定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その六 「停車場と停留場」】

 

 定山渓鉄道の『停車場表』によれば、昭和四四年一〇月三一日の営業廃止を迎えた時点で全一九駅ありました。またさらに「停車場」と「停留場」に大きく区別されていました。一般的には駅員配置で場内信号機があり列車行き違い可能な線路分岐を持つのが「停車場」(閉塞端駅)、無人で信号機のない駅が「停留場」(閉塞区間内)と呼ばれているようですが、定山渓鉄道においてはいくつかの変遷と例外がありました。

 

澄川停留場。

 昭和八年の開駅当時は当地の地主、茨木與八郎氏の苗字をあてて北茨木停留場(既存の同名駅と区別するため”北”を付けた)と呼ばれていましたが、翌年に開業した札幌市立病院分院である静寮院(現 札幌市児童心療センター)の駅利用者、そして終戦後の急速な宅地化による乗降客増加に対応するため、駅位置を南へずらして側線を設け、駅員を配置、列車行き違いのできる停車場となりました。

 

慈恵学園前停留場。

 文字通り近隣の丘の上に開校した慈恵学園の通学利便のために昭和三四年に設置されました。片面ホームの停留場ですが、通学時間帯には駅員が配置され、定期券販売などの業務も行いました。

 

小金湯停留場。

 昭和一一年の開業当初は無人だったものの、後に住宅兼待合所と売店が設けられ、近隣住民が移り住んで駅業務を引き受けていました。当時は道内の国鉄路線でも例がなく「北海道初の業務委託駅」だったわけです。温泉客の増加するシーズンには不定期ながら、滝の沢停車場から駅員が応援に駆け付けていたそうです。

 

一の沢停車場。

 場内信号のある停車場は、東札幌、豊平、真駒内、石切山、藤の沢、簾舞、滝の沢、定山渓の八駅で、それぞ

れの閉塞区間内にある駅が停留場、ということになります。しかし滝の沢~定山渓の閉塞区間内にありながら、昭和三九年の平面図によれば、なぜか一の沢は停車場となっていました。幅二メートル、延長四〇メートルの片面ホーム。待合小屋がぽつんと建っているだけの無人駅なのですが…

 実は、大正一五年に開駅する前はすでに一の沢発電所建設のための側線が設けられていました。資材の積み下ろしのほかにも作業員の鉄道利用があったことから一時的に停車場扱いをしていたのかもしれません。

 

錦橋停留場。

 停車場から停留場に変化した駅です。ここには鉄道開業時から材木積み出しの土場があり、またその頃から一の沢発電所のための取水ダム(一の沢ダム)建設のため、引き込み線が設けられていた場所でした。またこの近隣にも明治後期より温泉旅館や民家があって人の往来も多かったことから昭和三年に開駅しています。昭和一四には豊羽鉱山水松沢(オンコの沢)選鉱場まで専用線が開通し、荷物積み出し専用ホームのほかに乗降用の島式ホームと立派な駅舎が建てられていました。したがってこの時点では場内信号があり列車交換のできる「停車場」だったわけです。ところが、昭和三八年にはこの専用線が廃止。定山渓鉄道が廃止となる前の最後の構内図面によれば構内の側線もすべて撤去されて表記上も「停留場」となりました。

 

白糸の滝停留場。

 昭和八年開駅で片面ホームでしたが、立派な駅舎とともに駅員が配置され、一時は売店もあったそうです。近隣に温泉宿も多く、また駅下の豊平川には一の沢ダムの貯水湖を利用したボート遊びで有名となった玉川遊園があり、この駅で乗り降りする行楽客も多かったのでしょう。

 

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