定山渓鉄道資料集
【定山渓鉄道沿線百話 その六〇 「バス」】
大正七年一〇月一七日に開業した定山渓鉄道は、以後、その本領を発揮して森林資源の運搬や豊羽鉱山の鉱石輸送に活躍、また大正一一年に小樽新聞社が定山渓温泉を「北海道三景」のひとつに取り上げると全国的に有名となり、旅客運輸についてもまた好調となっていきました。このころは鉄道が地方産業の発展を担う交通の花形だった時代でした。そして昭和四年の全線電化に至って北海道随一となる高速電車を走らせた定山渓鉄道は、文字通り最先端の交通機関としてその名が知られてゆきます。
その定山渓鉄道に小さな変化、しかし見方を変えれば後年の会社の形に大きく影響を及ぼすきっかけとなったささやかな変化が、電車人気の陰でひっそりと始まります。自動車、つまりバスによる営業開始でした。昭和七年五月八日のことです。
その前年の昭和六年七月二五日、定山渓鉄道は北海道鉄道線に乗り入れる形でさらに東札幌~苗穂間を電化し、定山渓との直通電車の運転を始めました。札幌駅への乗り入れも検討されたそうですが、以前の記事で触れたとおりこれは実現していません。しかし翌年春に、形を変えて札幌駅乗り入れを果たします。乗合自動車=バスによる定山渓、豊平峡までの旅客営業によるもので、豊平橋を渡り平岸街道を進んで定山渓道路(現 国道二三〇号線に符合)へと通じるおよそ三四キロほどにもなる路線でした。しかし札幌や豊平町市街地はともかく石山から先の道路は、明治二〇年代に大幅に付け替えや改修工事を受けて改良されたとはいえ、所詮は未舗装の馬車道。幅員は三メートルに満たないほど狭く、簾舞手前の通称「○千坂(まるせん坂)では雨が降るといつもぬかるみの坂道で馬車も立ち往生した」ほどの悪路だったと伝えられます。さらに板割沢より豊滝に至る区間は急こう配と急カーブが連なる通称「七曲り」と呼ばれる難所が続くのです。
定山渓鉄道のバス事業進出については、一説にはすでにあった事業者を買収してのものとも伝えられていますが、当然のことながら電車よりも所要時間がはるかに長く運賃も高かったと思われるこのバスの運行を、高速電車を持つ定山渓鉄道がなぜ自ら始めなければならなかったのでしょうか。
ここで鉄道から離れて北海道における自動車事業について調べてみることにします。
初めて北海道に自動車そのものがお目見えしたのは明治四三年。札幌区の諸橋熊吉および高橋栄祐という人物が共同で、東京より買い付けたベンツを持ち込んだのが最初と言われています。大隈重信がヨーロッパより持ち帰り、帝国ホテルに保管されていたものなのだそうですが、当初は遊覧営業をするつもりであったのが相当な中古であったためにトラブル続きですぐに自走不能となってしまいます。その後観覧用として有料で展示したのですが、その時は物珍しさから大変人気を呼んだそうです。
その後大正三年二月には、函館にてフォードの12人乗り自動車の運転が開始されます。これは、日高での定期バス運行を計画した北海道自動車協同組合の発起人である函館の藤野武平という人物が、その試運転を兼ねて函館市街地約六キロを走らせたものです。肝心の日高浦河での定期バス運行は道路がなかなか整備されず後のこととなったようですが、それから四か月後の同年六月、根室の大津滝三郎という人物が東京からフォード幌型八人乗り自動車を購入。船便で根室に陸揚げし根室市街地一帯と厚岸との間で乗合旅客運送を開始します。
この当時はまだ釧路~根室間には鉄道が開通しておらず、この区間の旅客運輸に目をつけての開業でした。しかし、およそ九〇キロにおよぶ長距離であることと、入り組んだ海岸線を通る道がやはりひどい悪路続きであったことから、たびたび運転不能な事態に見舞われます。途中で立ち往生した時の苦労などから当初は多数だった利用客も次第に遠のき、その後の一年半ほどで営業をやめてしまいました。ちなみにこれが、北海道における最初のバス定期運行とされています。
そして大正七年。札幌で行われた『開道五十周年記念大博覧会』に合わせて東京の菊川タクシーが5台の乗合自動車を札幌駅前と中島公園会場との間を運転します。これが大きな刺激となり、その後しだいに小樽、旭川、函館などでハイヤー事業が相次いで生まれます。
