定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その六一 「豊羽鉱山」】

 

 定山渓鉄道が生まれた目的のひとつでもあった、豊羽鉱山の鉱石輸送。そこは一の沢ダム付近で豊平川と合流する白井川の上流、約一四キロほどのところにありました。現在はすでに閉山し、最盛期には千人規模が暮らす、「鉱山町」と呼ばれた時代がありましたが、現在その面影はまったく残っていません。

 明治二五年に北海道庁により刊行されている報文に書かれていた一文「富士岩ニ属ス硫化鉄ノ鉱脈アリ 硫化亜鉛硫化鉛之に伴随ス」という記述が、この地における初めての地質報告書でした。しかし、石川貞治(当時、北海道庁鉱山測量技術者)によるその後の詳しい調査によれば、その時すでに崩壊寸前の古い掘削坑があったことが報告されていました(「北海道地質調査鉱物調査報文」横山壮次郎共著明治27年)。明治初期の開拓の頃には、すでに採掘が試みられていたことが想像できます。

 

 本格的に豊羽鉱山が動き出したのは大正に入ってのことです。この鉱床を含む白井川鉱山の買山にあたったのが丹羽定吉という人物で、もとは三井鉱山に永年努め各地の鉱山を渡り歩いた経歴の持ち主でした。どういう経緯でこの鉱山の調査を行うこととなったのかはわかりませんが、結果、白井川鉱床には多数の高品位な鉱脈があって将来有望と判断した彼は、全山買収へと動きます。この時点では丹羽定吉は久原鉱業(「鉱山王」と呼ばれた久原房之助が大正元年に設立)に入社しており、実際に買い取ったのは久原鉱業であったと思われます。

久原房之助は、丹羽定吉によるこの労に報い豊平町の「豊」と丹羽の「羽」をとり「豊羽」と命名し、名実ともに豊羽鉱山の誕生となりました。

 その当時はまだ、札幌からは豊平を経由して定山渓を通り中山峠を越える馬車道は通じていたものの、錦橋より先の白井川沿いはまだ踏み分け道同然でしたから、鉱山の開発はまず道の開削からとりかかりました。馬、あるいは人力によって急峻な山道での資材の運搬が約一年間ほど続けられ、精錬所や索道、発電所や選鉱場が形になって本格的に操業が開始されたのは大正四年の七月。

 この時すでに従業員数も四千名以上を数え、その後年を追うごとに数を増やして住宅街はもとより学校、病院、郵便局、共同浴場などが建てられていきます。定山渓温泉よりもさらに標高の高い奥地にわずか数年で巨大な町(元山と呼ばれた)が出現したのです。もちろん温泉入浴に定山渓へ「下りる」人も増え、生活用品を扱う商店なども続々と現れて定山渓の発展にもつながっていきました。

 

 元山で採掘された粗鉱は索道によって約六キロほど下流の水松沢(オンコの沢)に造られた精錬所へと送られ、精錬された銀や金の製品はさらに馬車鉄道によって錦橋へ運ばれます。さらに馬車に積み替えられて札幌へと運ばれるのですが、その輸送力は小さく、生産量が増えるにつれて新たな大量輸送手段が必要になります。ちょうどそのころ、白石駅を起点として再び敷設免許を取得した定山渓鉄道の建設が秒読み段階となっていました。

 しかし豊羽鉱山は、第一次大戦後の不況のあおりを受けて大正一〇年に操業を停止せざるを得なくなり、潮が引くように「鉱山町」からも人影が消えてしまいます。一方で定山渓温泉街は鉄道開業に伴って年々訪れる人も増え、すでに開業していた定山渓鉄道はその鉱石輸送の任を失うも、押し寄せる観光客をさばくために臨時列車を出すほどの忙しい日々に追われることになります。

 

 長い休山から再び操業開始となったのは昭和一四年のこと。戦時色が強くなる時代背景の中、軍需拡大による採掘量増大と比例するように人口も約五千人ほどに達し元山は、創業の大正期よりもさらに大きく発展します。会社も久原鉱業から分離独立した日本鉱業の経営となりました。先述の通り水松沢の精錬所までの輸送は索道によっていましたが、水松沢と定山渓鉄道錦橋停車場との間六.四キロには、それまでの馬車鉄道に代わる鉱山専用の鉄路が敷かれます。同時に石山には選鉱場が建設されてここにも藤ノ沢停車場より二.一キロの専用鉄道が設けられ、同年四月十七日より貨車による直通輸送が開始されるのです。これは線路は日本鉱業が所有、運輸業務を定山渓鉄道が行う形をとっていました。

