定山渓鉄道資料集
【定山渓鉄道沿線百話 その六九
「定鉄電車最後の一〇年・前編」】
昭和三二年一二月に行われた臨時株主総会において、定山渓鉄道株式会社は正式に東急傘下となります。札幌と定山渓温泉の発展に寄与することを運命づけられ、難産の末に大きな期待をもって生まれた定山渓鉄道は、その後も時代の世相の波に翻弄されながらも成長を続けてきました。会社組織が変化し、急激に都市の近代化へ進む札幌とともにさらなる発展を期待された東急傘下入りですが、この時から、定鉄電車にとっては苦悩に満ちた最後の一〇年の始まりでした。
《宅地開発》
東急傘下となって最初に変わった大きな施策は、不動産事業への展開でした。電車利用者増を目的として昭和三三年より、沿線の藤の沢地区での第一次造成地から分譲を開始。ほとんど時をおかず藻南、川沿、西岡、そして平岸地区へと、続々とその事業を拡大していきます。そのために、すでに字名変更により澄川という住所名に変わっていながら、駅開業時から北茨木停留場の名を使い続けていた駅名も、澄川停留場に改められました。また、その澄川の南側高台には会社が誘致した慈恵学園が移転して昭和三四年四月より開校、通学生の利便のためにもっとも近い場所に慈恵学園停留場を設置。朝夕には通学の女学生たちで賑やかな、温泉客を運ぶいつもの観光電車とは違う光景が見られるようになります。
《バスの台頭》
不動産事業に重心を移したことにより、沿線開発はその後着々と進みます。十五島公園停留場、緑ヶ丘停留場の開設、下藤野停留場の自社分譲地寄りへの移転など、利用客増への対応を整えていきます。その期待通りに輸送実績も上がって、昭和三五年には貨物と合わせて輸送量はピークとなるのですが、それも翌年までのこと。三七年からは徐々に利用客数は減少しはじめます。沿線人口が加速度的に増えていくのと同時に道路の新設や舗装化など整備が進み、路線やダイヤの設定に柔軟なバスが電車利用者を奪っていくこととなったのです。もっとも昭和三〇年代の急速なバス路線の発達は定鉄沿線に限ったことではなく、このころに相次いだ白石町、琴似町と札幌市との合併などがきっかけとなって、都市周辺部とのバス網がどんどん拡充されていった時期でもありました。またさらに、定山渓温泉街にあってもホテル旅館などがこぞって送迎バスを用意するようになり、札幌市街地からホテルへ直接送迎するケースも増えていったために、温泉客の電車利用はその後も減少の一途をたどっていったのです。
《小回りの利くトラック輸送》
一方で貨物輸送の方を見ると、やはり昭和三五年のピーク以降急激に減少していきます。住宅建設ブーム真っ最中にあって建築材の需要は多く、定山渓奥地からの木材の輸送量は多いものの、国道230号線の道路改良工事が終盤を迎えていた昭和三八年ごろにはそのほとんどがトラック輸送へと切り替わったのです。さらに豊羽鉱山も道路の完成と索道の老朽化を機に全面的に鉱石輸送をトラックへ切り替えてしまいました。いちいち積み替える必要があり時間や手間のかかる鉄道よりも、小回りが利いて積み込みや荷卸しの時間的制約が少ないことが、その大きな理由でした。
《踏切》
沿線で進む宅地化に伴って増えていったのが、踏切です。周囲が田畑だったころはその数もまだ少なく「たまに線路に飛び出すのは動物くらい」でした。ところが市街地化が進むと、都市計画に伴って線路をまたぐ幹線道路や生活道路の本数が増えていきます。廃止の直前時点では踏切は最高六六か所を数え、そのうち五五か所は無人で中には警報機も遮断機もなく見通しの悪い箇所も多数、含まれていました。残念なことに踏切事故の件数も次第に増加していきます。例を挙げると、昭和三六年二月には平岸四条三丁目の無人の踏切で自衛隊のトラックと豊平行の上り列車が衝突、トラックが大破する事故がありました。さらにその翌年一一月には平岸四条一五丁目のやはり無人の踏切でトラックが札幌行きの列車と衝突し、六名の死傷者を出す大事故が起きています。どちらも線路が曲線部でかつては畑が広がっていたために見通しに問題はなかったところでした。しかし、宅地化によって線路際まで住宅が迫ってきたために見通しが悪くなり、これらの事故も一時停止をした後の衝突という状況だったのだそうです。当時の運転士からすれば常に事故と隣り合わせの運行が続いていたことになりますが、その後も踏切事故がしばしば起きており、国道三六号線の豊平停車場踏切での大渋滞問題とともに、後の「道警による定鉄廃止勧告」へとつながります。(後編へ続く)
※カットは、右から『藤の沢分譲地リーフレット(昭和四二年)』。写真上段が慈恵学園停留場と定鉄廃止に際して慈恵学園の生徒が書いた寄せ書き。下段左は平岸で起きた踏切事故直後の様子。下段右が改良工事が終わった国道二三〇号線藤の沢付近。その後も通行量が増えて渋滞が恒常化するのだが、人が定鉄電車に戻ることはなかった。
※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。