一方、札幌においてのバス定期運行を見ると、大正九年に豊平の福島利雄という人物が札幌乗合自動車商会を設立。バス一台を使って札幌と月寒との間で旅客営業を始めます。やはりはじめは珍しさから盛況だったそうですが、故障や事故が多かったために間もなく廃業。大正十二年には入れ替わるように札幌乗合自動車株式会社が設立されて札幌駅を中心に山鼻、大学病院(現北大病院)方面と元村(現在の元町~栄町周辺)方面に一六人乗りのバスを使用して旅客営業を開始しました。しかしこちらもその後、札幌電気軌道株式会
社による電車山鼻線や鉄北線の開通、大正一四年の山鼻線延長によって客足を奪われて頓挫。ほぼ同時期に札幌~月寒のバス事業のために、加藤幸吉、木上亀蔵らによって設立された札幌乗合馬車合資会社により営業を引き継がれるものの、間もなく廃止。札幌~月寒間のバス営業のみ続けられるようになりました。
ちなみにこの札幌乗合馬車合資会社は後に、バス事業を札幌自動車株式会社へ独立させて余市、岩内、江別、さらには道東や道北地方へとバス路線を広げていきました。そして、その後の戦時統合によるバス事業者の再編を経て北海道中央バス発足へと移り変わっていきました。
さて、定山渓鉄道によるバス事業の話に戻ります。
こうして身近な交通機関としての時代背景は馬車から自動車へと関心が移り変わり、大博覧会が行われた大正七年には営業用の自動車が北海道内でわずか四三台だったのが、昭和元年には五〇三台へと急激に増加していました。全道に広がりつつあったバス事業は、地方鉄道および軌道事業者にとっては次第に脅威となっていきます。そのため鉄道事業者は自社線に競合するバス路線計画に対して抵抗する一方で、買収などで取り込み自社経営とするなどの対策を取り始めるところが現れました。定山渓鉄道もそうした理由で、この当時としては悪条件の多かったはずの定山渓線のバス事業に敢えて参入したのではないか、と思われるのです。
当時の利用客数など具体的な数字ははわかりませんが、札幌から定山渓というよりはむしろ、豊平、平岸、および真駒内周辺と札幌とを結ぶ市街地の生活路線といった部分で利用価値が認められていたのかもしれません。昭和一六年に企業整備によってこのバス事業は一旦、休止されるのですが、札幌~定山渓間のバス営業が昭和二三年五月一五日に再開されます。そして昭和三〇年代のレジャーブーム、住宅ブームを迎えるとさらに路線拡張へと進み、会社が昭和三三年に東急系列となった時、電車とバスの関係はそれぞれに大きな転機を迎えます。
それまではわずかな規模でしか行われていなかった不動産事業がこの時より本格化し、先に触れたとおり鉄道沿線の宅地分譲を積極的に行うようになります。と同時に道路の新設や改良整備が急激に進んだ結果、きめの細かい旅客輸送に特徴を持つ路線バス事業のメリットが活かされ、路線網が拡充されていきます。
一方でレジャーブームの盛り上がりとバスとは密接な関係がありました。定山渓を越えて洞爺湖までの観光バス路線が開設されたほか貸切観光部門も好調となり、バスは言わば時代のエースとして脚光を浴び始めていたわけです。これらが結果として電車部門の衰退へつながったことは明白です。
昭和三五年度以降は電車部門の業績が年々悪化に転じる一方で、昭和三八年度にはバス事業の売り上げが電車の約三倍と完全に逆転、翌年には鉄道事業の合理化に伴って鉄道事業の従業員をバス事業へ配置転換するといったことも行われていました。
こうして、道路や人の流れといった時代の情勢によって変化し、本来ならば鉄道を守るために生まれたはずのバス事業が、当の鉄道を窮地に追い込む一因となってしまった皮肉な結果となり、昭和四四年一〇月に定山渓鉄道は廃止されることとなったわけです。
が、実は定山渓鉄道のバス事業そのものも、その後の存続にかかわる新たな局面を鉄道廃止と同時に迎えていました。
※カットは上段が、昭和三〇年代に定山渓鉄道が発行していた貸切バスのパンフレットから。左中下段は昭和二三年のバス運行再開の際に導入されたトレーラーバスと復刻のチョロQ。右中段はやはり昭和二三年ごろに行われた「花嫁バス」のいすず製バスで試作車二両のうちの一両だそう。下段は昭和初期の石山坂付近を併走する定鉄電車とバス。
※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。