定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その五三

         「『官報』に見る開業前後の記録」】

 

 『官報』とは、国としての決定事項、報告事項などを広く国民に告知するための国が発行する広報紙のことで、明治一六年以来今日までほぼ毎日(発行業務機関の休日を除いて)発行されているものです。免許取得や駅開業などの情報が当時の記録として残されており、現存資料がほとんど残されていない定山渓鉄道にとっては大変貴重な公的記録とも言えます。わずかな文字数であっても、そこには当時のさまざまないきさつなどを思い描くヒントがちりばめられています。

 以下、『官報』で見ることのできる開業時の動きを時系列で記しておきます。

 

『官報 第二九四號  大正二年七月二十二日』

○輕便鐵道免許状下付 本月十六日輕便鐵道敷設免許状ヲ下付セシ者竝ニ起業目論見ノ概要左ノ如シ(鉄道院)

鐡道種別 蒸気鐡道  軌道幅員 三呎六吋

線路兩端 北海道札幌區苗穂町 北海道札幌郡豊平町字定山渓

延長哩数 十八哩八鎖  資本金 金七十万圓

起業者 定山渓鐡道株式會社發起人松田學外二十四人

 

 国有鉄道苗穂駅を起点とした当初の計画に沿って申請された免許を取得したことを示す公告です。正式には、松田学氏ら発起人二四名によって定山渓鉄道株式会社が設立されたのは大正四年一二月二〇日のことで、最初の鉄道敷設免許の申請は会社設立以前に出されていました。許可はされたもののその後、会社設立のための手続き上の不備や資本金の問題などが噴出し、発起人の間でも足並みはなかなかそろわなかったようです。これは、そもそも定山渓への鉄道敷設構想がどこから生まれてきたのか?という根源的な部分に起因するものと思われますが、この件についての考察は別の機会に回したいと思います。

 さらに、この最初の免許取得からわずかひと月足らずの間に思いがけず事情が一変してしまいます。翌八月二七日から二八日にかけての暴風雨は豊平川の氾濫を招き、流域各所で甚大な水害をもたらしたのです。特に起点の苗穂から豊平川左岸を通る計画路線はことごとく洗い流されてしまい、堤防新設工事が行われることになったため予定通り線路を敷くことが難しくなってしまったのです。

 

『官報 第一一三九號  大正五年五月二十日』

○輕便鉄道起業目論見變更 大正二年七月二十二日本欄内掲載定山渓鐡道起業目論見書記載事項中左ノ通變更ノ件一昨十八日認可セリ(鉄道院)

線路兩端 自北海道石狩國札幌郡白石村至同郡豊平町

延長哩程 十七哩五十七鎖

資本金 三十万圓

 

 豊平川氾濫の後、申請の路線では建設費がかかり過ぎることがわかり、さらに予想外の堤防工事の遅れもあってこのルートを断念。この「一一三九號」は、起点駅を国有鉄道白石駅に変更して再申請し、認可を受けた際の公告です。この計画では白石を出てすぐに南西方向へ転進、天神山西側を回って真駒内種畜場を通り石山陸橋へ至るルートであったと思われます。これは現在の道道八九号線(環状通)、天神山からは平岸通にほぼ符合します。

 

『官報 第一五五ニ號  大正六年十月三日』

○土地収用公告

左ノ事業ハ土地収用法ニ依リ土地ヲ収用スルコトヲ得ルモノト認定ス

起業者 定山渓鐡道株式會社

事業ノ種類 輕便鐵道敷設

起業地 北海道石狩國札幌郡白石村、豊平町、札幌區豊平町地内

右公告ス 大正六年十月三日  内閣総理大臣 伯爵寺内正毅

 

 しかし実際にはルート上にあった白石の牧場での用地取得が難航し、札幌区豊平へ大きく迂回、直進するはずの平岸では線路が果樹園を通過することを嫌われてまた迂回、天神山以西では真駒内種畜場から放牧場内の線路通過を拒まれたために桜山丘陵地へ迂回しなければならないという紆余曲折ぶりでした。

