定山渓鉄道資料集
【定山渓鉄道沿線百話 その七二 「二美桜」】
滝ノ沢停車場は大正一三年一月一日より開業した上下列車交換用に設けられた駅でしたが、当初は停留場の扱いでした。大正七年の開業後、年々、定山渓温泉の名が全国的に知られてくると訪れる温泉客が増えてきます。特に、大正一二年に当時の小樽新聞社が一般公募した「北海道三景」で利尻、洞爺湖とともに定山渓温泉が選ばれると人気は沸騰。列車も連日満員だったそうです。しかしながら一日三往復の定期列車に増発が一往復。夏場にはその間に一日一往復の貨物列車が入ることもあり、さらにこの人気で増発の必要性が出てくると途中での列車交換駅が必要と考えられました。そこで、もっとも駅間距離が長かった簾舞から定山渓の間、比較的平坦で地理的条件に恵まれた滝の沢川と鱒の沢川との間に側線を備えた列車交換設備を設けることになったのです。その当時よりホームがあったかどうかはわかりませんが、ちょうど丘の上の方から下って来る本願寺道路=定山渓道路(旧国道二三〇号線)と肩を並べるところにできていたので豊滝の集落も近く、またこの先小金湯温泉までも比較的近かったこともあって要望があれば自由に乗り降りができた、という話も伝えられています。あらためて旅客取り扱いを始めた停車場となったのは昭和4年の全線電化に合わせてのことでした。
滝ノ沢停車場開業後は立派な駅舎が設けられました。初代の駅長であった福井正造氏はその時、二本のソメイヨシノの苗木を定山渓道路にそって、駅舎の並びに植えました。その後も毎年春ごとに淡いピンクの花をたくさんつけて、成長とともに定山渓鉄道を見つめ続けてきたのです。しかし、昭和四四年に定山渓鉄道は廃止に。じっとそのまま最後を見送った二本の桜は、解体されて空き地となった駅舎のそばでひっそりととり残されてしまったままでした。
崩れかけたホームとともに荒れるに任せていた滝の沢停車場構内ですが、その後、平成に入って市道新設工事のためそのほとんどの部分が新しく道路の一部に生まれ変わります。二本の桜はそのまま残されて地元の有志団体より「二美桜(ふたみざくら)」と名付けられました。以後、この団体の献身的な活動によって保護管理が続けられ、定山渓鉄道の証として守られているのです。
気がかりなのは、老化と風害のために枝の数は毎年のようにその数を減らしていること。当然のことながら咲かせる花の数も年々、減る一方となってしまいました。定山渓鉄道の名残を伝える大事な存在ではありますが、残念ながらその姿が見られなくなるのもそれほど先のことではないのかもしれません。
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