 ところがそのわずか五年後の昭和十九年、豊羽鉱山は再び休山に追い込まれてしまいます。同年八月十三日に、第一立坑と白井川との間に突然地割れが発生し、流入した川水により立坑が水没。その排水作業と白井川の流路切り替え工事が終わろうとした矢先の九月七日には、台風による前夜からの豪雨で増水し切り替え箇所が決壊、川底が陥没してすべての坑道が水没してしまったのです。翌年の再開を目指して大規模な復興工事が計画されますが、戦局の悪化を受けて政府の事業休止命令が出され、それもかなわず全山休山となったのです。こうして元山からまた人影が消えました。

 

 二度にわたる災難を乗り越えた豊羽鉱山は、戦後の復興とともに再び注目され昭和二五年に新会社(豊羽鉱山株式会社)として操業を開始します。坑内水没による休山に伴って停止していた石山選鉱場も改修工事の後に再開して、鉱山専用線による鉱石輸送も再び開始されました。経営そのものは時代の経済状況もあって厳しい状況にあったのですが、その後の経営危機も日本鉱業の支援を受けて再建。次第に鉛や亜鉛などの需要増大に応えるように産出量も増加。周辺にも新たに診療所や中学校が新設されるなど発展を続けて近代的な「鉱山町」が復活します。昭和三〇年には「二度にわたる閉山の過去へ還る」ことを嫌って、土地名だった元山が「本山」と改称されたのでした。

一方で定山渓鉄道でも鉱石輸送の増加に対応するため動力アップを図り、専用線のためのディーゼル機関車を一両、増備します(ディーゼル機関車は豊羽鉱山を持つ日本鉱業株式会社が購入)が、その一方で、次第に鉄道輸送を取り巻く環境はこのころより次第に厳しくなっていくのです。

 それまでの定山渓温泉街と本山との交通手段は、錦橋より水松沢まで専用線の客車輸送という交通手段はあったものの、そこから先の本山まではデコボコの未舗装路をトラックで、冬は馬橇での移動を強いられていました。本山での居住者が増えるととも、にこうした交通事情の改善要望も強かったことから、豊平町が中心となって昭和三一年夏ごろから本格的な道路改良工事が始まります。

 馬橇に頼っていた冬季間もブルドーザによる除雪が行われるようになると定期の乗合自動車が運行可能となり、三四年には

定山渓鉄道による温泉と本山間の定期バス運行が開始されます。さらに三八年には索道の老朽化もあって鉱石輸送についても全面的にトラックへ転換されることとなり、これと同時に専用線が廃止に。鉱石輸送列車の姿は定山渓鉄道から消えることとなりました。そして定山渓鉄道の廃止に先立つ昭和四四年三月、豊羽鉱山のもう一つの顔でもあった石山選鉱場は、水松沢に新設された選鉱場にその後を引き継いで操業を停止します。

 

 豊羽鉱山そのものは、希少鉱物であるインジウムを産することから世界的な半導体産業の発展に支えられて、その後も操業が続けられます。しかし、海外で産出される安価なレアメタルの台頭と、採掘可能な範囲にある鉱床の資源枯渇により平成一八年三月三一日、惜しまれる中で閉山されました。

※カットは上段が石山選鉱場で中段右が石山選鉱場への専用線。陸橋で越えているのは国道二三〇号線で現在の石山二条九丁目付近(写真はともに豊羽鉱山株式会社提供)。中段左は昭和三三年に本山への道路改良工事が竣工した際に建立された記念碑。下は大正九年四月国土地理院発行の五万分一地形図『定山渓』からの当該部分。この地形図が発行された時点では定山渓鉄道が開通しているはずだが、なぜかまだ描かれていない。一方で水松沢方面へ渡る錦橋には道路が描かれておらず、当初は馬車鉄道のための橋だったようだ。

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

 

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