定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その七一  「モハ2200」】

 

 昭和四年一〇月の全線電化開業後、定山渓鉄道で活躍した電動客車は付随車、制御車含め延べ一九車種三一両でした。大半は定山渓鉄道が自社で発注した新造電車なのですが、中には他の会社から譲渡されてきた車両も存在していました。昭和六年に増備されたクハ501は大阪電気軌道より。昭和一三年に増備されたモ301は元国鉄のモハ1038。そして北海道鉄道が使用していたガソリンカー二両が昭和二五年に入線。こちらは機関関係を取り外す改造が施されサハ600形として使用開始され、のちにモ100形の更新改造により余剰となった制御器が移植されてクハ600となります。そして、今回ご紹介するのは最後の譲渡車両となった元東急電鉄のモハ2200形三両です。

 

 このモハ2200形電車が入線したのは昭和三三年ですが、その前年に定山渓鉄道株式会社は株の買い占めを受けて東急傘下となっていました。経営陣が維新されてまず力が注がれたのは鉄道沿線開発のための不動産事業でした。まずは下藤野、藤ノ沢、澄川において積極的に宅地開発と分譲を始めます。モハ2200形三両の増車は、これらの施策から将来の通勤客増を見越したものとも言えます。定山渓鉄道としては戦後の近代化第一弾として昭和二五年に新造されたモ800形に次ぐ三ドア車でしたが、これは明らかに通勤客の乗降を意識したもので、特に沿線に誘致した慈恵学園や藤の沢女子高等学校など朝夕の通学時間帯にも重点的に運用されたことが想像できます。

 入線した三両の旧番はそれぞれ東急電鉄デハ3609~3611ですが、実は三両ともその前身は国鉄の戦災電車でした。3609はサハ39019、3610はクハ55059で、3611はモハ30021だったのですが、前二両が新日国工業において、残り一両が汽車会社にて車体新造などの復旧を受けて東急電鉄入りしています。定山渓鉄道に入線するにあたっては運転台の右側への移設のほかさらに、定山渓方の貫通ドア右側に運転台を増設。三両とも両運転台として運用されました。

 ところで流線型スタイルのいわゆる「湘南型」前面二枚窓の高速電車モ1200+クハ1210登場の後とあって、角ばった通勤電車然とした外観に違和感を持った乗客も少なからずいたのではないかと思うのですが、中には、この電車ならではの特徴を知った熱烈なファンも存在していたようです。その理由は車両の定山渓方の車体構造にありました。

 とある、この電車のファンだったという方に話を伺いました。「この電車で定山渓方面へ乗るときは必ず一番前に乗りました。もちろん空いているときは、ですが。ガラスに張り付いて座れるので前方の視界がとても良いのです。途中、子どもが乗ってきたりするとこちらに呼んで座らせてあげます。大喜びですよ。それが楽しくてねぇ」

 つまり、もともと片運転台だった車両を両運転台改造するために、貫通扉右側のロングシートを撤去の上、仕切りを設けて運転台を設置。しかし左側は手を付けずにロングシートが妻板に寄せられたままなので横を向けばすぐに前面窓。ややもすると運転台に座った運転手よりも顔の位置が前方にくるため視界は抜群、という文字通りのパノラマシートだったわけです。

 

※モハ2200形 (モハ2201~2203)

定員=一三〇名

寸法=一七,〇〇〇×二,九九五×四,一一〇

自重=三八t(在籍電動客車の中では最大)

電動機出力=一一一キロワット×四(在籍電動客車の中では最大)

 

 

※カットは、モハ2200形の車両竣工図表と、澄川周辺を定山渓へ向けて走行中の同型電車。

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

 

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