定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その五六 「東札幌停車場」】

 

〈東札幌停車場〉

大正一五年八月二一日開駅。

定山渓鉄道の起点駅。

ホーム長五九m島式二面(一、二番線)。

図面は昭和四一年六月二三日のもの。

 

 東札幌停車場が誕生したきっかけとなったのは、大正一五年八月二一日の北海道鐡道(沼ノ端~苗穂)の開業でした。これは富内(ヘトナイ)周辺の鵡川付近で産出される鉱石輸送を目的に北海道礦業鐡道として大正七年に発足された私鉄なのですが、本来の目的である鉱石採掘事業が思うように運ばなかったことから、まだ鉄路のなかった札幌~苫小牧間の乗客輸送に目標を切り替えて大正九年に免許を取得。この日の開業を迎えることとなったのでした。しかし、白石~苗穂間で省線に接続する関係上、既存の白石~豊平間を走る定山渓鉄道とは平面交差することとなり、列車運用の連絡業務を行う必要性から当地での停車場開業となったわけです。また北海道鐡道自身も本社を置く重要拠点となりました。この北海道鐡道に関してもその線路用地取得に難航したと伝えられていますが、以前、定山渓鉄道が再免許申請となったルートの月寒坂下での用地取得が適わなかった件が重なってきます。大谷地方面より月寒坂下を通過できれば省線白石駅へ接続することも可能、定山渓鉄道との平面交差もせずに済んだかもしれません。当時、そもそもの線路敷設計画路線がどうであったかは不明ですが、現実には月寒~東札幌~苗穂間でクランク状に急カーブが連続するルートに落ち着きました。そしてそのことが、将来のこの線路の運命も決定づけることとなったのです。

 停車場の位置は定山渓鉄道の豊平~白石間において線路が東へ転進する直前、白石村横丁と呼ばれる一面畑の中に設けられることとなります。通説には冒頭で記したとおり、大正一五年八月に北海道鐡道の東札幌停車場として開業したことになっていますが、その前後のいきさつについては謎が多いのも事実です。ひとつ、例を挙げておきますと…

 

 興味深いことに『さっぽろ文庫別冊 札幌歴史地図〈大正編〉(昭和五五年北海道新聞社発行)』の三〇ページに掲載されている「札幌市及近郊土地價格記入圖(大正一五年)」の当該箇所には、白石村に存在しながら「新豊平駅」と描かれています。この地図の発行時点では北海道鐡道の開業も秒読み段階であったにもかかわらず描かれていない、さらに定山渓鉄道線の白石方面の描画もずれているという不自然さもありますので、地図そのものの信憑性も今一つなところもありますが、ちょうどこの駅を貫くように開拓期より存在していた横丁通の土地価格が室蘭街道並みに高値が付いていることから、あらかじめ駅設置を見越した上で仮の名前として表記してしまった、と想像することもできるかと思います。ちなみに当時の新聞記事によれば、豊平駅がこの位置に移設するという計画も考えられていたらしく、豊平駅周辺の住民による反対運動が伝えられていました。

 

 さて、この東札幌停車場の駅舎および施設は北海道鐡道株式会社が設置、本社も駅舎横に隣接して建築されました。広い駅構内には車庫、保線詰所や職員官舎、側線と転車台も設けられ、北海道鉄道の車両基地となります。一方でこの駅が開業することで横丁通が分断されることとなったため、新たに白石本通と横丁通との間に設けられた道路も北海道鐡道が造って近隣住民の便宜を図ったり、地域の中心駅としての体裁を整えはじめました。それとほぼ時期を同じくして北海道鐡道株式会社の大株主である王子製紙は、定山渓発電所など豊平川沿いに電源開発を担っていた札幌水力電気株式会社を合併。昭和二年には王子製紙の発送電部門を分けて北海水力電気株式会社を設立。翌年には定山渓鉄道へ出資し昭和四年の全線電化へとつながっていきます。つまり、北海道鐡道と定山渓鉄道はいわば王子製紙系グループ会社同士であり、東札幌停車場を接点により密接な関係となっていったのです。

 

 昭和四年一〇月二五日、定山渓鉄道の東札幌停車場~定山渓間の電化を迎えて、そもそも北海道鐡道の車両基地でもあった東札幌停車場構内に隣接する敷地には電車庫や待避線があらた

に設けられ、定山渓鉄道の車両基地となりました。そしてその二年後、定山渓鉄道は北海道鐡道の起点でもある苗穂駅までの電化延長を行い定鉄電車の苗穂乗り入れを果たします。それより以前の大正一一年には苗穂駅前まで市電苗穂線が開業していたので、この電化延長は定山渓温泉への行楽客の利便に寄与することになりました。

 

 東札幌停車場が大きく姿を変え始めたのは戦後でした。昭和一八年には、電化されずに取り残されていた定山渓鉄道白石~東札幌間の旅客営業が廃止(翌年には戦時特例で線路が供出された結果、この区間そのものが廃止。この時、定山渓鉄道の起点駅は東札幌停車場となった)。時を同じくして北海道鐡道が国有化されて国鉄千歳線となります。北海道鉄道時代の車庫や転車台、そして定山渓鉄道白石~東札幌間の線路などが取り除かれた結果、その後の一〇数年でその広大な敷地を利用した貨物ターミナルへと姿を変えていきます。一方で千歳線は函館方面へ向かう国鉄の優等列車の本数が次第に増え、この合間を縫うように苗穂まで乗り入れている定鉄電車があるため、線路容量不足を理由に「苗穂~東札幌間の電化設備撤去」を要求される事態となります。昭和三二年までにはこれを受け入れて設備を撤去する代わりに、ディーゼルカーを使用した札幌駅乗り入れを果たすのですが、その陰で国鉄では、そもそも線形が悪く単線である千歳線の全面付け替え構想がすでに動き始めていました。そして、定山渓鉄道の営業廃止が濃厚となっていた昭和四〇年代にピークを迎えた東札幌駅での貨物取り扱いも、新しく大谷地に造られた札幌貨物ターミナルにその座を譲り徐々に減少。定山渓鉄道廃止撤去後の昭和四八年には新札幌を経由する新しい千歳線が複線で開通して東札幌停車場は旅客営業を停止。昭和六一年一一月、駅業務を含め全面廃止となりました。

 

※カットは上から東札幌停車場平面図。左2枚は現役当時の東札幌停車場(坂氏所蔵)。右上は昭和55年当時の同駅ですでに旅客を取りやめた後。右下は同時期のもので月寒までの貨物線となった旧千歳線に並ぶ定山渓鉄道の電車庫跡。

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

 

 

ⒸhiDeki (hideki kubo) 2014           Contact : st-pad@digi-pad.jp