定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その五二

         「北茨木停留場から澄川停留場」】

 

 大正七年一〇月一七日の定山渓鉄道開業の際に置かれた駅は、鉄道省と共用駅だった白石、豊平、石切山、藤ノ沢、簾舞、定山渓の各停車場でした。豊平停車場は開業当初より機関車駐留線を持つ基地として。石切山停車場は軟石の輸送のため。藤ノ沢はビール原料となる大麦の輸送、そして簾舞は御料林から切り出される材木輸送の拠点であることと、ほぼ中間地点であることから列車交換および機関車の補給水基地を主目的としてそれぞれ設置されました。豊平停車場を出ると果樹園と水田の間をトコトコと進みながら真駒内の放牧場を眺め、石山小隧道を抜けて石切山停車場までは駅がありません。この間、およそ一〇km。その理由のひとつに用地買収がままならなかったという事情がありました。「水田を分断されるのは困る」と沿線住民に当初の線路計画を反対されてしまったため、畑や果樹園と水田の境界を通るように大きく迂回しなければならなくなってしまったのです。もし、平岸街道(掘割)に沿って計画通りに線路が敷かれたならば、古くから開拓民の入っていた歴史ある平岸集落にも駅が置かれていたかもしれません。

 

 比較的入植の早かった天神山から精進川にかけての区間では、水田を避けながら進んだ平岸周辺とは事情がやや異なり、天神山付近を終点とする明治六年ごろに開通した本願寺道に沿って線路が敷かれました。もっともこちらも当初計画では天神山の西側を通り、真駒内種畜場の中を直線的に通過して石山小隧道へと向かっていたのですが、種畜場側からこれを拒否されたための代替ルートでした。駅が置かれなかった点は平岸と同様だったのですが、住民が手を挙げれば列車が停まってくれる、といったことがしばしばあったそうで、特に精進川付近には枕木を積んだだけの臨時乗降場が置かれ、近隣の住民には重宝がられていたようです。これは『郷土史すみかわ(昭和五六年 澄川開基百年記念事業実行委員会刊)』に紹介されている一節で、開業時から地域密着型だった定山渓鉄道の性格付けを物語るエピソードと言えます。

 その後、昭和四年に全線電化を迎えますが、精進川を挟んで五〇〇mほど南側に設けられていた真駒内停留場が停車場となった際に、この臨時乗降場は撤去されてしまいます。一方で

沿線入植者が増えてきたことから駅の設置要望が強くなっていました。また近隣の丘陵地に開設が予定されている平岸墓地や市立札幌病院の静療院の開院予定など乗降客が見込まれることなどの好条件があり、茨木農場の地主である茨木与八郎をはじめとする有志五八名の連署が会社に提出されたのです。それを受けて停留場が開業したのは昭和八年一一月。必要なその用地を茨木農場が無償提供したことから駅名についてはその名を冠することになりましたが、当時すでに、大阪に茨木駅(明治九年開駅)が存在していたため「北」を付けて北茨木停留場と名付けられました。その位置はいわゆる「機械場通り」に沿ったあたりで、現在の交通局澄川変電所付近だったのではないかと推測しています。

 その推測の根拠はこの変電所の存在になります。戦後の急速な宅地化とともに乗降客が増えてきたため、列車交換のための側線を設けた停車場としてやや南側の現在地へ移転したのは昭和二四年八月。このころより電車新造が相次ぎ、運行本数も増えていきました。藤ノ沢停車場敷地に隣接して建てられていた変電所だけでは電気容量が足りなくなり、その不足に対応するためこの北茨木停車場にも変電所が設けられることになりました。そこで北茨木停留場跡の当初の敷地にこれを建設、四年後の昭和二八年一一月より稼働しました。藤ノ沢と並んでここも電力基地となったわけですが、これは札幌市交通局澄川変電所として現在にその任が受け継がれています。

 ちなみに、この停車場移転開業についても用地取得の点で難航したことが駅の位置から想像できます。本来であれば提供を受けた用地の中で側線を設けてホームを拡大できれば良かったはずですが、斜めに線路を横断する機械場通りの存在があって難しいため、南側の曲線部に敢えて用地を求めた、と思われます。結果、機械場通りと本願寺道路とのどちらにもアクセス路のない中途半端な位置に駅舎を建てざるを得なくなり、他の駅舎には例のない改札口と駅舎入口がともに線路側という構造でした。この問題はそのまま廃止後の札幌市営地下鉄澄川駅にも引き継がれ、高架となっても通りから駅が見えない上にアクセスしづらい特殊な構造となってしまいます。結果的に澄川駅前再開発が本格的に動き出したのは札幌オリンピックの後になりました。

 ところでこの付近一帯は昭和一九年の字名改正に伴って、「精進川の澄んだ流れ」を語源に現在の澄川という名称にに変更されます。と同時に駅名変更も検討されたようですが、駅用地を提供した茨木与八郎への功績を残す意図があったためか北茨木停車場のままで変更されずに残されました。

古くから茨木農場ととともに発展してきた土地柄もあって、慣れ親しんだ駅名を変更することに近隣住民の間でも抵抗があったのかもしれません。

駅名が澄川と変更になったのは昭和三二年一二月ですが、この時、定山渓鉄道株式会社は大きな変革を迎えていました。正式に東急系列に入ったのが同年の一〇月。そしてあらたに設けられた不動産部の事業として宅地開発を始めるにあたり、分譲地の地名との整合性からこの駅名変更へとつながったものと思われます。そして昭和三八年、列車交換のための側線を設けた澄川停車場からその側線が消え、ホーム片面のみの停留場に再び戻ってしまいます。それは、鉄道廃止へのカウントダウンの第一歩とも捉えられる小さな変化でした。

 

〈北茨木停留場→北茨木停車場→澄川停車場→澄川停留場〉

昭和八年一一月三〇日開駅。

東札幌起点より延長四km七三〇m。

ホーム長五〇m 定山渓方左側一面。北茨木停車場として移設開業時は島式ホームで上下線二面使用。ホーム幅二.七m。

昭和三八年更新の駅平面図による。

 

※カットは、上が澄川停留場平面図で昭和三八年単線ホーム時のもの。二段目左は現在の「機械場通り」。高架柱を挟んで道路の上下線が分かれているが、かつての道筋は向かって右寄りの方だった。その下写真は澄川変電所と地下鉄シェルター。札幌市交通局澄川変電所の前身が北茨木変電所であり、当初の北茨木停留場と推測。二段目中写真は昭和五八年ごろの地下鉄澄川駅で改修工事が行われていた時のもの。駅舎のあった位置は写真右側植込みのあたりか。二段目右は国土地理院空中写真で昭和三六年の北茨木停留場付近。その下は、平面図と同じころのホーム側から見た澄川停留場駅舎。駅舎の手前側が駅員住宅で向こう側が駅舎部分。駅のすぐ裏は建物が並んでいたため、線路側からしか駅にアクセスできない構造。

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

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