定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その六九

           「定鉄電車最後の一〇年・後編」】

 

 昭和三二年一二月に行われた臨時株主総会において、定山渓鉄道株式会社は正式に東急傘下となります。札幌と定山渓温泉の発展に寄与することを運命づけられ、難産の末に大きな期待をもって生まれた定山渓鉄道は、その後も時代の世相の波に翻弄されながらも成長を続けてきました。会社組織が変化し、急激に都市の近代化へ進む札幌とともにさらなる発展を期待された東急傘下入りですが、この時から、定鉄電車にとっては苦悩に満ちた最後の一〇年の始まりでした。(前編からの続きです)

 

 《水害》

 定山渓鉄道が計画されて最初の敷設免許を得たのは大正二年五月のことでしたが、奇しくもその年の八月に発生した水害により豊平川が決壊。豊平川の左岸に沿って遡るはずだった予定のルートに線路が敷けなくなってしまいます。以来、定山渓鉄道の歴史は水害との戦いの連続と言っても過言ではありませんでした。

 特に簾舞停車場~滝ノ沢停車場間の豊平川の際を走る区間にはいくつもの沢が線路を横切り、雪解け増水などのため路盤の流出が毎年のように繰り返されてきました。そのたびに山側への線路の移設や修復、改良が加えられていったのです。「最後の一〇年間」においては、昭和三七年四月三〇日早朝に発生した豊平川の増水による、板割沢の路盤流失で線路が宙づりになるという事故が発生。さらに、昭和四〇年九月には台風二三号による簾舞川の氾濫により橋脚や桁が流失するなどの大きな被害を受けていたのです。特にこの時は簾舞川に近い七〇戸の住宅が、線路築堤と旧国道との間に流れ込む水で浸水したために、会社の決断でやむなく築堤を取り崩して水を川へ流すという策がとられます。昼夜で復旧作業が続けられましたが、運転再開となったのは翌月のことでした。

 

 《「道警 定鉄軌道廃止勧告」》

 昭和四二年八月二日の新聞記事は、当時の札幌市民に相当なインパクトを与えました。「定山渓鉄道株式会社と道路管理者である開発局、北海道、札幌市に対し『四者協力して軌道廃止を早期実現してほしい』旨の勧告をした」と伝えたのです。勧告とは言え本質的には「要望書」ではあったのですが、すでに当の会社側は鉄道廃止が社内でも議論検討されつつあり、これを受け入れる回答を当局にはしていたはず。運輸省や当の警察

庁からは「一民間企業に対しての勧告は行き過ぎではないか。非常識だ」、と批判的である、との記事も併記されています。

 実は前年に伏線がありました。前述した踏切の件で道路管理者(開発局、道、札幌市)に対して警察側が、九か所にわたる踏切の立体交差化を勧告していました。ところが電車の赤字が大きな問題となってきた昭和三七年八月ごろには会社側より「近い将来廃止の方針」がすでに打ち出されており、以来、水面下ではすでにこの四者間の間で調整がはじめられていました。つまり、道路管理者にとっては将来の無駄な投資になるかもしれない理由でこの勧告をただちに受け入れられる状況になかったのです。さらに会社側にも簡単に廃止に踏み切れない他の事情がありました。それは国鉄の千歳線新線切り替え計画によって札幌駅乗り入れが不可能となるため、その補償問題について国鉄側との話し合いを進めていたためでした。まさにその最中に唐突に出された道警による廃止勧告は一時、この膠着状態を解き早期解決を図るための奇策ともウワサされていたようですが、以後急速に鉄道廃止への動きが加速したのは確かです。

 

 《高速軌道計画》

 定山渓鉄道廃止にもっとも積極的な理由を与えたのは、札幌市の高速軌道計画でした。昭和三九年、急激な都市化と自家用車の普及により札幌市の路面交通はすでにパンク寸前であったことから、路面電車に代わる新たな交通機関を検討するため、「札幌市における将来の都市交通網計画」策定をコンサルタント会社へ依頼。その結果「東西、南北の高速輸送機関を設定し、ゴムタイヤを装着した高速軌道を走らせる」ことが提案されます。これに基づいて同年より「札幌方式」車両による走行試験が開始され、以後、三年間にわたる実験が続けられることとなります。この間、札幌冬季オリンピック開催が決定(昭和四七年二月)したことを受け、当初は昭和五〇年に開業予定だったこの高速軌道計画を前倒し。緊急整備区間として北二四条~真駒内間をオリンピックの前年開業させることが目標となりました。ここで問題となったのが、平岸~真駒内間でした。この計画では同区間は定鉄線上を走行することになるのですが、先に触れたとおり折悪しく定鉄廃止問題が膠着状態にあったことから免許申請に影響してしまいます。つまり「先に営業権を持つ鉄道線にコースを重ねての申請は好ましくない」という理由でした。これにより、まずは北二四条~平岸間に路線を区切って免許申請して建設工事を開始。平岸~真駒内間は定鉄廃止後の用地買収とともに免許申請した上ですみやかに建設に着手されることとなりました。

 このように、先の「道警勧告」に加えて札幌冬季オリンピック開催決定、および札幌市高速軌道の建設開始が定山渓鉄道廃止を決定づけることとなります。

 昭和四三年一一月には線路撤去に伴う補償交渉および平岸~真駒内間の線路用地買収交渉が具体化していきます。そして昭和四四年三月に札幌市との合意を経て、七月の株主総会において廃止を満場一致で議決。同月の廃止申請認可を経て一〇月三一日に定山渓鉄道電車部門はその営業を廃止することが決定するのです。

 

※カットは、右から札幌市との買収交渉を伝える新聞記事(北海道新聞(昭和四四年)。写真中央が道警本部からの「勧告書」と、簾舞川橋梁の水害。左は廃止当日の定山渓駅の様子と、昭和四六年一二に開業した札幌市営地下鉄。

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

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