定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その六六  「創業一〇〇年」】

 

 定山渓鉄道株式会社は、平成二七年一二月二〇日に創業一〇〇年を迎えます。

 現在の(株)じょうてつは(昭和四八年に商号を変更)、北海道における東急グループの中核企業として、宅地開発から住宅建設など不動産事業、交通事業からサービス産業まで多角的な事業を展開する道内有数の一大企業となりました。その一〇〇年の歴史の中においては、前半の五四年間が札幌および定山渓温泉の発展を担った鉄道事業の歴史といえます。

 最初の軽便鉄道敷設免許取得から、度重なる路線変更など多難を乗り越えながら大正七年一〇月一七日に開業。幾度かの経営交代を経て昭和四四年一〇月三一日に鉄道事業はピリオドを打つことになりましたが、その間少なくとも二度、節目に合わせて世に出された会社パンフレットが存在します。今回はこの二つの資料をご紹介します。

 

 

 

 

 

《『開業35周年を記念して』より引用》

 

 当社は大正四年十二月廿日創立し、翌五年起工、大正七年十七日営業を開始した。

 国鉄函館本線苗穂駅から千歳線に乗り換え、東札幌駅から分岐して豊平町を横断し、豊平川の東岸に沿い南進、定山渓に達する延長廿七キロ二分、軌間三呎六吋の地方鉄道で頭初は蒸気機関車であったが、昭和四年十月廿五日電化し、電車によって旅客輸送をすることになった。

 沿線一帯は頗る風光に富み、藤の沢十五島、簾舞御料峡、渓谷一の沢に幽勝錦橋など綴る景勝数多く、桜山に代わって新しく生まれた真駒内のアメリカ村も又沿線名所の一つ、殊に満山紅葉する秋、定山渓の美しさは遍く世人の知るところ、さればひとたび身を車中に託さんか、目に写り変る風物は応接に暇なく、只恍惚として眺むるうち、いつしか熱泉噴出の温泉郷に着く。

 旅客の主なものは温泉浴客、避暑、観楓、遊覧は勿論、沿線住民も又年を逐い発展する札幌市を背景に最近激増の一途にある。

 貨物は鉱石、木材、農産物、雑貨等が主である。

 資本金六千万円 従業員は現在三七〇名

 定山渓鉄道株式会社の創業三五周年といえば、昭和二五年になります。戦中戦後の暗いトンネルを抜け、復興とともに定山渓温泉への行楽客が再び戻り始めると旅客輸送も好調。さらに真駒内のキャンプクロフォード建設に伴う貨物の輸送増と、この年に操業を再開した豊羽鉱山の鉱石輸送が加わって、まさに定山渓鉄道は黄金時代を迎えていました。

 これに先んじた昭和二三年、戦後の経済力集中排除法に基づいて、全線電化時より実質的に親会社であった王子製紙株式会社の持ち株がすべて開放され、王子製紙傘下から離れて再び地元資本による経営に移っていました。社長に就任した浅野一夫氏は、明治二五年に小樽で生まれ、大正一一年の初当選(補欠)以降七回の札幌市議実績がある政財界実力者。定山渓鉄道株式会社としては昭和二二年一一月より創業以来五代目の社長となりました。

 好調となる業績の中、浅野社長の目下の目標は定鉄電車の札幌駅乗り入れでした。全線電化直後の昭和六年には、いち早く東札幌~苗穂間三.一キロの北海道鉄道線を電化、苗穂駅への電車直通運転を開始し、確かに札幌には一歩近づいていました。しかし当時市電豊平線が豊平停車場前まで運転しており、思ったほど苗穂駅からの利用実績は得られていなかったことも事実でした。そこで、さらにこの苗穂から札幌駅まで専用線を敷いて電化、札幌駅乗り入れを実現させるのが最優先課題だったわけです。

