定山渓鉄道資料集
【定山渓鉄道沿線百話 その五八
「幻の起点駅 苗穂 続き」】
※今回は【定山渓鉄道・百話 その一 「幻の起点駅 苗穂」の続編です。
定山渓鉄道が軽便鉄道として最初の免許申請を行ったルートが、鉄道院線苗穂駅を起点として札幌市街地を右手に見ながら豊平川左岸沿をさかのぼり、石山付近で川を渡って右岸沿いに定山渓へ至るというものでした(簾舞付近より一旦砥山側へ渡り、上砥山付近で再び右岸へ戻るという説もある)。大正二年五月に認可されたものの、そのわずか三か月後の大水害により、豊平川左岸沿いの予定地が使用できなくなる事態となります。やむなく起点駅を白石駅に変更して申請、という歴史の流れになるのですが、ではなぜ、最初の免許申請での起点駅が苗穂駅だったのか?という点について考察してみたいと思います。
時の鉄道局長野村氏より定山渓へ至る鉄道建設勧誘を受けた吉原豊平町長は、札幌の財界で有力者のひとりであった松田學氏に協力を仰ぎます。会社設立へ向けて資本金を募るのですが、あてにしていた豊羽鉱山から大口の出資を断られるなどなかなか成果は上がりません。その折に名前が上がった一人が助川貞次郎氏。ご存じの通り、石山の札幌軟石を運ぶことを目的に明治四〇年代に札幌石材馬車鉄道を開業させ、その後札幌市街地に馬鉄路線を拡大、さらに定山渓鉄道開業に先立つ大正七年八月に市街路線を電化、現在の札幌市電の礎を築いた人物です。松田氏は助川氏から資金全体の三分の一を要請するのですが、この時の助川氏の出資条件は、札幌駅または大通駅を起点として市街地を通り石山までは馬鉄線を利用するというものでした。
この当時、助川氏は札幌馬車鉄道株式会社の要職にありました。前身である札幌石材馬車鉄道株式会社時代に開業した石山線は市街南一条線と連絡しており、さらに札幌駅前より中島公園の女子職業学校へ南北に走る通称「停公線」と連絡するなど、市街路線はかなり充実していました。助川=定山渓鉄道が誕生する条件には、この石山線の全線および市街戦の一部流用があったので、南一条で屈曲して東進、駅前通交差点付近(三越前?)を起点とするか、あるいはそのまま北進して北五条で曲がり、札幌駅前まで東進する方法がその条件だったのではないかと想像できます。ただしその場合、市街部は併用軌道となり、また鉄道院線との物理的な接続が考慮されていない場合は、定山渓鉄道のそもそもの目的であった木材や鉱石運搬という目的に不都合が生じることになります。
助川氏への出資依頼と最初の免許申請との前後関係がはっきりしないので想像となりますが、おそらくは、この最初の認可は助川氏の条件を考慮した折衷案だったのではないかと推測します。つまり、何らかの理由で市街地は避け、軍艦岬付近(現南三〇条~山鼻川付近)までは豊平川の河川敷を利用、そこから先は馬鉄石山線に乗って道路上を石山まで進む、というルートだったのではないか、と考えられるのです。冒頭で触れたとおり、大水害により結局これは実現しませんでした。後に松田氏自身は、この出資要請は本意ではなかった、とも伝えられています(吉原町長の手記)。
歴史的にはご存じの通り、その後起点を白石駅へ変更して申請、大正七年の開業となるわけですが、その時、定山渓鉄道株式会社の重役に助川氏の名はありませんでした。札幌電気軌道株式会社取締役だった彼は同年、北海道大博覧会会期中に馬鉄路線を路面電車に更新、開業させます。もし、助川=定山渓鉄道が実現していたら、現在の石山通を含めた札幌市内の交通状況は現在と全く違うものになっていたかもしれません。札幌駅もしくは苗穂駅に乗り入れ、市内中心部を併用軌道で、まるで江ノ島電鉄腰越~江ノ島間のようなイメージで走る姿を、つい想像してしまうのです。
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