定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その六八  「五島慶太」】

 

 大正七年一〇月一七日に開業した定山渓鉄道は、それまで豊平川の流送に頼っていた定山渓の森林から切り出される原木輸送、豊羽鉱山より産出された鉱石の輸送、そして次第に札幌の奥座敷として発展しつつあった定山渓温泉への旅客輸送を目的に計画されました。しかしその立ち上がりは決して順調ではありませんでした。免許取得直後に起きた豊平川の氾濫により計画路線の変更を余儀なくされ、さらに用地買収は思うに任せず処々で線路は向きを変える。地方鉄道の宿命ともいえる資金難にあえぎ、まさに「生みの苦しみ」を地で行くもので、最初の免許が認可されてからすでに五年の歳月が過ぎていました。そしてようやく、この日の開業を迎えたわけです。新聞には「沿線各駅にては土地の有志小学児童等列車通過ごとに出迎えして祝意を表するが特に定山渓駅前にて同地有志の建設に係る歓迎門さへあり間断なき花火の音と共に人気沸き各浴場は満員を呈し~」と、開業当日の活況を伝えていました。その時、鉄道院監督局総務課長心得という肩書を持った一人の男が、やはり定山渓鉄道の開業を見届けていました。五島慶太(三六歳)でした。この時から、定山渓鉄道との縁は始まっていたと言えるかもしれません。

 難産の末に走り始めた定山渓鉄道はその後、定山渓が大正一三年に北海タイムスの紙上募集により「北海道三景」に選ばれたことで旅客数が飛躍的に増え、昭和に入ってからの全線電化という大躍進へとつながり順調に成長を遂げていきます。

 一方で、鉄道院監督局という立場から定山渓鉄道の開業を見届けた五島慶太氏は、翌年に鉄道院を退官、紆余曲折の末に大正一一年に目黒鎌田電鉄を創立します。以降、早川徳次(東京地下鉄道)との地下鉄争奪戦を繰り広げて、「強盗慶太」の異名を受けながらも鉄道やバスなどの交通のみならず土地開発や百貨店、映画会社など様々な事業を吸収あるいは再生していきます。その後はご存知の通り、いわゆる大東急時代を築き上げていったのは歴史に明らかとなっていますので、氏についての詳細は他の文献に譲ることとします。

 戦後は「大東急再編成」とともに四年に及ぶ公職追放期間(戦時中の大臣職を理由に)を経て、昭和二九年の息子である五島昇氏の社長昇格ののち自らは一線を退きます。公職追放期

間中は一切の経済活動が禁じられていたと言われますが、実際にはこの間に渋谷バスターミナル建設構想を含む渋谷周辺の交通再開発、首都圏のターンパイク(有料道路)など大規模な計画が彼の頭の中で形になっていたと伝えられています。しかしその片隅には新たな夢の一つとして「北海道での事業」が実現に向けてすでに動き出していたのかもしれません。

 

 定山渓鉄道の戦後は、全線電化から続いていた王子製紙傘下を離れるところから始まります。「経済力集中排除法」の適用によって株が一般開放され、この時取得した札幌の財界人である浅野一夫氏が社長に就任。真駒内のキャンプ・クロフォード建設に象徴される沿線の変革の波に乗り、しだいに業績を伸ばしていきます。戦後の産業復興と高度成長時代を迎えて延々と続いていたのどかな沿線風景に宅地化の兆しが見え始め、さらに重なるようにレジャーブームが訪れて温泉行楽客も増え続けていきます。昭和二五年以降は新型電車の増備など近代化を続々とすすめて、定山渓鉄道は最大の黄金時代を迎えつつありました。かねてより浅野社長が切望していた札幌駅乗り入れは、国鉄による苗穂~東札幌間の電化撤去要請と並行して折衝が数年にわたり続けられ、結果、同区間の電化撤去と引き換えに定山渓鉄道が専用の気動車四両を購入して直通運転することで実現します。昭和三二年八月一二日のことでした。しかし、その陰ではすでに定山渓鉄道株式会社の株取得という形で、五島慶太氏の「北海道での事業」は粛々と進行していました。東急傘下入りはもう時間の問題だったのです。

 

