定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その六七  「国道230号線」】

 

 昭和四四年一〇月三一日、この日の最終電車をもって定山渓鉄道が営業廃止となりました。廃止に至った要因はいくつか語り継がれていますが、今回はその要因のひとつでもあった国道二三〇号線の改良という点を、道路側の視点から紹介してみたいと思います。

 

 札幌から石山通を通り定山渓を経て中山峠、洞爺湖を越える国道二三〇号線は、開拓期の本願寺道路をルーツとする歴史ある道路です。一度は千歳周りの札幌本道(現国道三六号線のルーツ)におされて荒廃しかけた時代もありましたが、その後幾度となく改良の手が加えられ、昭和三〇年代より舗装化と拡幅の本格的な工事が始まりますが、道路が良くなるとクルマも増えるといったイタチゴッコな状況が続くことになりました。そして定山渓鉄道が廃止された昭和四四年に中山峠の新道が開通、道内有数の交通量を誇る幹線道路に成長しました。現在行われている国道の改良四車線化工事は、定山渓市街地での工事が進められており、供用間近となっています。札幌~定山渓間の全線四車線化が実現するのも時間の問題となっています。

 

 札幌から定山渓までの区間における道路としてのその歴史は、実はかなり古くて、明治維新前後にまでさかのぼります。そしてそこには名を避けて通れない人物がおりました。常山(定山)でした。常山は安政から文久年間にかけて張碓に逗留していたのですが、アイヌの話から定山渓に温泉の存在を知り、これをより多くの人たちに利用してもらおうと考えました。大政奉還直後に設置された石狩司事に着任した、井上弥吉への請願に始まった温泉開発の志は、函館戦争や島判官の解任と頓挫を繰り返すものの、岩村判官の快諾をもって願いが叶い湯守を命ぜられるに至ります。それが明治四年七月。この時、岩村判官の命により札幌本府より豊平川沿いに刈分け道が造られたのが、おそらく最初の道らしい道と言えます。ところが偶然にもちょうど時を同じくして伊達より札幌本府へ至る道路が、東本願寺の僧ら一行によってまさに開削されている最中でした。これが世にいう『本願寺道路』だったわけですが、人馬

がかろうじて進むことができた刈分け道は、東本願寺の山道開削によって平岸村まで幅約六尺の道に生まれ変わり、定山が湯守となったその年の一二月に竣工を見るのです。そして常山の願い通り、少しずつではありましたが湯治へ向かう人の往来が見え始めていました。

 

 道路として次の転機が訪れたのは、開拓使に代わって北海道庁が設置された明治一九年でした。この時『本願寺道路』は、豊平から苫小牧へ向かう札幌本道の開通とともに湯治客以外に通る人も減ってその荒廃が顕著となり、再び最初の刈分け道のような状況に戻りつつありました。そしてこの年、北海道庁による植民事業の一環として道路の改良が始められることとなります。工事は明治二七年に完了、一部は既存のルートと異なる場所を新たに開削して馬車の通ることが可能な道路として再び生まれ変わります(以後、定山渓道路)。通る人も増えて沿線には旅館を営む人も現れ、定山渓には駅逓所も置かれました。とはいうものの石山から先では、雨が降るとぬかるんで馬の歩も止まり馬車の車輪も埋まってしまうほどの悪路も少なからずあったのだそうです。

 

 大正に入ると、定山渓に大きな変化がもたらされます。豊羽鉱山の開発本格化、温泉客の増大、札幌の発展に比例して増える材木の需要に、物資、人の大量輸送手段が求められるようになったのです。そして生まれたのが定山渓鉄道でした。大正七年一〇月一七日、待望の営業運転が始まります。その間、道路の方は時の「北海道一〇ヵ年計画」に基づいて各地で改良が進められたものの、日露戦争のために事業が頓挫するなどして改良どころか道路維持の手も滞る状況となっていました。

一方で定山渓鉄道は開業当初から木材輸送のみならず湯治の利用客も多く、大正一二年に「北海道三景」の一つに選ばれるとさらに行楽客が殺到、好調の波に乗って輸送力増強を狙った昭和四年の全線電化へと向かっていきます。

