定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その五七 「白石停車場」】

 

 大正七年一〇月一七日、秋晴れの空の下、開通を祝うために訪れた人々の歓声の中を定山渓行き一番列車は白石停車場を出発します。この日が定山渓鉄道の開業でした。

 遡ること五年ほど、当初の計画では鉄道院線苗穂駅を起点として免許を受けたのですが、建設開始直前に起こった大雨により豊平川に大決壊を生じたために、予定路線に線路を敷くことが困難となります。あらためて計画を練り直した末、起点をこの白石駅へ移して線路を敷設することとなったのでした。

 

 白石の歴史は古く、明治四年に北海道移住開拓使貫族を命じられた旧白石藩士数百名が、若き家老佐藤孝郷(当時二十二歳と伝えられる)をリーダーに望月寒川流域に入植した時から始まりました。あらかじめ開拓使が築いた道(現在の国道十二号線)に沿って土地割りされた部落はわずかな期間で作り上げられ、これを称えた岩村判官により後に白石村と名付けられました。その後、明治一五年一一月一三日にこの部落と並行して幌内鉄道札幌~幌内間が開通することになりますが、現在のJR白石駅のやや東寄り付近に、乗降が必要な時には旗をあげて列車を停め、乗降や貨物の取り扱いを行うフラグステーションが置かれたのが、白石駅のルーツになります。ところがこのフラグステーションは白石、あるいは北側、北郷周辺の入植者の利便に供されたはずであるにもかかわらず、なぜかわずか一年足らずで休止されてしまいます。その理由は不明ですが、その後、人口が劇的に増えて街並みも発展してきた明治三六年に再び駅が誕生。その敷地は当時もっとも大きかった鈴木レンガ工場の敷地一部が提供されたもので、レンガや農作物の積み出し駅として文字通り流通拠点として賑わったそうです。

 さて、時は大正に戻って五年春。苗穂駅を断念し鉄道省との接続を白石に求めた定山渓鉄道の建設準備が進められます。再申請の免許路線では厚別向きに出て大きく南へ方向を変え月寒へ抜ける計画でしたが、東側の鈴木レンガ工場敷地、白石本通に並ぶ市街地、そして月寒の独立歩兵大隊の存在が影響したためか用地取得が困難となってこれを変更。札幌向きへ分岐して白石村の西端付近へ市街地を避けるように豊平へと向かい線路を敷設した時にはすでに一年が経過していました。

 この区間の路線に関しては誤解もあるようなので念のため記しておきますが、千歳線末期に東札幌~白石間に存在した貨物専用線と、定山渓鉄道線とは別物です。前者は現在でもその線路の跡の築堤を見ることができますが、後者はもうその面影を見つけることはほぼ不可能となりました。四角く区割りされた田畑をナナメに横切るように延びていた線路は、昭和四年の電化後も蒸気機関車の牽く貨客混合列車によって数本運行されていましたが、昭和一八年に旅客営業を廃止。昭和二〇年には戦時供出によりレールが取り除かれ、同時に白石~東札幌間は廃止となってしまいます。定山渓鉄道の起点駅であった白石停車場はこの時起点駅を返上。戦後の宅地開発は、その線路跡地をすっかり消し去りました。

〈白石停車場〉

大正七年一〇月一七日開駅。定山渓鉄道最初の起点駅。

ちなみに定山渓鉄道の起点は省線二九三km八九六m三九地点(函館起点)。駅舎は共用。ホームは省線と独立した島ホーム片面使用約四五m。蒸気機関車のための転車台と側線が構内に設けられ、貨物積み込みホームが駅舎並びにあった。

 

※カットは背景が大正一二年発行『定山渓鉄道案内』から。左下地図は昭和二〇年ごろのものと思われる豊平町全図より抜粋。空中写真は国土地理院 昭和二三年撮影。

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

 

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