定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その七二  「小金湯停留場」】

 

 既出の「その一四 小金湯温泉」では小金湯の土地の歴史について触れておりますが、今回は小金湯停留場をご紹介いたします。

 昭和一一年一〇月二〇日に開業。起点より延長二一.九〇キロ。停留場標高は二一八.二メートル。定山渓道路(国道二三〇号線)より温泉街へ下る小路を越えたあたり、河岸段丘の中段の上に設置されました。半径約四〇二メートルの曲線部というあまり条件が良くない場所に四〇メートルの盛土でホームを造り、当初は待合小屋だけの停留場でした。戦後になってからホーム上に二階建ての住宅兼売店が建てられましたが、背中に山の斜面を背負うため、見た目にはいかにも窮屈そうな駅ではありました。

 停留場が設けられた理由はもちろん、昭和に入って湯治場として有名になりつつあった、小金湯温泉への湯治客の便宜を図ったものです。それまで温泉宿へ向かう人々はひとつ手前、滝ノ沢停車場を利用していました。定山渓道路が線路と並行している区間でしたが徒歩でもおよそ一.五キロ、健脚な人なら歩いてもそう苦にはならない距離だったかもしれません。しかし遊興がてらの利用客が多かった定山渓温泉とは違い、ここは火傷や皮膚病によく利くという評判が昔からあったので、その利用客は長期間の湯治治療がほとんどだったそうです。健脚とはいえない湯治客にとっては身の回りの物、あるいは布団を担いでの徒歩移動は難儀だったことでしょう。鱒の沢橋梁付近から急坂があり、しかも馬車道とはいえ雨が降ればぬかるむ道路ではなおさらのことでした。

 

 ここでも開業直後の定山渓同様、停留場の開設によりさっそく温泉旅館の利用客が増えていきます。簾舞ダムの取水堰が大正初期に造られたおかげで、満水時にはナイアガラの滝を思わせる「黄金滝」が生まれ、川下には豊平川の両岸からせり出す大きな岩壁、「屏風岩」が淀みをつくる、定山渓とはまた違った景色を見られる風光明媚な場所でした。贅沢は敵という暗い時代に入りつつあって、定山渓温泉が次第に客足が遠のいてゆく中、湯治に訪れる人の数はそれほど減ることはなかったのではないかと思われます。

 冒頭に触れた通り駅舎を兼ねた住宅兼売店が設けられたのは昭和二一年のことで、駅員配置のためではなく当初から駅の管理の業務委託を前提としたものでした。近隣に住む中谷俊夫氏の家族が会社より委託を受けてここに住み込み、売店も設けたので長く湯治客からも親しまれたそうです。いわば小金湯温泉の玄関口であり社交場でもあったわけです。古くから、夏の土用の丑に温泉に浸かると縁起が良いと言われていたことから、この時には訪れる客も多かったようです。修学旅行でたくさんの学生が訪れることも多々あって、その都度滝ノ沢の駅員らも応援に駆けつけたりしていますが、通常は中谷氏に任されていたわけですから、当時国鉄でも例のない民間業務委託の先駆けであったと思われます。

 

 廃止直後は道路拡幅のため線路築堤部は削られ、駅舎部分はすぐに解体されましたが、ホームと石炭小屋はしばらくは放置されていました。平成に入って、小金湯温泉までの市道整備により停留場付近は大きく造り替えられることとなり、跡地はほぼその面影を消すことになりました。一方で、停留場先の線路跡地は防災工事のため伐採が行われ、以前よりアクセスしやすくなりました。二二キロポストが今でも鉄道の名残をとどめています。

 

 

 カットは、左より廃止から七年後の様子。中上より市道整備によっ停留場付近が変わっていく状況。右は昭和三〇年代の小金湯停留場。

 

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

 

ⒸhiDeki (hideki kubo) 2014           Contact : st-pad@digi-pad.jp