當社の沿革

大正四年一二月二〇日・定山渓鉄道株式会社設立

同 七年一〇月一七日・白石、定山渓間二九粁九分の営業を開始

昭和四年一〇月二五日・東札幌、定山渓間二七粁二分を電化

同 六年 七月二五日・北海道鉄道線(昭和一八年八月一日国有鉄道へ買い上げ移管)苗穂、東札幌三粁一分の区間に乗り入れ電車直通運転開始

同 七年 五月 八日・札幌駅前、定山渓、豊平峡間三四粁の自動車運輸事業を開始

同一六年 二月 一日・企業整備により同上事業を休止

同二〇年 三月 一日・白石、東札幌間二粁一分を戦時特例により産業整備営団に転用供出し同区間は廃止

同二三年 五月一五日・札幌駅前、定山渓、薄別間三四粁の自動車運輸事業を再開

同二七年 六月一二日・二等電車新設

同二八年 七月   ・本社改築移転

同二八年一一月   ・北茨木駅附近に変電所増設予定

「なんといっても札幌駅へ直結、都心からハイといった具合に定山渓へ乗り込めるようにしないと将来性はない」とまで言い切った浅野社長の青写真は、その後相次いだ新型電車の増備や大型電気機関車(ED500形)の導入、そして北茨木の変電所建設など、すでにかなりのところまで出来上がっていたようでした。

「しかし、それには金が問題でね、増資と長期融資の手を打たんことには…」(毎日新聞昭和二七年九月二八日付記事より引用)

 社長就任中、もっとも力と時間を割いた国鉄との度重なる折衝はなかなか進展せず、定鉄近代化の最後の壁とも言える電車による札幌駅乗り入れは、事実上困難となっていました。しかし昭和一八年八月に国有化されていた東札幌~苗穂間の「既電化区間の電化設備撤去」という条件を受け入れる代わりに、札幌駅への車両乗り入れを認めるという交渉が成立。この時、機関車に電車を牽引させるという試験も行われたそうですが、運用上の問題から結局、会社では気動車四両(キハ7000形、7500形)を新造、昭和三二年八月一二日に念願の札幌駅直通乗り入れ運転を実現させたのです。

 その後、創業以来の好調の波に乗って昭和三五年には営業のピークを迎えるのですが、これまでの過大な設備投資がやがて浅野社長の描いた青写真に影を落とし始めます。

 

 

《『開業50周年を記念して』より引用》

 

 開業五〇周年を迎えて   取締役社長 蛯名忠雄

 

 当社は本年一〇月一七日をもって五〇周年を迎えました。開業当時を回想しますと、まことに感慨尽きぬものがあります。当時定山渓温泉とここに至る間は、原始林に被われた人跡まれなところでありましたそれが今やご覧のとおりにぎやかな温泉町に発展し、沿線も開発されて、定山渓は「さっぽろの奥座敷」と愛称され、また札幌のベッドタウンとして年々隆盛の一途を辿って居ります。このことは、定山渓鉄道五〇年の歴史抜きには、到底考えられないところでありまして、当社が果たした功績はまことに大きかったといわねばなりません。

 しかし、この間当社の事業は決して坦々としたものではなかったのであります。先づ当社の鉄道は、豊平川に沿い山間を切り開いて敷設されましたので、危険個所が多く、難工事の連続でありました。従って開業当初は、線路不良と輸送力不足に悩まされたのであります。

 ところが其の後電化による改良で次第に経営が好転したのでありますが、間もなく戦争に突入し、長い間深刻な打撃を被ったのであります。その後、終戦となり漸く立直り、之から経営の充実を計ろうという段になり、今度は沿線国道が整備舗装され、これがマイカーを主とする自動車氾らんと相まって旅客、貨物の自動車転化という新たな困難に遭遇したのであります。当社はこれを切り抜けるため、不動産事業をはじめとし、多角経営を行って今日に至っております。

 その間、毎年のように風水害等の天災に襲われ、多大の損害を被ったのでありまして、会社のこの50年は正に受難の歴史でもあったのであります。

 この間、会社創立者をはじめとする代々の経営者および全従業員は、会社創立の使命である交通事業の社会公共性を体し、常に一致協力し、敢然この苦難を克服して今日に至ったのであります。

 しかしながら経済社会は、いわゆる構造変革のさ中にあり、従来の如き経営、勤労の観念や手法をもってしては、この深刻な時代を生きぬっくことは到底できなくなってしまいました。ここに私共は会社を挙げて、覚悟を新たにし、構造変革には、構造変革で勝負する決意をしているのであります。

 本日当社開業50周年記念日を迎え、私共は全社員各位と共に、先人の苦労を偲び、かつまた決意を新たにした次第でご座いまして、一言もって挨拶といたします。

 