 

 昭和に入っても道路は苦難の時代が続きました。昭和二年の「第二期拓殖計画」はその経費の捻出方法に特徴があり、北海道における「国の歳入・歳出の余剰金を以て計画実施の財源に

充当する」という方針のもと、著しく財源が乏しい中で必要な道路工事をしなければならなくなったのです。したがって、活況を呈する定山渓鉄道を横目に、「改良された」はずの定山渓道路の約三〇年間は、相変わらず雨が降るとぬかるみ馬車の往来に難渋するという状況が続いていたわけです。

 

 さて大正時代にちょっと戻って、このころ次第に登場してきた自動車は、その珍しさとともに注目を浴びるようになります。定山渓鉄道が開業した大正七年にはわずか四三台(北海道内、乗合バス含む)だった自動車は、大正一五年には五〇三台を数えるに至り、全道的に乗合自動車の事業者が増える中、定山渓でも札幌と定山渓を結ぶバス運行が始められます。しかしクルマは小型のフォード製、前述のとおり道路事情も著しく悪かったので利便性はやはり電車の方が数段上でした。ちなみに昭和一一年にはこれらバス事業の発展と近い将来の自動車の普及を考慮して、道路整備は改良に重点が置かれることとなるのですが、昭和一六年に勃発する第二次世界大戦の前にその費用も制限され、道路の改良は再び頓挫してしまいます。また、企業整備によって定山渓~札幌駅間を結ぶこのバス事業はこの時に休止しています。

 

 戦後となると産業復興と北海道への人口移動政策に伴って定鉄沿線の様相も大きく変化し始めます。のどかな田園風景が宅地へと姿を変え、定山渓鉄道の乗客も右肩上がり。貨物取扱量も延びる一方のその陰で、自動車の急激な普及が始まりつつあったのです。そんな中、昭和二七年には北海道総合開発第一次五ヵ年計画がスタート。本格的な道路開発事業が開始されることになりました。この定山渓道路も翌年には二級国道へと格上げ指定され、大規模な改良工事に着手される準備段階を迎えます。そして、まさに定山渓鉄道が最盛期を走っていた昭和三三年、藻岩下から定山渓への国道改良工事が始まります。同時に定山渓温泉街においても「二級国道定山渓地区内拡幅舗装促進委員会」が発足され、地元でも道路と自動車への関心が高まっていったのです。年々増え続ける道路改良事業費は、昭和三七年をピークとして急ピッチで工事が進められ、その結果、翌年には札幌~定山渓間の完全舗装化が完了するのです。定山

渓を通過する交通量はそれまで一日あたり三〇〇台あまりでしたが、改良工事の結果、昭和四三年には一五〇〇台を超えることとなりました。

 

 こうした道路開発計画が行われた結果、定山渓温泉客のほとんどはバスへと流れ始めます。札幌中心部から運行する利便性もさることながら、大手のホテルは送迎に小回りの利くバスを自前で用意するようになると、気が付けば、定鉄電車の乗客は沿線に誘致した学校の通学生だけ、という日も。営業収支は年々悪化の一途をたどっていきました。こうして道路に客を奪われた定山渓鉄道は営業廃止を迎えることとなるのです。

 

 

 

 

※カットは上より、石山坂付近での電車とバス併走シーン(坂氏所蔵)。中段中央は小金湯付近の未舗装だったころの国道230号線(板倉氏所蔵)。昭和30年代前半。下段左は記念販売されたトレーラーバスのチョロQで、昭和28年ごろから札幌~定山渓間で走っていたトレーラーバスがモチーフ。右の地形図は”七曲り”時代の豊滝周辺と現在の同じ区間の比較(国土地理院発行5万分一地形図昭和31年発行『定山渓』と2万5千分一地形図平成16年発行『定山渓』より当該箇所切り出し)。トレーラーバスはこの険しい七曲り箇所も超えていた。

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

 

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