定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その七四  「モハ2300」】

 

 大正七年一〇月一七日の開業、そして昭和四年一〇月二五日の全線電化。以後は、新造、移籍、改造などを通してさまざまな形式の電動客車が登場してきたのですが、この二両のモハ2300形は、定山渓鉄道では最後に登場した電車となりました。

 昭和三〇年代ともなると札幌の人口増加に比例するように沿線のベッドタウン化の兆しが見え始め、宅地開発が進んで沿線人口が増えてきます。定山渓鉄道が斡旋して開校した澄川の慈恵学園や藤ノ沢女子高等学校が開校すると、定山渓への観光客を対象にしたロマンスカー(クロ一一一〇形+モロ一一〇〇形)では運用効率が悪くなるので、通勤通学客向け仕様の電車導入の計画へと流れます。実際には戦後の動力近代化にともなって新造したモ八〇〇形が二両、東急傘下となった後には旧国鉄の戦災復興電車がベースだったモハ二二〇〇形三両のロングシート三ドア車がすでに導入されていますが、特に後者は古参の中古ということもあり、社内設備に使いづらさがあったというところでしょうか。

 一方で定山渓鉄道の電車部門における営業成績は昭和三五~三六年をピークとして、以後は急激に下降の一途をたどってゆきます。沿線の宅地化はマイカーブームとともに並行する国道二三〇号線の整備をも求め、皮肉なことにバス路線の拡充へとつながっていったのです。しかし、道路の渋滞が顕著になってくるとやはり鉄道のメリットが活きてくる局面も出てくるわけで、この新型車導入には会社の存亡がかかっていた、のかもしれません。とはいえ、すでに設備投資がそもそも難しい経営状態ではあったので、必要最低限の仕様、思い切った経済性の追求を念頭に置いた増備とならざるを得ませんでした。

 その結果、新しく設計された定山渓鉄道版の超経済車は、首都圏の通勤電車の如く直線的でスパッと切り落とした妻板を持つ、当時としては斬新なデザインだったのではないでしょうか。貫通型の両運転台、対候性の高いハイテンション鋼の骨組みを用い、一ミリ厚の外板をコルゲートしたものを側板窓下に配置した一見ステンレス車風で、東急七〇〇〇系に似たデザインを持つ電車となります。製造は、系列会社でもある東急車両でした。熱線吸収ガラスを使用し、今までにない大型の側窓を持たせて、採光性は従来の電車よりも良く開放的にはなったのですが、これが開けることのできない固定窓だったことからデ

ビュー後に大きな問題となります。これも製作費を抑える理由のひとつだったのですが、北海道とはいえ真夏の密室も大型のファンデリアだけでは到底冷やすことなどできず、気分を悪くする乗客が後を絶たなかったそうです。もっとも、デビュー当初から「なお室内二ヶ所に気分の悪くなった人のための嘔吐袋が準備されております。」とわざわざパンフレットに書かれている通りで、設計時からある程度予測はされていた事態だったことになります。

 さて、超経済車の所以たる大きな理由がもうひとつありました。それは、この二両が実は戦前に導入されていたモ201、モ301の、それぞれの台車と電気関係、制御器関係をそのまま流用しているところ。つまり、床から上の客室部分だけを共通化し、「走る」部分は旧車のままの改造だったわけです。したがって、モ100形を基準に作られたモ201と、旧国電がベースだったモ301とでは車輪の径から電動機出力、重さに至るまでバラバラという、同形式でありながら動力性能の異なるタイプというチグハグな形式となってしまった訳です。もっとも、乗る方にとっては見える部分はどちらも一緒なので、この当時、そのことを気にかける人はそう多くはなかったとは思いますが…

 問題はあったにせよ、今までの定山渓鉄道の電車群からは一線を画した電車であったことは間違いなく、時の鉄道友の会北海道支部からは、優れた電車に対して与えられるローレル賞が贈られています。

 

 しかしながら、鉄道の方は一向に復活の兆しを見せないまま廃止へと進み、このモハ2300形登場からわずか五年後の昭和四四年一〇月三一日をもって終止符が打たれます。この二両の新造車も、特異な仕様のためか次の引き取り手が現れることもなく廃車、解体されてしまいました。

 

※カットは、豊平駅へ進入するモハ2301とパンフレットの文面、車内。そして掲示されていたローレル賞のプレート。

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

 

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