その結果、実際に工事着工にたどり着けたのは再申請の免許を取得した翌年の、大正六年のことでした。

『官報 第一八六七號  大正七年十月二十三日』

○輕便鉄道運輸開始

札幌區豊平町七十三番地定山渓鐡道株式會社ニ對シ本月十六日白石定山渓間運輸營業開始ヲ許可シタルニ翌十七日營業開始ノ旨届出テタリ其哩程左ノ如シ(鉄道院)

白石豊平間 二哩四分  豊平石切山間 六哩一分  石切山藤ノ澤間 一哩六分

藤ノ澤簾舞間 ニ哩四分  簾舞定山渓間 六哩一分

 

 わずか一年半たらずの突貫工事の末、大正七年一〇月一七日に待望の開業を迎えます。当日は秋晴れの穏やかな天気で、沿線は開業を祝う住民たちが大勢駆け付け、処女列車を見送ったと伝えられています。とりわけ定山渓温泉では開業を喜ぶ住人たちが大喜びだったのではないでしょうか。

 ちなみに白石から定山渓までは約二九km九〇〇m。ここを定山渓へ向かって約二時間、復路定山渓からは約一時間四〇分かけての、一日三往復(定期)が運転されました。もっとも、温泉客の増加に伴って時刻表にはない臨時列車もしばしば運転されたのだそうです。

『官報 第三五○三號  大正十三年四月三十日』

○地方鐡道驛設置

定山渓鐡道株式會社所属鐡道瀧の澤驛ヲ設置シ運輸營業開始ノ旨届出アリタリ其哩程左ノ如シ(鉄道省)

簾舞(既設驛)

瀧ノ澤 北海道石狩國札幌郡平岸村字瀧ノ澤

定山渓(既設驛)

簾舞瀧ノ澤間 ニ哩一分

瀧ノ澤定山渓(既設驛)間 四哩

 

『官報 第四ニ四六號  大正十五年十月十八日(月曜日)』

○地方鐡道驛設置

定山渓鐡道株式會社所属鐡道一ノ澤驛ヲ設置シ 本年八月十五日ヨリ運輸營業開始ノ旨届出アリタリ其哩程左ノ如シ(鉄道省)

瀧ノ沢(既設驛)

一ノ澤 北海道石狩國札幌郡平岸村字一ノ澤

定山渓(既設驛)

瀧ノ澤一ノ澤間 一哩二分

一ノ澤定山渓(既設驛)間 ニ哩八分

 開業後は続々と途中駅が設けられていきました。先のふたつの『官報』に示す滝ノ沢、一ノ沢停車場に先んじて、大正九年四月には真駒内にも停留場(のち停車場)が設けられています。滝ノ沢停車場は列車行き違いの目的もあったようですが、定山渓温泉に対する「前の湯」、湯治場として開いていた黄金湯温泉への利用客があり、また当時豊平川対岸の上砥山地区とは渡し船が通じていたので、その便宜を図っての駅設置と考えられます。一ノ沢停車場は、もともと周辺に農家の集落があったことも理由の一つと想像できますが、実は付近に、鉄道建設と時を同じくして一の沢発電所建設工事が始められていました。その一環で、資材積み下ろしのための駐留線が敷かれたのですが、発電所完成と同時に職員の住宅が建てられたために乗降ホームを設けた、という点が大きな理由かと思われます。形態としてはホームだけの無人駅のため、本来であれば停留場なのですが、停車場表等の資料上は「停車場」とされているため、これに準じてここでは一の沢停車場と表記しています。この点についてはまた別な機会に触れたいと思います。

 

※上記『官報』記事部分は国立国会図書館デジタルコレクションに保存されているコンテンツより引用しています。

( http://www.ndl.go.jp/index.html )

旧漢字については当用漢字に置き換えている部分があります。

 

※カットは、大正二年の申請時(青)、大正五年の申請時(緑)の計画路線を推定し、開業後の路線(茶色)と比較したもの。大正二年計画では省線苗穂駅を起点として豊平川に沿ってさかのぼり、石山馬鉄鉄橋付近で川を渡るルートであったが、豊平川の氾濫によりこれを断念。大正五年計画は白石丘陵部の縁を直線的に天神山まで進み、真駒内種畜場を通るルートであったが、白石の牧場や真駒内種畜場とも土地取得が難航したため札幌区豊平へルートを変更。しかし、平岸掘割(平岸街道)でもやはり農家住民の反対により大きく迂回せざるを得なかった。

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

 

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