 札幌駅乗り入れの前年である昭和三一年八月、五島慶太氏は他の重役とともに北海道入りしています。来道中、五島氏は定鉄電車に乗り定山渓に投宿していますが、この時すでに水面下で「株買い占め」計画がスタートしていたと思われます。「定山渓鉄道を中心として私鉄、高速道路、観光ホテル、バスを完備して北海道を雪のある大観光地に仕上げる」という発表が披露されたそうですが、北海道では群を抜いて急成長を遂げている定山渓鉄道を中核として各私鉄バス会社をネットワーク化し、さらに道都札幌を商圏としてその郊外に大住宅地を整える、かつての「目蒲電鉄と田園都市開発」の北海道版事業という青写真もそこに描かれていたのかもしれません。

 翌年の新造気動車による札幌駅乗り入れ実現は、すでに東急入りの裏付けがそこにあったからなのではないだろうか、と感じるのは妄想に過ぎないかもしれませんが、「株の過半数を獲得して事実上東急が資本参加」という趣旨の報道がなされたのは札幌駅乗り入れが開始された翌々日でした。

 

 補足ですが、この定山渓鉄道買収に隠れて見過ごされたまま消えていった鉄道計画がありました。それが「札幌急行電鉄」です。

 「江別を発展させるには札幌との連携を無視できない。郊外電鉄を建設し、同じ経済圏の中で生きるべきだ」との強い思いから電鉄建設実現の夢を描いていた人物がいました。江別在住で当時道議であった彼は江別商工会議所の会頭に選任されると同時に「札幌急行鉄道調査促進委員会」を立ち上げて、江別~札幌間の電鉄会社設立計画を練り上げます。この計画は「夕張鉄道線を江別駅に乗り入れ、緑町、元江別、元野幌、西角山を経て豊平川を渡り、雁来から豊平川左岸沿いに西進して函館本線と立体交差して札幌市内へ、更に東橋付近から地下鉄として大通を西進して終点の今井、三越百貨店付近に到着する案」(北海タイムス)というものでした。これが実現すれば江別~札幌間の所要時間も国鉄を利用するよりも短くなり、将来、江別は札幌のベッドタウンとして発展し双方にメリットが大きいと考えられることから、札幌市や夕張市など関係各所からも高い関心が寄せられたのです。

 ここで委託事業者として白羽の矢を立てられたのが、折しも定鉄株買収にとりかかっていた五島慶太氏でした。昭和三二年六月の来道の際にはその人物から直接この計画の説明を受けているものの、すでに定山渓鉄道の東急傘下入りがほぼ決まっていた状況で、はたして札幌急行電鉄への可能性をどの程度見出していたのかはわかりません。一説には定鉄株を手放さない重役陣への切り札(江別~札幌~定山渓新路線提案)として使われた、という見方もありました。しかし、直後に東急から現地調査団が派遣されてかなり詳細に下調べが行われたり、翌三三年には病の体をおして度々来道、札幌急行鉄道株式会社の発起人会準備会開催など、状況的には実現に向けてトントン拍子に話は進んでいきます。

 ところが、いよいよ鉄道敷設免許取得~着工を待つばかりとなる昭和三四年八月一三日、折からの病状悪化で入院していた五島慶太氏の容態が急変。結局、真意は誰にも知らされぬまま翌一四日午後、帰らぬ人となってしまったのです。

 

 五島慶太氏の逝去は東急側でもその影響は計り知れないものがありました。結果的には「札幌急行電鉄」事業は状況変化による資金面など内部事情によって棚上げされ、誰にも引き継がれることなく人々の記憶から次第に遠ざかっていきました。また定山渓鉄道の電車事業も、奇しくもこの年を頂点として次第に旅客数、貨物取扱量とも減少をたどり、昭和四四年一〇月いっぱいでの営業廃止を迎えることとなります。

 

※「札幌急行電鉄」については『江別文学第二〇号~二二号(昭和五五年発行)』を参考に要約しました。

 

※カットは、右上が創業一〇〇年を迎えて出版された『株式会社じょうてつ100年史』。左下が、「創立100周年記念祝賀会」にて参加者に寄贈された記念品レール。

 

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

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