定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その七

       「大正2年の大洪水」】

 

 大正二年に免許申請した路線では、鉄道院線苗穂駅を起点として豊平川左岸沿いにさかのぼり、石山付近で川を渡ったのち、右岸を定山渓までというルートでした。ところが免許を取得した直後の同年夏に発生した豊平川の氾濫のため予定路線の一部が水没。復旧が遅れたために線路の建設ができなくなってしまいました。

 

 この大正二年八月二七~二八日にかけて発生した大洪水の体験談を語った文献がありましたので、一部ご紹介したいと思います。

 

「大正二年、私が一七歳の夏の日の出来事です。その日八月二六日は、午後から雨模様となり、雨足は次第に強く、激しくなってきました。父は留守、母は所用先の真駒内から渡し船に乗って帰宅し、私と妹の三人で留守番をしていました。夕方から雨はますます烈しくなって、ついに豪雨に変わり、眠っていたところを家にたたきつける濁流の豪音に目を覚まされたのが、午前二時ごろでした。その時はもう下駄などが中庭に浮かぶほどに浸水してきたので、樽を台にして板を敷き、その上に食糧、衣類などを積み重ねて避難の準備をしたのですが、ついに越まで水に浸かるようになって一度は外に出てみましたが、濁流は激しく、その上暗夜のためにどうすることもできず、天井に這い上がり柾屋根を突き破って、ようやく屋上に逃れ出ました。」(郷土史 藻岩下 「未曽有の大洪水の想い出・浦波寿亀氏談による」より引用)

 

 母と妹は隣家の屋根に逃れたもののその後流され、ご本人は家とともに流されて、翌朝、今の南高校裏手の浅瀬に自力で泳ぎ着き、九死に一生を得たそうです。

 被災当時のこの方の住宅は札幌市立南小学校のすぐ北側にありました。地図を見るとよくわかるのですが南三二条から南三八条にかけては藻岩山と豊平川にはさまれた狭い土地で、当時はここに一七戸の住宅と畑があったそうです。それがわずか二日間で二戸とリンゴの木を残して流されてしまったのです。対岸の真駒内でも五〇戸以上の床上浸水、定山渓では稼働したばかりの定山渓発電所と送電設備が被害に遭いました。さらにこの時、先

の浦波氏の母と妹を川の中州で助けようとした上山鼻渡船場(現在の藻岩橋付近)の渡守だった佐藤重蔵という方が亡くなっていたのです。

 ちなみにこの時の災害では下流の豊平橋が落ちたり、函館本線で列車転覆事故があったりと各地で大きな被害が同時に起きていました。

 

 話は戻って定山渓鉄道の当初の予定路線。

 今となっては「ここを走る予定だった」とする明確な資料を得ることは難しいのですが、「豊平川左岸をさかのぼる」わけですから、当然、この大洪水のあった藻岩下も通過するつもりだったと思われます。南三〇条交差点(ミュンヘン大橋へ通じる福住桑園通)より通称軍艦岬、山鼻川から先、藻岩山の南尾根が豊平川にせり出すあたりまでは山と川に挟まれた非常に狭い土地であり、もし仮にこの区間で線路を敷くとなれば、やはり明治四二年に開通していた札幌市街馬車軌道(明治四三年まで札幌石材馬車鉄道)の路線と符号させるのが合理的かもしれません。この時馬鉄は現在の石山通~旧国道ルートを進み、硬石山の下付近(現、石山大橋付近)で川を渡って石山へ通じていました。

 

 「幻の起点駅 苗穂」の項で触れてますが、定山渓鉄道株式会社設立が秒読み状態だった時、馬鉄を開通させた助川貞次郎氏も出資者の中に名を連ねていました。そして、その条件が大通を起点として石山通を南下することでした。もしかすると当初のルート選定にあたっては、この馬鉄路線の存在も大きく関わっていたのかもしれません。

 もし仮に、苗穂を起点として国鉄線を西進、札幌駅から分岐して石山通に入り南下、馬鉄路線に沿って走る定山渓鉄道が開通していたとしたらどうなっていたでしょうか?もしかしたら、江ノ島電鉄のように一部は道路上を走る併用軌道の定山渓鉄道が生まれていたかもしれません。

 

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

 

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