業時より島式ホーム)

石切山=右側(島式ホーム。電化時に移転したため開業当初は不明)

緑ヶ丘=左側(棒線)

真駒内=右側(島式ホーム。開駅当初は棒線。向きは不明)

慈恵学園=右側(棒線)

澄川=左側(棒線。電化後島式ホームだった時代がある)

豊平=左側(対向式。大正七年開業時は島式ホーム)

東札幌=右側(島式ホーム。ただし、東札幌駅一、二番ホームは貨物列車も含め上下混合使用のケースが認められる)

 

 

※カットは、左上が真駒内停車場ホームで、タブレットキャッチャーが手前に写っている。左下が真駒内停車場手前にあった場内信号機。向こうが豊平方(いずれもサカ写真館所蔵)。右は札幌駅を出る定山渓行キハ7003。右運転台であることがはっきりわかるカット(札幌公文書館所蔵)。

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

 

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