【沿革】

大正四年一二月二〇日  定山渓鉄道株式会社設立

〃 七年一〇月一七日  白石、定山渓間二九.九粁の営業を開始

昭和四年一〇月二五日  東札幌、定山渓間二七.二粁を電化

〃 六年 七月二五日  北海道鉄道線(昭一八.八.一国鉄となる)苗穂、東札幌三.一粁の区間に乗り入れ電車直通運転開始

〃 七年 五月 八日  札幌駅前、定山渓、豊平峡間三四粁の自動車運輸事業を開始

〃一六年 二月 一日  企業整備により同上事業を休止

〃二〇年 三月 一日  白石、東札幌間二.一粁を戦時特例により供出し同区間は廃止

〃二三年 五月一五日  札幌駅前、定山渓、薄別間三四粁の自動車運輸事業を再開

 創業から五〇年というと昭和四〇年にあたるのですが、この冊子が発行されたのは五〇周年より少々遅れた昭和四三年一〇月一七日でした。会社の情勢としてはこの時すでに電車部門の翌年営業廃止が濃厚で、高速軌道建設計画の平岸~真駒内間線路用地買収に取り掛かりたい札幌市との交渉を控えていたタイミングでした。挨拶文の中では廃止に言及してはいないものの、鉄道には頼らない新しい事業展開(不動産とバス事業か?)に力を入れていくという率直な意思が感じられます。

 定山渓鉄道株式会社の経営権が実質的に東京急行電鉄株式会社に移ったのは昭和三二年一〇月ごろで、念願の札幌駅乗り入れが実現したわずか二か月後のことでした。前経営陣による多大な投資がきっかけとなり、会社の財政事情が予断を許さなくなってしまった末の東急入り、ということで、それまでの鉄道専門の「線」の事業から、沿線開発とスーパーマーケット事業、そしてきめの細かいバス路線網の充実など「面」の事業展開が図られることになった点が一番の大きな変化でした。これは、自ら北海道の観光開発を企画し、その中心的役割を担うために定山渓鉄道株式会社の株取得に働いた五島慶太氏(当時定山渓鉄道株式会社相談役)の思想が色濃く反映されたものでもありました。その五島氏の命を受け東急から出向し六代目の社長に就任したのが、北海道出身の蛯名忠雄氏でした。

 東急傘下となってのその後の約一〇年間は、蛯名社長が挨拶文に記したとおり、定山渓鉄道にとっては苦難の連続となりました。当初描いていた「定山渓鉄道を核として他の私鉄、高速道路、観光ホテル、バスを完備し、北海道を雪のある大観光地に仕上げる」という五島慶太氏の構想が進み始めたのは最初の二~三年ほど。奇しくも定山渓鉄道が東急傘下となった同じころにスタートしていた、国道二三〇号線の藻岩下から定山渓間の国道改築工事の進捗とともに、次第にその構想は崩れ始めていきます。

〃二七年 六月一二日  二等電車新設

〃二八年 七月 一日  本社改築移転

〃二八年一一月 一日  北茨木駅に変電所増設

〃三〇年 七月 一日  札幌駅前、洞爺湖間110粁の自動車運送事業開始

〃三二年 八月一二日  気動車により札幌駅まで直通運転開始

〃三二年一〇月 一日  東急系列会社となる

〃三三年 四月 一日  不動産事業開始

 鉄道開業前の大昔、定山渓温泉へと辿っていた細い踏み分け道は今や舗装道路に生まれ変わり、温泉客はバスへ移り、鉱石輸送もトラックへと変わって、もはや核とすべき鉄道は逆に会社の足を引っ張る存在となりつつあったのです。

 

 そのような状況で迎えた創業五〇周年の記念すべき節目は、至って控えめなままその日が過ぎたようです。以前、会社への取材では「他の歴史ある企業なら当然上梓されるべき社史に相当するものは記憶にない」という話を伺ったことがありますので、当時の会社としては鉄道廃止を目前にしてこのパンフレット『開業50周年を記念して』を発行するのが精いっぱいだったのではないか、と感じています。

 このパンフレットが発行された翌年一〇月二九日より三日間、造花のデコレーションをあしらい、大きく「さようなら」と描かれた花電車が運行されました。そして一〇月三一日の鉄道営業最後の日、豊平停車場二二時四〇分発の定山渓行最終電車は、文字通り定山渓鉄道最終電車となって超満員の五〇〇人の乗客を乗せ、ホームにあふれる見送りの人々が見守る中、赤いテールランプの光芒を残しながら闇の中へと消えてゆきました。

 

※カットは左側上より、五代目の社長浅野一夫氏と『開業35周年を記念して』表紙と中面(一部)。右側上より、蛯名忠雄取締役社長と『開業50周年を記念して』表紙および「事業の変遷」ページ。中央は豊平停車場で佇む「さよなら運転」の花電車。

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

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