定山渓鉄道資料集
【定山渓鉄道沿線百話 その六三 「近代化」】
昭和二〇年代後半は、定山渓鉄道が最も輝いた時代であったと言われています。豊平から澄川沿線に広がっていた水田やリンゴ畑は次第に宅地化が進み、やがてそれはキャンプ・クロフォードからの米軍撤退に変わる真駒内団地造成、藤の沢から下藤野にかけての自社不動産事業による宅地造成へと広がっていきます。定山渓温泉への行楽客と沿線通勤客とが数字の上で拮抗し始めた結果、産業・観光鉄道から都市交通機関として存在感を増し、定山渓鉄道の黄金期を迎えたのです。
前回に触れたとおり、車両の老朽化や資材不足による故障車両修繕にも不自由をきたしていたことから、会社では動力近代化を進めました。昭和二五年に通勤用三扉のモ800形二両の新造導入を皮切りに、同年一一月にモ1000形およびクハ1010形、昭和二七年には転換クロスシートの豪華な二等設備のモロ1100形とクロ1110形、そして昭和二九年には大きな二枚前面窓が特徴で、外観デザインを一新させたモ1200形とクハ1210形を相次いで登場させます。
同時に、新造だけではなく既存車両の車体更新も進められました。昭和四年の電化開業時にデビューし、戦後まで活躍していたモ100形四両がモ2100形として生まれ変わります。台車と電装関係を流用して車体のみをモ1200のデザインに合わせて新造したもので、定山渓鉄道としては初の貫通型二両固定編成でした。その際に余剰となった運転制御関係は、従来付随客車であったサハ600形二両にそれぞれ移設改造して片運転台付きのクハ600形となり、その後も運用されました。
さらに定山渓鉄道初となるディーゼルカーが四両(キハ7000形三両、キハ7500形一両)の導入を果たし、東札幌~苗穂間の国鉄線電化撤去と引き換えに、悲願の札幌乗り入れを実現させます。
これに前後して、豊羽鉱山の操業再開に伴って水松沢(オンコの沢)~石山選鉱場との間の鉱石輸送も再び活発となるなど、従来の8100形蒸気機関車による貨物輸送にも動力不足が表面化していました。これに対応するため、やはり定山渓鉄道では初の電気機関車二両(ED500形)とディーゼル機関車一両(DD450形)を導入するのです(前々回【定山渓鉄道・百話 その六一 豊羽鉱山】参照)。
動力近代化の一方では、下藤野、東簾舞など停留場の増設、既存駅舎の増改築など利用者サービスの面でも向上が図られます。シンボルである札幌軟石を使用し、現在も石山振興会館として利用されている唯一の現存駅舎、石切山停車場は昭和二四年に改築され、定山渓鉄道本社社屋も昭和二八年七月に豊平駅舎に隣接して竣工。同じ年には、電気機関車導入に際して電気容量不足を補うために北茨木停留場(のちの澄川停留場)に隣接する敷地内に変電所を増設しました。
さて、これらの動力近代化は沿線人口の増加に対応して旅客貨物増加の要求に応えたものでありました。その通り輸送実績も昭和三〇年を越してなお、右肩上がりに推移していきます。ごく近い将来に訪れるであろう真駒内の大規模な道営団地の造成、日本住宅公団による北海道で最初と言われた平岸の木の花団地造成、そして、豊平峡での大型ダム建設計画の浮上など、定山渓鉄道にとって今後追い風となる材料はいくつも控えているはずでした。しかし、その後の歴史としてはご存じのとおり昭和四四年一〇月いっぱいでの鉄道営業廃止という結末を迎えました。そのターニングポイントとなったのがこの急激な資本増加と設備投資であったと言えるかもしれません。ダム計画の中断により、新造した電気機関車の運用に無駄が生じてしまったことや、その後急速に進んだ国道の整備によってバス利用が電車の乗客を奪っていったといった不運が重なったのです。
※カットは上段左よりED5001、DD4501、二段目左よりモ1001、モロ1101、モ1201、三段目キハ7501、キハ7001、モ2101(ここまで小熊米雄氏撮影)。最下段左は昭和三三年に本社ビルとともに落成した豊平駅舎((株)じょうてつ所蔵)。そして動力近代化の先鞭を切って登場した通勤型三扉のモハ800形(廃止時に発売された記念乗車券から)。
※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。